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六十二話 ヴォルテスの企み

 床を滑ったクレインは、ゆっくりと身を起こした。

 

 俯いたまま、肩が小刻みに震えている。


「……く、くく……」


 喉の奥で、笑っていた。


 それは怒りに震える笑いではない。

 壊れかけた何かが、ようやく殻を破ったような不気味な笑い声だった。


「何が……大違い、だ……」


 ゆっくりと顔を上げる。


 その目には、もはや理性の色はほとんど残っていなかった。


「何も変わっていないだろう?

 調子に乗るなよ……小娘が」


 クレインの全身から、どろり、と闇が溢れ出した。


「……っ!?」


 ルーシーは思わず息を呑む。


 足元から滲み出した闇は、床を這い、壁を舐めるように広がっていく。

 まるで生き物のように蠢きながら、部屋そのものを侵食していた。


 空気が、変わる。


 冷たい。

 なのに、ただ冷えるのとは違う。


 そこにいるだけで、何か不吉なものに呑み込まれていくような、嫌な圧迫感があった。


怨闇ダーク・リベリオンの闇魔法の前では……

 前のお前も今のお前も、大して変わりはない」


 クレインはふらつきながらも杖を構える。


 その背後では、闇が渦を巻き、天井近くまで膨れ上がっていた。


「ただ――ひたすらに、呑み込むだけだ」


 ルーシーはフルートを構えたまま、一歩も動けない。


(何……これ……)


 さっきまでの闇魔法とは、明らかに違う。


 魔法というより――

 もっと禍々しく、もっと危うい何かが、クレインの中から滲み出しているようだった。


「見せてやろう……」


 クレインが、ぐにゃりと口元を歪める。


怨闇ダーク・リベリオンの――本当の絶望をな」



◇◇◇◇◇

 

 

 ――音が反響するドーム状の大部屋。


「君に人生そのものを壊された者だ。

 その責任と――向き合うがいい」


 ヴォルテスのその言葉が、アリスの胸にわずかに引っかかった。


 だが、考える暇は与えられない。


 フィーラが拡声器型杖を口元に当て、歌うように声を響かせた。


「……なに? 歌?」


 アリスは目を細め、その音に耳を傾ける。


「《サウンド・インパクト》」


 直後、空気そのものが震えた。


 圧縮された衝撃が、目に見えぬ波となってアリスへ襲いかかる。


 だが――


「《ストーン・タートル》」


 アリスが一音だけフルートを鳴らす。


 瞬時に地面がせり上がり、分厚い石亀が音の衝撃波の前に立ち塞がった。


 ――バキッ。


 鈍い音とともに、石亀の甲羅に無数の亀裂が走る。


「音波系の魔法かしら?

 詠唱ではなく、歌うことが発動の鍵になっているのね」


 アリスは石亀の亀裂を見ながら、感心したように呟く。


「なかなかの威力だわ」


 フィーラが目を見開き、続けざまに唄う。


「もう一発!

 《サウンド・インパクト》」


 追撃の音波が石亀を叩き、亀裂の入った甲羅はついに粉々に砕け散った。


 だが、その時にはアリスはすでに余裕の笑みを浮かべていた。


 砕け散った石片が、宙で形を変えていたのだ。


「《ストーン・バット》」


 舞い散る破片が無数の石の蝙蝠へと再構築され、群れをなしてフィーラへ襲いかかる。


「……くっ!

 《サウンド・バリア》」


 フィーラの歌に応じ、音波の幕がその身を守るように広がった。


「いい反応だわ」


 アリスがそう言い終えるより早く、フィーラは再び歌い始める。


「《サウンド・スラッシュ》」


 見えない斬撃が幾重にもアリスへと飛んだ。


「音波そのものは見えなくても――」


 アリスは静かに目を細める。


「魔素の濃さで、魔法の位置くらいはわかるわ」


 掌を魔素で覆い、そのまま前へ差し出す。


 ――バリ! バリ! バリ!


