六十話 黒ローブの男
滴った血が宙でひと塊になり、不気味に蠢いた。
まるで、生き物のように。
「血よ……棘となり、這い回れ。
《ブラッド・ソーン》」
直後、血塊が弾けた。
そこから棘を備えた血の蔦が幾本も伸び、蛇のように床を這いながらロウへ襲いかかる。
「橙炎よ! 守る盾となれ!
《ファイヤー・シールド・トパーズ》」
ロウの眼前に橙炎の盾が展開された。
だが、ブラッドは嗤う。
「おいおい。それはさっき見たぜ?」
血棘蔦は盾に阻まれるどころか、炎の表面を舐めるように這い、横へ、上へと回り込んでいく。
「なんだよ……これは!」
気づけば、蔦はすでにロウの頭上を通り越していた。
「――削り取れ」
ブラッドの命令と同時に、血棘蔦が一斉に引き戻される。
「ぐあああああああっ!」
棘がロウの肩口を抉り、皮膚を容赦なく削ぎ落とした。
鮮血が飛び散り、ロウは肩を押さえながらよろめいた。
「その盾はもう見切ってんだよ。
どうした? もう打つ手なしか?」
「……なんて魔法だ。
本当に自在に動きやがる……」
ロウが舌打ち混じりに呟くと、ブラッドは獰猛に口角を吊り上げた。
「もう一度いくぜ。
血よ……棘となり、這い回れ。
《ブラッド・ソーン》!」
再び血が蠢き、棘を生やした蔦となってロウへ襲いかかる。
「こっちもぶつけるしかねぇ!
――緑炎の縄よ。絡みつき、逃がすな!
《ファイヤー・ロープ・プラント》!」
ロウの放った緑炎が縄のようにしなり、迫る血棘蔦へ絡みついた。
「蒸発させようたって無駄だ」
「そうじゃねぇさ――動き回るなら、縛っちまえばいい!」
緑炎の縄は血棘蔦に幾重にも巻き付き、その動きを封じていく。
「それで――こうだっ!」
ロウは緑炎の縄を力任せに引き上げた。
「……なに?」
血棘蔦を通じて繋がっていたブラッドの体が勢いよく引っ張られ、そのまま地面へ叩きつけられる。
鈍い衝突音が響いた。
「緑炎は持続の炎だ。熱はねぇ……
だが、その分こういう使い方ができる!」
「チッ……手品みてぇな真似しやがって!」
ブラッドは舌打ちすると、躊躇なく自らの手首を斬り裂いた。
ぶしゅっ、と大量の血が噴き出す。
常軌を逸したその光景に、ロウは目を見開いた。
「血が出れば出るほど、俺の血魔法は強くなる。
省エネじゃ埒が開かねえ」
「省エネ……だと?」
ロウは痛む肩を押さえる手を離し、真っ直ぐにブラッドを睨み返す。
「俺はノイスを助けるまで、倒れるわけにはいかねぇ。
全力で行かせてもらう。《炎色反応》!」
ロウの周囲に七色の炎が一気に噴き上がった。
赤、橙、緑、蒼――
幾つもの炎が渦を巻き、空気そのものを震わせる。
「……っ!?」
ブラッドの目が愉悦に見開かれる。
「こっからは出し惜しみなしだ!
