三十九話 憧れを捨てた日
ルキウスを称える声が、教室のあちこちから上がっていた。
その中で、ルーシーはただ俯くことしかできなかった。
床に崩れ落ちたロウとユミナ。
そのそばに膝をつくミレイユ。
本当は、自分も駆け寄りたかった。
けれど、足が動かない。
「行こう、ルーシー」
気づけば、ルキウスの穏やかな声がすぐそばで響いていた。
彼は丁寧に膝をつき、ルーシーへと手を差し伸べる。
教室中の視線が集まる中、その手を取らないという選択肢は、ルーシーにはなかった。
「……はい」
恐る恐る、その手に自分の手を重ねる。
ルキウスはそっと手を取り、柔らかく微笑んだ。
そして、そのままルーシーを連れて教室の外へと踏み出した。
廊下を横切るたびに、視線が集まる。
「ルキウス様だ」
「あれがルキウス様の婚約者よ……なんて羨ましい」
ひそひそとした声。
ルーシーは気まずそうに、ただ手を引かれるまま歩いた。
やがて辿り着いたのは、学園中央塔の最上階。
重厚な扉。
金の紋章。
アスカナティア魔法都市の名家であり、魔法協会の重鎮でもあるファンフォルド家に与えられた特別執務室。
鍵が閉まる音が、やけに大きく響いた。
室内は広く、静まり返っている。
大きな窓からは、学園全体が見渡せた。
「座るといい」
穏やかな声。
目の前には、見るからに高価な椅子が置かれている。
だが、ルーシーは座らずに立ったまま口を開いた。
「……ここで、何をお話しするというのですか?」
丁寧な口調には距離を感じる。
ルキウスは上着を脱ぎ、椅子の背に掛けた。
「わかるだろう?」
ゆっくりと振り返る。
その視線が、まっすぐルーシーを捉えた。
「絶詠の魔女のことだ」
空気が、冷えた。
「彼女は今や反逆者だ」
静かな断定。
「君ももう子供ではない。
そろそろ、あの魔女への愚かな憧れは捨てるべきだ」
ルーシーの肩が、わずかに強張る。
「愚か……ですか?」
声がかすれる。
「彼女は優秀だった。かつては、学園の誇りでもあった」
ルキウスは机に手をついた。
「だが今は違う」
その瞳が、鋭くなる。
「協会から追放という寛大な処分を受けながら、なおも牙を向き、今更復讐などと……」
「絶詠の魔女様は……そんなことしません!」
思わず声が強くなる。
その瞳に、涙がにじむ。
ルキウスの表情が、わずかに曇った。
「ルーシー。いい加減、大人になってくれ。
君の気持ちも知っているが、状況が変わったんだ」
一歩、近づく。
「君は、将来ファンフォルド家の一員になるのだ」
距離が縮まる。
「反逆者を崇拝するなど、許されることではない」
ルキウスが一歩距離を詰めるたび、ルーシーの呼吸は浅くなった。
「……それでも」
震える声。
「私は、絶詠の魔女様を尊敬しています」
しばしの沈黙。
ルキウスの瞳が、すっと冷えた。
「……そうか」
だが次の瞬間には、いつもの穏やかな笑みが戻っていた。
「この状況下でもわかってくれないのか、ルーシー」
一歩、静かに近づく。
「私は、嫌がらせでこんなことを言っているわけではない」
そう言って、ルーシーの肩にそっと手を置いた。
「私は、君のために言っているんだ」
耳元で囁く。
「私の言う通りにしていれば……いい」
甘く、優しい声。
ルーシーの背筋に、ぞわりと悪寒が走った。
「や、やめてください!」
思わず突き飛ばす。
ルキウスは半歩よろける。
だがすぐに体勢を整え、ゆっくりとルーシーを見つめた。
その視線は――冷たい。
「あ……その、ルキウス様。
ち、違うんです……」
空気が、重く沈む。
押し潰されそうになる。
そして、低い声が落ちた。
「……ノイス・ノーチラスだな」
「……え?」
「君が判断を誤る原因は、ノイス・ノーチラスにある」
ルキウスの声音は静かだった。
だが、温度がない。
ルーシーの血の気が引く。
「私は強引な手段は好まない。
だが、君のためなら話は別だ」
「……どういう意味ですか?」
「彼が学園に悪影響を及ぼしていると、
正式に提言させてもらう」
淡々と。
「私の立場であれば、通らない話ではない」
「待ってください!」
思わず一歩前に出る。
「ノイスくんは関係ありません!」
「関係ある」
即答だった。
「現に君は、冷静な判断ができていない」
ルーシーは知っていた。
ルキウスは冗談を言う人ではない。
そして彼の発言力は、もはや教員以上。
その気になれば、一生徒の処分に口を挟むことなど難しくない。
脳裏に浮かぶのは、楽しかった放課後の勉強会。
