六話 力の差
――状況は、最悪だった。
ルーシーは、貴族寮の応接室の中央に立たされていた。
すでに脱いだローブと靴下、それに靴が足元に揃えられていた。
背後には閉ざされた扉。
逃げ道はない。
正面には、ゆったりと椅子に腰掛けたクレイン。
その周囲を囲むように、数人の貴族生徒たちが立っている。
誰一人、止めようとはしない。
むしろ――楽しんでいる。
(……大丈夫。
ここで耐えれば、ノイスくんに謝ってもらえる……)
胸の奥で、そう言い聞かせる。
だが、恐怖で手が震えていて、ボタンに手がかからない。
「どうしたんだ? 手が止まってるぞ?」
クレインはその様子をにやにやと眺めていた。
「そーだ! そーだ!」
「早くしろ!」
「馬鹿! あの怯えてる顔がそそるんじゃねぇか」
取り巻きたちも急かすように声をかけてくる。
(やだ……怖い……気持ち悪い……)
だが反応すれば、相手の思う壺だ。
余計なことは言わない。
感情も、見せない。
絶対にノイスくんに謝罪してもらう。
そう決めて、ルーシーはここまで来ていた。
――はずなのに。
涙が滲んで、震えが止まらない。
(ブラウスを脱いだら下着が……見えちゃう)
くすくすと、周囲が笑う。
「クレイン様!
俺もう我慢出来ねえよ!」
いつまでも動けないルーシーに痺れを切らし、取り巻きの一人が興奮したように駆け寄ろうとする。
「やめろ、下品なやつめ! それでは意味がないんだ。
自ら屈服する。その姿がいいんだ」
「でも、これじゃ日が暮れちまいますよ。クレイン様」
「確かにそうだな。私たちも暇じゃない。
十数えるまでに脱がなかったら、この話はなしだ」
「そ、そんな……まだ、心の準備が」
「十、九、八、七……」
クレインは愉快そうに笑う。
「六、五、四……」
(誰か……助けて。
絶詠の魔女様!)
「三、二、一」
ルーシーは意を決して、ボタンに指をかけた。
ブラウスがはだける瞬間――
眩い光がルーシーの体を包み込む。
「な、なんだ! 眩しいぞ!」
目を開けた時、そこには男性用の制服を身に纏ったルーシーと、いるはずのないノイスが立っていた。
「うーん……制服を圧縮しているせいで皺だらけだね」
「……ノ、ノイスくん!?」
「やあ、ルーシー。
僕が作った《瞬間換装具・五号》はどう?
男物の制服だから、やっぱりルーシーには大きかったかな」
空気が、一瞬で凍りつく。
「なっ……!?
おまえ……どうやって、ここに入った!」
クレインが叫ぶ。
「おい! 鍵は閉めたんだろうな!」
取り巻きの一人が慌てて扉へ駆け寄り、
ドアノブに手をかける。
――ガチャガチャ。
「……し、閉まってます。
鍵は……確かに、かかったままです……」
ざわ、と応接室が騒めいた。
「ばかな……」
クレインが、歯噛みする。
「瞬間移動だと……?
そんな魔法、聞いたことが――」
ノイスは、首を傾げた。
「瞬間移動かあ……
いつか、そんな魔道具も作れるといいな」
「ノイスくん……私……」
声が震え、目元は赤く滲んでいる。
――泣いていたのは、明らかだった。
その様子に気づいたノイスは、少しだけ目を細めると、
まるで散歩に誘うかのように、穏やかに微笑んだ。
「帰ろっか。ルーシー」
その一言が――
張り詰めていた空気を、真っ向から踏みにじった。
「……ふざけるな」
低く、地を這うような声。
クレインの顔は、血管が浮き出るほど赤く染まっていた。
「楽しみの邪魔しやがって……
お前のその余裕ぶった態度が……気に食わないんだよ……!」
拳が、ぎり、と嫌な音を立てて握り締められる。
「別に余裕ぶったつもりはないんだけどな」
とぼけるノイスを睨みつける。
「もういい」
感情を切り捨てるように、冷たく言い放った。
「……こいつを殺せ」
「ク、クレイン様……!
さすがに、それは――」
「構わん」
即答だった。
「責任はすべて、私が取る」
クレインは杖を構え、ノイスとルーシーへと向ける。
それに呼応するように、取り巻きたちも一斉に詠唱を始めた。
「やめときなよ。
こんな密室で魔法を撃ち合ったら、洒落にならないって」
「うるさい!!
もうどうなっても知らんぞ!」
「業火の炎よ――」
「疾風の風よ――」
「流水の水よ――」
「雷鳴の雷よ――」
「氷結の氷よ――」
「硬土の土よ――」
次々と重なる詠唱。
属性も威力もバラバラな魔法が、同時に放たれようとしていた。
(……なんか“頭痛が痛い”みたいなこと言ってる)
「危ないっ! ノイスくん!!」
「大丈夫だよ」
一歩、前に出る。
(……あ、でも詠唱しないとダメなんだっけ)
「えーっと……」
一瞬だけ考え――
「た、盾……えーっと……頭痛が痛い
じゃなくて…… 各属性の盾よ、守れ」
次の瞬間。
ノイスの前に、六つの魔法陣が同時に展開される。
炎、水、風、雷、氷、土――
六属性すべての盾。
放たれた魔法は、
ぶつかることなく、それぞれ同じ属性の盾に吸い込まれた。
「――なっ……!?」
あまりにあっさりとした光景に、クレインの声が裏返る。
「六属性……全てを扱うだと……
しかも……あんな、ふざけた詠唱で……!」
信じられない、という表情で叫ぶ。
「ノイスくん……すごい。
六属性を、同時に……」
ルーシーは、呆然と呟いた。
「え? それって、すごいことなの?