俺の炎……全部で――お前を倒す!」
七色の炎を背負い、ロウは一歩踏み出す。
その姿を見たブラッドは、口元を歪めて笑った。
「種火男……おもしれぇじゃねえか!」
ブラッドは血塗れの口元を吊り上げた。
「もっとだ。もっと楽しませろよ――命の炎が燃え尽きるその瞬間までなぁ!」
二人は同時に地を蹴った。
◇◇◇◇◇
ルーシーは、ひとり暗い通路を駆けていた。
壁に取り付けられた魔導灯が、弱々しい青白い光を落としている。
けれど、その明かりは頼りなく、少し先はもう深い闇に沈んでいた。
「はぁ、はぁ……」
息が上がっても、ルーシーは足を止めない。
胸の鼓動が速い。
だがそれは、暗い通路を一人で進む恐怖だけではなかった。
「さっき、目の前で消えたあの魔法……
私は、誰かに助けられたのでしょうか?」
首元まで伸びた血鎌。
しかし、首を断ち切るその瞬間に血鎌は消えた。
ルーシーは震える手で首を撫でる。
「気にしている場合ではありませんね」
それよりも、ノイスとアリスのことが心配だった。
「ノイスくん……絶詠の魔女様……」
小さく名前を呟く。
絶詠の魔女アリスは誰よりも強い。それは今でも一切疑ってはいない。それでも、胸騒ぎが止まらなかった。
「急がなきゃ……」
暗い通路に、自分の声が小さく響く。
ぎゅっとフルートを握り締めた。
ひんやりとした空気が頬を撫でる。
足音だけが、やけに大きく響いていた。
やがてルーシーは、一枚の大きな扉の前へとたどり着く。
「……行くしか、ありませんね」
小さく息を呑み、ルーシーは意を決して扉を押し開けた。
扉の中は、薄暗く、過剰な装飾に満ちた部屋。
そこにいたのは――
どっしりと椅子に腰掛ける、黒ローブの男だった。
深く被ったフードのせいで、その顔は見えない。
「……あなたも、欠陥魔人なんですか?」
警戒を隠さず問いかけると、男は喉の奥で愉快そうに笑った。
「ははは……そう思ってもらって構わないよ、ルーシー・ウィンディ。
君がここまで来てくれたとは……実に嬉しい」
馴れ馴れしく名を呼ばれた瞬間、ルーシーの表情が強張る。
「……私を知っているのですか?
それに、もしかして――先程の攻撃を止めたのも、あなたですか?」
「ああ、そうだ。あれを止めたのは私だ」
淡々と返され、ルーシーはわずかに目を細めた。
ブラッドの攻撃を止めて、助けてくれた。
それだけを聞けば、味方のようにも思える。
だが、この男から漂う気配はあまりにも不気味で、どうしても油断する気にはなれなかった。
「……助けてくれたことには感謝します」
ルーシーはフルートを握る手に力を込めたまま、慎重に言葉を続ける。
「でも、どうして私を助けたんですか?
あなたは……私たちの味方なんですか?」
「味方……ね」
黒ローブの男は小さく笑う。
「ただの気まぐれさ」
その答えに、ルーシーはますます警戒を強めた。
「では……一つ、教えてください」
できるだけ冷静に、毅然とした声で問う。
「絶詠の魔女様と、ノイスくんは……今どこにいるんですか?」
男はわずかに首を傾けた。
「それは――私への頼みごとかい?」
くつくつと、楽しげな笑いが漏れる。
ルーシーはその声音に不快感を覚えながらも、視線を逸らさない。
「……頼み事と言えば、教えてくれるんですか?」
「ああ。教えてあげてもいいよ」
あまりにも軽い返答に、ルーシーは拍子抜けした。
「欠陥魔人は嘘をつかない」
「では――」
「だが、その前にだ」
男の声が、ねっとりと絡みつくように響く。
「君は“物の頼み方”というものを、未だに理解していないようだ」
「……頼み方、ですか?」
「ああ」
黒ローブの男は、愉しげに口元を歪めた気配を滲ませる。
「今ここで服を脱いで、教えてくださいと頭を下げるんだ」
「……何を言って――」
「敵地で服を着たまま、幹部にお願いをするやつがどこにいる?」
その言葉に、ルーシーの瞳が揺れた。
胸の奥に、ぞわりと嫌な感覚が走る。
この言い回し。
この、相手を見下しながら愉しむような口調。
そして――服を脱げ、という命令。
「まさか……あなたは……!」
ルーシーは黒ローブの男を睨みつけた。
「先程、君を助けたのは気まぐれだと言ったが――半分は本当だ」
黒ローブの男は、ゆっくりと立ち上がる。
「だが、あんなとこで死なれては困る。
君には、私の前でやってもらわなきゃいけないことがあるからね」
一歩、また一歩と、黒ローブの男が近づいてくる。
「痴態を晒し、涙を流し、頭を下げ、命乞いをする……。
そして――自ら屈服する」
フードの奥で、口元だけが歪んだように見えた。
「私は、その姿がたまらなく好きなんだよ!」
「……っ!」
ルーシーの背筋を、ぞわりと悪寒が駆け抜けた。
脳裏に蘇るのは、あの光景。
裸になれと迫られ、何人もの男たちに囲まれ、いやらしい視線で舐め回すように見つめられた、あの屈辱の記憶だった。
喉の奥がひりつき、指先が震えた。




