五話 謝罪
教室の扉が、がらりと開いた。
「……何かあったか?」
戻ってきたスコルドが、教室を一瞥する。
濡れた床。
視線を逸らす生徒たち。
そして――濡れた雑巾を手にしたまま、席へ戻ろうとしているノイス。
一瞬、教室の空気が張り詰めた。
「あはは、すみません。
ちょっと水をこぼしちゃって……」
そう答えたのは、ノイスだった。
スコルドはノイスをじっと見つめ、
何かを察したように、わずかに眉を動かす。
だが、それ以上は踏み込まなかった。
「そうか」
それだけ言うと、黒板へ向き直る。
「では、授業を始める」
チョークが黒板を叩く音が、
先ほどまでの出来事を塗り潰すように教室へ響いた。
――まるで、何事もなかったかのように。
だが。
ノイスの背後では、
ルーシーの拳が、今もなお強く握りしめられていた。
そんなルーシーの様子に気づくこともなく、ノイスはこっそり炎魔法で熱を生み、風魔法でそれを送り込む。
即席のセルフドライヤーで、濡れた髪と制服を手早く乾かしていく。
(よし。何事もなく終わったぞ)
小さく、胸をなで下ろす。
(学園長の言うことも、ちゃんと守れた)
ノイスは、少しだけ満足そうに授業へと意識を戻した。
やがて、その日の授業はすべて終わり、
ノイスはいつも通り寮へ戻ろうとしていた。
(……ルーシー、今日は少し元気がなかったな)
ふと、そんなことが頭をよぎる。
あの後のルーシーは、どこか心ここに在らずといった様子だった。
いつものように話しかけてくることもなく、気づけば姿も見えない。
(具合でも悪かったのかな)
周囲を見回すが、あの銀色の髪はどこにも見当たらなかった。
「どこにでも付いてきそうなもんだけど……
今日は用事でもあったのかな」
少しだけ首を傾げたものの、それ以上深く考えることはなかった。
ノイスはそのまま、そそくさと寮へ戻っていった。
⸻
放課後。
ルーシーが向かっていたのは、
学園でも一部の選ばれた生徒しか入れない場所――貴族寮だった。
重厚な門。
刻まれた家紋。
漂う、拒絶するような空気。
(……ここに来るのは初めて、ですね)
指先が震える。
それでも、引き返さなかった。
(ノイスくんに恥をかかせたのは、私なのですから)
ルーシーは、深く息を吸い、門をくぐった。
貴族寮の内部は、静まり返っていた。
柔らかな絨毯。
磨き上げられた調度品。
廊下の脇には、気配を殺した使用人たちが控えている。
自然と、視線が集まる。
だが、その視線を気に留めることなく、ルーシーは奥へ奥へと進んでいった。
目指すのは――
クレインたちが集まっていると聞いた、男子寮の応接室。
重厚な扉の前まで来ると、内側から楽しげな談笑が聞こえてきた。
「……やはり、ここにいるのですね」
ルーシーは一度だけ深呼吸をし、ノックしてから丁寧に扉を開けた。
応接室の中央。
豪奢な椅子に腰掛け、取り巻きに囲まれている男――クレイン。
「……なんだ、お前は?」
クレインが、不機嫌そうに顔を上げる。
「ああ……教室で騒いでいた小娘か」
鼻で笑い、視線を向けた。
「ここがどこかわかっているのか?
小汚い庶民の小娘が、足を踏み入れていい場所じゃないぞ」
取り巻きたちが、くすりと笑う。
「女ひとりで殴り込みか?」
「どうやって入ったんだ?この女」
「身の程知らずだな」
ルーシーは、その場で足を止めた。
感情は抑えられている。
冷静に。
声も、震えていない。
ただ――
まっすぐに、はっきりと告げる。
「ノイスくんに、謝罪してください」
そして、見下ろすクレインに対して、静かに頭を下げた。
応接室の空気が、凍りつく。
次の瞬間――
笑い声が、弾けた。
「あはははは!」
「本気で言ってるのか、この女?」
クレインは肘をつき、嘲るように言う。
「この私が?
あの嘘つきの眼鏡に、謝罪だって?」
ルーシーは、込み上げる言葉をぐっと飲み込んだ。
「……ノイスくんは、何も悪くありません」
静かな声だった。
「クレイン様に失礼があったとすれば、それは私です」
「だから、なんだと言うんだ」
「私が、クレイン様に謝罪します。
申し訳ありませんでした」
ルーシーは、さらに深く頭を下げた。
「ですから……
ノイスくんに水をかけたこと。
雑巾を投げつけたこと――どうか、直接謝罪してください」
クレインは退屈そうな顔を浮かべるが、
次の瞬間――
大きく手を叩いた。
「あはは! 素晴らしい! 実に素晴らしいよ!」
拍手に合わせ、取り巻きたちも釣られて手を叩く。
「これが庶民同士の“愛”ってやつなのか。
いやぁ、感動した」
クレインは、ゆっくりと微笑んだ。
「しかし、あの男のどこがいいんだか……」
そして、軽い調子で言う。
「いいだろう。
直接謝って“あげても”いい」
ルーシーが、顔を上げる。
「……本当ですか?」
クレインは、楽しそうに目を細めた。
「もちろんだ。
ただ――その前に」
クレインは、ゆっくりと立ち上がった。
「君にはまず――
“ものの頼み方”というものを、知らないといけないな」
近づき、ルーシーを見下ろす。
「頼み方……ですか?」
「そうだ。
まず、服を脱げ」
「……えっ?」
「服を着たまま、貴族にお願いする庶民がどこにいる。
なあ、みんな?」
「そうっすねぇ」
「ひひひひ」
「……なんて愚劣なっ」
「別に、いいんだよ?