うーん……そうなのかぁ」
心底わからない、という顔で首を傾げるノイス。
「ク、クレイン様!
あいつには魔法が……効きません!」
取り巻きの声が、裏返る。
「……っ。
そんな馬鹿な話があるか!」
クレインは、声を荒げた。
「なら……取り囲んで捕まえろ!
相手はふたりだ!」
「は、はいっ!」
「絶対に逃がすなよ!!」
「うおおおお!!」
取り巻きたちが、一斉にノイスへと飛びかかる。
狭い室内に、殺意が満ちる。
(魔法だと、怪我させちゃうかもな。
威力の調整が難しい……)
「あっ」
――バシュン!
乾いた音と同時に、光が弾けた。
次の瞬間。
取り巻きたちの制服がはらりとはだけ、全身が光に包まれる。
「なっ――!?」
そして、光が消えた時には取り巻きたちは全裸になっていた。
「ご、ごめん!」
ノイスが慌てて言った。
「《瞬間換装具・五号》は一着分の着替えしかまだ入らないんだ。
セットしてないのに起動すると脱がせるだけになっちゃうんだ」
気まずそうに頭を掻く。
「な、なんだそれは……!」
「く、くそう! わけの分からない道具を……!」
全裸になった取り巻きたちは体を隠し、その場に立ち尽くした。
「何をしている! 裸になったくらいで立ち止まるな!」
クレインの叫びに、取り巻きたちは誰一人として応じなかった。
「この……役立たずが!」
吐き捨てるように叫び、クレインは杖を強く握り締める。
「もういい……!私が実力の差を見せてやろう。
業火の炎よ。灼熱の奔流を生み出し――」
杖へ、ありったけの魔素が注ぎ込まれる。
室内の温度が一気に跳ね上がり、空気が歪む。
「ク、クレイン様の極大魔法だ!」
「やばい、逃げろ!」
取り巻きたちは悲鳴を上げ、我先にと扉へ殺到した。
「――全てを、焼き尽くせ」
最後の言葉とともに、クレインは吼える。
「《クラウン・インフェルノ》!」
詠唱と共に現れたのは、王冠の形を思わせる巨大な炎。
「ああ……室内でそんな魔法使ったら、危ないってば」
炎を前にして、ノイスはゆっくりと手をかざす。
「えーっと……鎮火の水よ。
いや、消火……じゃなくて……そうだ」
それは、教室でクレインが唱えた詠唱。
「――水よ」
――ぼん。
気の抜けたような音とともに現れたのは、
拳ほどの、水の塊。
《ウォーター・ボール》。
あまりにも貧弱。
誰もがそう思った、その瞬間だった。
水球が炎に触れた途端――
まるで吸い込むように、周囲の炎を瞬く間に飲み込んだ。
――ジュッ。
短い音とともに、灼熱が掻き消えた。
そして。
炎を飲み込んで、なお勢いを保った水球は、
そのままゆっくりと、クレインの顔面へと、直撃した。
バシャァ!
「ぶっ……!?」
派手な水音。
頭から水を被り、
クレインは呆然とその場に立ち尽くす。
ノイスは目を瞬かせた。
「あ……ごめん」
気まずそうに頭を掻く。
「君の炎と相殺するように、威力を調節したつもりだったんだけど……
思ったより火が弱かったみたい。
水、かかっちゃった」
沈黙。
「……でもさ。
教室で僕にも、水かけたよね?
だから……おあいこ、ってことでいいかな」
その場にいた誰もが、言葉を失った。
――理解が、追いつかなかった。
極大魔法。
クレインが誇る最後の切り札。
それを。
適当な詠唱の、ただの水球で――
“相殺”したと言っている。
「……は?」
クレインの口から、かすれた声が漏れた。
制服は水を吸って重く垂れ下がり、
髪からは雫が落ちる。
「……威力を調節しただと?」
視線が震える。
理解を拒むように、何度も首を振る。
「ふざけるな……!
あれは、紛れもなく私の全力……
オルドゥスト家の誇りだったんだぞ……」
震える視線が、ノイスと交差する。
そこにあったのは、怒りでも、勝ち誇った笑みでもない。
ただ、不思議そうにこちらを見ているだけの瞳だった。
クレインの膝が、がくりと落ちる。
「か、勝てっこない。
ば、化け物だ……」
唇が震え、言葉にならない。
「あんな適当な詠唱で……
六属性を同時に扱い……
極大魔法をものともしない……」
顔を上げたクレインの目には、
もはや怒りも、傲慢さもなかった。
あったのは――
恐怖だけだ。
「や、やめろ……
近寄るな……もうやめてくれ」
声が裏返る。
「別に近寄ってなんかいないじゃないか」
その様子を、ルーシーは呆然と見つめていた。
(……圧倒的な力の差に怯えているんだわ……)
「ひっ……! ノイス様、もう許してください……」
クレインが床にひれ伏す。
(これが――
絶詠の魔女様の……弟子)
ルーシーの胸の奥が、熱くなる。
怖いほど強くて。
信じられないほど自然で。
あまりにも規格外。
(……水をかけられて、何もしなかったのではなくて――
次元が違いすぎて、相手にしていなかったんですね)
胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
(ノイスくんって人は、本当に……)
この時、クレインは完全に理解していた。
自分が挑んだ相手が、
決して触れてはいけない存在だったことを。




