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三十二話 師匠の痕跡

 ノイスは一人で寮へ戻っていた。


 ベッドに横になり、天井を見つめる。


 灯りは消しているのに、眠気はまるで訪れない。


 静かな部屋の中で、ミリアの声だけが何度も蘇る。


 ――今は、顔も見たくない。

 ――本当に、最低な気分だよ。


 胸の奥が、じわりと重い。


 目を閉じても、あの表情が浮かぶ。


 怒りと、悲しみと、後悔が入り混じった顔。


 そしてもう一つ。


 自分は、何も言えなかったという事実。


「……僕は」


 小さく息を吐く。


 師匠のことを思い出す。


 山奥の小屋。


 優しく、静かな声。


 淡々とした魔法の指導。


 あの人が、隠蔽のために人を消した?


 うまく想像が結びつかない。


 だが同時に――


「僕は、師匠のことを何も知らないんだな」


 ずっと一緒にいた。


 魔法も教わった。


 理論も、実戦も。


 けれど。


 どこで生まれ、何を見てきて、何をしてきたのか。

 一度でも、聞こうとしたことがあっただろうか。

 

 天井を見つめたまま、指先がわずかに握られる。


 ミリアの口から語られたガーナウス攻防戦、追放の理由、魔法協会との確執。


 ――全部、知らない。


(……僕は、本当に師匠の弟子なんだよね?)


 胸の奥が、わずかに軋む。


 ミリアの言葉よりも。


 自分の無知の方が、重かった。


 静かな部屋で、ノイスはゆっくりと目を開ける。


 迷いは、少しずつ形を持ち始めていた。


「……確かめるしかない」


 本人の口から。


「会いに行こう」


 静かな決意。


「師匠のところへ」


 ノイスはベッドから静かに身を起こした。


 迷いは、もうない。


 山になっている魔道具の中から、《天翔る靴(スカイシューズ)・八号》を取り出す。


 靴底に組み込まれた風の魔法陣が起動し、空気を蹴る。


「……行くよ」


 窓を開けると、夜風が頬を撫でた。


 ノイスの身体が音もなく、宙へ浮かぶ。


 寮の屋根を越え、学園を越え、夜の空へ。


 月明かりの下、一直線に森へと向かう。


「飛ばせば、行って帰ってきても明日の授業には間に合うはず」


 猛スピードで夜を駆ける。


 静かな夜空の中にいると、余計なことまで考えてしまう。


(師匠は、急に学園を抜け出して戻ってきた僕を、どう思うだろう)


(もし、隠蔽のために誰かを消したことが本当だったら。

 師匠は、僕に正直に話してくれるんだろうか)


 住んでいた森が見えてきた頃、ノイスは小さな違和感に気づいた。


 いつもなら、澄んだ森の匂いが届くはずだった。


 けれど、今はそこに、かすかな焦げ臭さが混じっている。


 胸の奥が、ざわついた。


 ノイスはさらにスピードを上げる。


 小屋へ近づくにつれて、焦げた匂いははっきりと濃くなっていった。


 やがて視界に入る。


 かつて暮らしていた山奥の小屋――があったはずの場所。


 ノイスの足が止まる。


 そこにあったのは、


 崩れ落ちた梁。


 黒く焼け焦げた壁。


 抉られた地面。


 まるで、巨大な魔法に薙ぎ払われたかのような痕跡。


「……」


 ゆっくりと地面に降り立つ。


 焦げた木材を、指先でそっと触れる。


 ノイスの瞳が細まった。


「どういうこと?

 師匠に何かあったの……?」


 だが、ここに師匠の姿はない。


 小屋の残骸に漂う魔素の気配を探る。


 ひとつではない。


 複数の魔素が、混じり合っている。


「……ここで戦闘になった?」


 静かに呟く。


「師匠は……無事なんだろうか」


 誰が、何のために。


 いつ。


 何一つ分からない。


 夜風が吹き抜ける。


 焦げた木材が、かすかに軋んだ。


 森は、異様なほど静まり返っている。


 ノイスはしばらく立ち尽くしていたが、ゆっくりと息を吐いた。


「あの師匠が、簡単にやられるはずはない」


 自分に言い聞かせるように。


「……学園に戻ろう」


 足元に淡い光が走る。


 《天翔る靴(スカイシューズ)・八号》が静かに起動する。


 ノイスの身体は宙へ浮かび上がった。


 闇に溶けるように、学園へと戻っていく。



◇◇◇◇◇

 