君の裸になんか興味ないし……」
取り巻きたちの嫌な笑みが目に付く。
「そんな……こんな所で脱げるわけないじゃないですか!」
咄嗟に体を抱くようにして、ルーシーは顔を歪めた。
「出来ないのなら、今すぐ帰ればいい。
またあの眼鏡には床の掃除、いや、今度は中庭の草むしりでもしてもらおうかな」
「はっははははは!」
「ひひひひひ!」
取り巻きたちの笑い声が響く。
「……本当にここで私が裸になれば、
ノイスくんに謝っていただけるのですね?」
ルーシーの瞳が、わずかに鋭くなる。
「ああ! 貴族は嘘をつかない。あの眼鏡とは違う。
それに今後は手出ししないと約束しよう」
悔しそうに目を潤ませながら、ルーシーは震える手を服へ伸ばした。
「あははは! いい気分だ!
オルドゥスト家に逆らおうとするからこうなる!」
小声で取り巻きがクレインに尋ねる。
「クレイン様、いいのですか?
そんな約束をしてしまって」
「はて、私が今なんか言ったか?
ここにいるのは、貴族に取り入ろうとして、自分から服を脱いだ愚かな庶民がいた。そうだろう?」
「ひひ、最高すね。クレイン様」
「ストリップショーを邪魔されては困る。
入口の鍵は閉めておけ」
クレインはソファーに深く腰掛け、ルーシーを見つめた。
ルーシーは震える手で、ローブの留め具へ指をかけた。
⸻
ノイスは自室の机に向かい、黙々と作業をしていた。
机の上には、分解された魔道具のパーツ。
小さな魔石、細い魔素回路、刻みかけの魔法陣。
「うーん……やっぱり必要になるかもな」
ぶつぶつと独り言を呟きながら、ペン型の刻印具を走らせる。
――《瞬間換装組・五号》。
教室で被ったのが水だったから、まだよかった。
もし紅茶やコーヒーだったら、さすがに着替えが必要になる。
(液体を弾く制服も考えたけど……
それはそれで、目立ちそうだ)
魔法陣を細かく組み、小さな魔石をはめ込み、慎重に魔素を流す。
――バシュン!
「……お、いい感じ」
風魔法が展開され、一瞬で衣服をほどき、
同時に新しい服が滑り込むように装着される。
その間、視界を遮るように柔らかな光が走った。
「うむ……いい調子だ。
光で下着や素肌が見えないのが、通だよね」
満足そうに頷いた、その時だった。
ゴンゴンゴン!
扉を、強く叩かれている音がする。
「……ん? なんだろ?」
扉を開けると、そこには赤髪の青年が立っていた。
「……えっと、確か……」
「ロウだ」
短く名乗るが、どこか歯切れが悪い。
「ああ、ロウか。どうかしたの?」
ロウは一瞬だけ視線を逸らし、
それから意を決したように口を開いた。
「お前と一緒にいた、銀髪の女……」
ノイスの手が、止まる。
「……ルーシーのことかな?」
「ああ。
さっき、一人で貴族寮の方に向かっていくのを見た」
「……貴族寮?」
「しかも、一年男子の溜まり場を探ってたらしい。
――クレインたちがいるところだ」
嫌な沈黙が落ちる。
「……何か用事でもあったのかな」
「いや、そうじゃねぇだろ!」
ロウが、思わず声を荒げた。
「どう考えても、あいつらの所に殴り込みに行ったんだろ」
ノイスは、ゆっくりと息を吐いた。
「ああ……ルーシーも、無茶するよね」
「……それだけか?」
「え?」
「助けに行かねぇのかよ!」
「いや……」
ノイスは、少し考えるように視線を落とす。
「ルーシーなら、大丈夫だと思うよ。
クレインたちより、魔法使いとしての実力は上だし」
「問題はそこじゃねぇ!」
ロウが、声を荒げる。
「あいつは、お前が学園長に呼ばれた時に馬鹿にされたのが許せなくて、あいつらと言い合いになったんだぞ?」
「そんなことで怒らなくていいのにね」
ノイスは淡々と言った。
「なんだよ……わかってて放っておくのか?」
ロウは、言葉を詰まらせる。
「あいつらが、どんな卑怯な手を使うかわからねぇぞ。
……俺は助けに行く」
そう言って、ノイスを睨みつけた。
「……助けにってそんな大袈裟な」
ノイスは、あっさりと答える。
「まあ――気をつけてね、ロウ」
ロウは一瞬だけ立ち止まり、振り返る。
「……見損なったぞ、ノイス」
そう吐き捨てて、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
静寂。
ノイスは、机の上に広げた魔道具を見下ろし――
「……まいったな」
小さく、そう呟いた。