ノイスとロウと机を並べ、真剣に問題へ向き合った日々。
卒業を目指して、毎日のように努力を重ねる二人の姿。
そして――
『友達』
そう言ってくれた、ノイスの声。
胸が締めつけられる。
(私が、我慢することで)
(ノイスくんが学園に残れるのなら)
ルーシーは唇を噛み、顔を上げた。
「……ルキウス様の言う通りにします」
震える声で、ルーシーはそう言った。
「ですから、ノイスくんを……学園から追い出さないでください」
ルキウスの瞳が、わずかに細まる。
「言う通りにするだなんて、
まるで私が脅しているみたいじゃないか」
穏やかな声だった。
けれど、ルーシーは何も返せなかった。
「私は、君を正しい場所に戻したいだけだ」
ルキウスは静かに告げる。
「君がいるべき場所は、彼の隣ではない。私の隣だ」
ルーシーの指先が、小さく震えた。
「まずは、1-Bへ転籍してもらう」
事務的な口調に戻る。
「ノイス・ノーチラスとの接触を断つためだ」
「……わかりました」
「それと」
わずかな間。
「今後、絶詠の魔女の名を語ることを禁ずる」
「……っ」
胸が抉られるような感覚がした。
それは、憧れの否定だった。
魔法使いとしての原点を、生きる希望ごと踏みにじられるような一言だった。
「異論はないな」
冷たい確認。
拒む余地は、ほとんど残されていない。
ルーシーは制服の裾を強く握り締めた。
「……ありません」
胸の奥が痛む。
それでも、涙だけは落とさなかった。
ルキウスはその様子をしばらく見つめていた。
やがて、静かに歩み寄る。
「ルーシー。
聞き入れてくれて、ありがとう」
穏やかな声。
その手が、そっとルーシーの頭に触れる。
撫でる手つきが妙に優しい。
その感触に、ルーシーは胸を締めつけられるような息苦しさを覚えた。
(……これでいいんです)
心の奥で、何かが静かに折れる。
(私はもう、十分に学園を楽しみました)
ノイスと過ごした日々。
笑い合った放課後。
憧れに近付けた高揚感。
それらが、すっと遠ざかっていく。
(これ以上は、何も望みません)
ルーシーはゆっくりと目を閉じた。
この手の中の、一駒として。
与えられた場所で、静かに生きる。
それが自分の役目なのだと――
そう思い込もうとした、その時。
「……ああ。なんか少しわかったかも」
誰もいないはずの部屋に響く、気の抜けた声。
「……誰だ?」
ルキウスはすっと手を離し、声の主へ視線を向けた。
奥からゆっくりと一人の少年が姿を現した。
「ずっと違和感があったんだ。
ルーシーはルキウスさんの婚約者なのに、一緒にいる時は全然楽しそうじゃないんだ」
「……何を言って――」
ルキウスの言葉を無視してノイスは呟く。
「これってやっぱおかしいよね。
ルーシーは師匠の話をする時は、すごく幸せそうな顔をするのに」
その言葉に、ルーシーの喉が詰まった。
「ノ、ノイスくん……」
会いたかった。でも、来てほしくなかった。
自分が決心した“諦め”を壊してほしくなかった。
唇をぐっと噛みしめ、涙を堪える。
「ノイス・ノーチラス……
謹慎中の身で、よくもここへ来られたな」
低い声。
静かだが、棘がある。
「学園長室から寮に戻る途中なんだ。
謹慎中でも、部屋には帰らないといけないでしょ?」
ノイスは肩をすくめる。
淡々とした口調。
「……とんだ屁理屈だな」
ルキウスの眉がわずかに動く。
「自分が今、何をしているのか理解しているのか?」
一歩、前に出る。
「ここは、一般生徒が許可なしに立ち入って良い場所ではない」
空気が張り詰める。
冷静さを保とうとしているが、明らかな苛立ちが滲んでいる。
「これは……処分を再検討する必要があるな」
「待ってください! ルキウス様!」
ルーシーが思わずルキウスの袖を掴む。
その指先は凍えたように震えている。
ルキウスはその手を見下ろす。
ゆっくりと、視線を彼女へ移す。
「どうかしたか、ルーシー」
声は穏やかだ。
だが目は笑っていない。
「彼に言いたいことがあるなら、直接言うといい」
一瞬、口角が上がる。
「私が許可しよう」
その微笑みは穏やかだった。
ルーシーはぎゅっと拳を握り、言葉を振り絞る。
「……ノイスくん」
ルキウスの視線が、背中に突き刺さっている。
「今すぐに、帰ってください」
ノイスは何も言わず、ただまっすぐにルーシーを見つめている。
その視線に、胸が痛んだ。
けれど、ここで止まれば全部が無駄になる。
「迷惑……なんです」
声が震えた。
「もう、私に関わらないでください」