 翌朝。


 寝不足のまま、ノイスは寮の扉を開けた。


 朝の空気は澄んでいる。


 だが、胸の奥の重さは消えていない。


「……」


 一歩、外へ出た瞬間。


「ノイスくん」


 柔らかな声が届く。


 視線を上げると、寮の入口には見慣れた銀髪の少女が立っていた。


 朝日を背に、静かにこちらを見つめている。


「……おはよう。ルーシー」


「おはようございます。

 その……昨日のことが、少し気になってしまって」


 少しだけ視線を伏せる。


「あまり、眠れませんでしたか?」


「あはは。そう見えるかな?」


 ルーシーはゆっくりと顔を上げる。


「はい。いつもより、少し眠そうに見えます」


 朝の光の中で、彼女の表情は穏やかだった。


 その落ち着いた声を聞いていると、胸の奥の重さがわずかに和らぐ。


「実はね、内緒だけど……

 夜に学園を抜け出して、師匠に会いに行ったんだ」


 ノイスは静かに言う。


「えっ? 絶詠の魔女様に!?」


 思わず声が弾む。


「ルーシー……声が大きいよ」


「あっ……す、すみません。つい……」


 恥ずかしそうに頬を赤らめて、慌てて周囲を見回す。


「それで……何か、おっしゃっていましたか?」


 期待と不安が入り混じった瞳。


 ノイスは少しだけ視線を逸らす。


「……住んでいた小屋ごと、消えてなくなってた」


「えっ!? 絶詠の魔女様のっ――」


「だから、声が大きいってば」


「あ……っ」


 両手で口元を押さえるルーシー。


 その仕草に、思わず小さく笑いがこぼれる。


 さっきまで胸を締めつけていた不安が、ほんの少しだけ癒される。


「絶詠の魔女様は……無事なんでしょうか?」


 ルーシーは、恐る恐る尋ねた。


「わからない」


 ノイスは正直に答える。


「でも、師匠がそう簡単にやられるとは思えない」


 森で見た光景が脳裏をよぎる。


 複数の魔素の気配。


 崩れた小屋。


 だが、決定的な痕跡はなかった。


「そうですね」


 ルーシーは小さく頷く。


「絶詠の魔女様なら、たとえ奇襲を受けたとしても、

 後れを取るような方ではないと思います」


 その声にはわずかな揺らぎがあった。

 それでも、本心からそう信じているのだと分かった。


「……そうだね」


 ノイスは再び前を向いた。


「でも、いったい誰がそんなことを……?」


 ルーシーの表情がわずかに引き締まる。


「小屋の残骸には、複数の魔素の気配が残ってた。

 もしかしたら……

 師匠を恨んでいる人たちに狙われたのかも」


 昨日のミリアの言葉を思い出し、

 ノイスは視線を落とす。


「絶詠の魔女様を恨んでいる人……ですか……。

 ですが、どうやって絶詠の魔女様の住処を突き止めたのでしょう」


 ルーシーは小さく首を傾げる。


「絶詠の魔女様は追放されてからというもの、

 公式な情報が一切出ていませんから」


「そうなの?」


 ノイスが軽く聞き返す。


「ええ。

 私が必死に調べたのですから、間違いありません!」


 ルーシーはきっぱりと言い切った。


「あはは。師匠のことになると、僕よりルーシーのほうが詳しいかもしれないね」


「そんなことありませんよ!」


 思わず声が大きくなる。


「私が知っているのは、あくまで公表されている経歴や戦歴だけです!」


 早口で続ける。


「普段の服装とか、好きな色とか、好きな食べ物とか……そ、それに、その……どんな寝相なのかも知りません!」


「服装は、いつも大きめのローブだったよ」


「えっ」


「好きな色は黄色。

 甘いものが好きで、ケーキと紅茶をよく食べてた」


「ケーキ……!」


 ルーシーの目がきらりと光る。


「寝る時は大きな抱き枕を抱いて寝るんだ。

 たまに僕が抱き枕代わりにされてたけど」


「え、えええ……絶詠の魔女様の抱き枕の代わり……?」


 ルーシーは慌てて小さな手帳を取り出す。


「う、羨ましい。じゃなくて、メモしなきゃ……!」


「メモするようなことなの?」


「絶詠の魔女様のことなら、どんな些細な情報も見逃せません!」


 と言いながら、鼻を押さえる。


「……鼻血出てない?」


「出てませんっ!」


 朝の通路に、ほんの少しだけ笑いが戻る。


「……でもさ」


 ノイスはゆっくりと空を見上げた。


「本当に僕、師匠のこと全然知らないんだ」


 ルーシーが瞬きをする。


「魔法は教わった。戦い方も、生き方も」


 拳を軽く握る。


「でも、どこで生まれて、何をしてきたのか。ガーナウス攻防戦のことも、追放の理由も……何も知らないんだ」


 朝の空気が、少しだけ冷たく感じる。


「だから昨日は、ミリア先輩に何も言えなかったんだ」


 ミリアの怒りも、悲しみも。


 否定するだけの根拠が、自分にはなかった。


 しばらく黙っていたルーシーが、そっと口を開く。


「大丈夫です。

 ノイスくんは、ちゃんと知ってるはずです」


「……何を?」


「絶詠の魔女様が、どんなお方か」


 まっすぐな瞳。


「一緒に過ごしてきたんでしょう?」


「それは……」


「表に出ている情報なら、調べれば分かります」


 少しだけ、いつもの調子が戻る。


「絶詠の魔女様も、私たちと同じアスカナティア魔法学園の出身なんですから」


 はっきりと言う。


「在学中のことは記録史に載っているはずです。

 ガーナウス攻防戦や、そのほかの活躍も新聞記事として資料室に残っていると思います」


 ノイスの目がわずかに開かれる。


「資料室……か」


「はい」


 ルーシーが一歩近づく。


「放課後、一緒に見に行きましょう」


 優しく、でも力強く。


「知らないなら、知ればいいんです」


 朝日が差し込む。


 ノイスは、ゆっくりと息を吐いた。


「……うん」


 わずかに頷く。


「ありがとう、ルーシー」


 その日の放課後、二人は学園の資料室へ向かった。


 ――絶詠の魔女の“過去”を探すために。

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