 音刃が掌に触れるたび、粉々に砕け散る音だけが響いた。


「さすが伝説とまで呼ばれた魔女……

 力は衰えるどころか、さらに増しているじゃない」


 フィーラの額に、じわりと汗が滲む。


 アリスは感じていた。


 確かに、並の魔法使いではない。

 音波魔法の完成度も高い。


 だが――


(……それにしては、妙ね)


 アリスは小さく眉をひそめた。


 フィーラは間違いなく強い。

 だが、それでも足りない。


 あのヴォルテスがあれほどの自信を見せるには、あまりにも物足りなかった。


「……あなた、本当にそれだけ?」


 アリスが静かに問いかける。


「ヴォルテスが自信を持って、私にぶつける駒にしては……

 あまりに弱いわね」


「わたしが弱い……?

 ふざけないでよ!」


 フィーラが拡声器型杖を握りしめ、アリスへと駆け出した。


「余裕ぶって……まるでわたしなんて視界に入ってないみたいに!」


「《デスサウンド・リサイタル》!」


 七色のアンテナが、フィーラの背後にぼんやりと浮かび上がる。


 アリスはフルートを一音だけ鳴らした。


「《ストーン・タートル》」


「あんたを倒すために……今まで生きてきたんだよ!

 わたしは!」


 フィーラの叫びと同時に、石亀の甲羅に亀裂が走る。


「あなたの声そのものが、魔法へと変わるっていうの?」


 アリスは石亀だけでは防ぎきれないと判断し、全身へ素早く魔素を巡らせた。


「昔っから、あんたが嫌いだった!!」


 ――ビキッ!


 目に見えぬ音波が、アリスの纏う魔素を削る。


「私があなたに何かしたかしら?」


「絶詠の魔女……!

 その存在そのものが、わたしを歪めたんだ!」


 フィーラの瞳が憎悪に揺れる。


「あんたなんか……最初から、いなければよかったんだ!!」


 ――ビキッ!


「このままだと……少しまずいわね!」


 アリスは即座にフルートを奏でる。


「《ウィンド・ドルフィン》」


 風海獣が唸りを上げ、フィーラを正面から吹き飛ばした。


「かはっ!」


 追撃をかけるように、アリスが再びフルートを構える。


「これで終わりにするわ」


 しかし、その時だった。


「待て、魔女よ。

 君は哀歌エレジーのことを知ってなお、

 彼女に魔法を向けることができるかな?」


 ヴォルテスが後ろから口を挟んだ。

 

「さっきから何を言っているの、ヴォルテス!」


 ヴォルテスが、何か合図をしたその瞬間――


 ――キィィィン。


 耳の奥を刺すような、細く不快な音が響いた。


「……っ!」


 フィーラの表情が凍りつく。


 拡声器型杖を取り落とし、両手で耳を押さえた。


「や、やめ……その音、やめて……!」


 フィーラの周囲から音の波紋がぶわっと広がる。


「な、何が起きているの?」


 アリスは思わず辺りを見渡した。


「や、やだ!!

 ぎゃあああああああああっ!!」


 フィーラの悲鳴が、床に落ちた拡声器型杖を通して甲高く響き渡る。


 同時に、その周囲から見えない音波の魔素が噴き出していった。


「魔素を探っても……攻撃の流れが読めない!」


 アリスは即座に全身へ魔素を巡らせ、相手の魔法に備えた。


 音波がアリスの体を通り過ぎる。


 だが――


 そこに攻撃性はなかった。


 音波を浴びた途端、空間がぐにゃりと歪む。


 景色が滲み、輪郭が崩れ、色が溶けるように混ざり合っていく。


「これは……精神魔法? 幻覚?」


 フィーラの悲鳴とともに広がった音波は、広間全体を包み込んでいた。

 だが、そこに殺傷性はない。

 それは意識だけを強引に絡め取り、幻覚へと引きずり込む精神干渉の魔法だった。


 気の弱い者なら、それだけで意識を失ってもおかしくない。

 それほどまでに濃密な精神干渉だった。


「……これは」


 気がつくと、アリスの目の前にはひとりの小さな少女がいた。


「幻覚……? いいえ、記憶のようなものかしら」


 アリスは試すように周囲へ手を伸ばす。

 だが、近くの物にも人にも触れられない。指先は何の手応えもなく、すり抜けていった。


「干渉はできない……そういうことね」


 アリスは不思議な空間へと誘われていた。

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