三話 絶詠の魔女のファン
ノイスが寮を出ると、その日は朝から嫌な予感しかしなかった。
理由は単純だ。
――気配を感じる。
(……やっぱりいる。
ここ、男子寮の前なのに)
嫌な予感の正体は、すぐに視界に入った。
銀色の髪を朝日に揺らしながら、きょろきょろと周囲を見回す少女。
その表情は穏やかで、柔らかな笑みを浮かべている。
「あの……ノイス様は、どこでしょうか?」
――ルーシーだった。
寮から校舎に向かう生徒に一人で声をかけている。
(怖い……怖すぎる)
ノイスは物陰から様子を窺いながら、心の底から思う。
「師匠……女性って、こんなに怖い生き物なんでしょうか……」
男子寮から校舎へ向かうには、どうしてもこの通路を通らなければならない。
つまり――このまま行けば、確実に遭遇する。
「……仕方ない。目立ちたくないんだけどな」
小さく呟き、ノイスは足元に風を纏わせた。
身体がふわりと浮き上がり、屋根を越える。
誰かに見られると面倒なので、建物の影へ素早く着地。
「申し訳ないけど……関わったら絶対に面倒だから」
そう判断し、足早に教室へと向かった。
◇◇◇◇◇
だが、教室に着いても厄介ごとは終わらなかった。
「おい、田舎者」
席に着くなり、クレインたちに絡まれた。
クレインたちは昨日の騒動のあと、教師に捕まり、
魔法の無断使用で処罰を受けたらしい。
「昨日の今日で、また騒ぎを起こすわけにもいかないからな。覚えてろよ」
捨て台詞だけ残して、彼らは早々に自分の席へ戻っていった。
(……逆恨みされてる気がする)
ノイスはため息をつきながら、机に突っ伏した。
◇◇◇◇◇
昼休み。
チャイムが鳴った瞬間だった。
「ノイス様」
――背後から、声。
振り返るまでもない。
ルーシーが、すでに至近距離に立っていた。
「お昼、ご一緒にいかがですか?
ぜひ、ゆっくりお話を――」
「また今度ね!」
そう言うなり、ノイスは教室から飛び出した。
全力疾走は疲れる。
だが、止まるわけにはいかない。
ノイスは中庭へと走っていく。
(……なんでずっと追ってくるんだ)
「そんなっ……待ってください、ノイス様!」
その呼び声が、余計に注目を集める。
「まず、その“様”付け、やめてよね!」
振り向きざま、ノイスは魔素を地面へ流した。
詠唱はない。
ただ、“少し柔らかくなるように”と意識しただけだ。
「……っ!」
走っていたルーシーの足元がずるりと沈む。
「これは……土魔法?
また詠唱もなしで……この精度……」
驚きよりも、感嘆に近い声だった。
その隙に距離を取り、どうにか撒いた。
ノイスは売店へ向かい、中庭の隅の木陰で昼食をとった。
(なんてことだ。
このままじゃ……平穏に過ごすのなんて夢のまた夢だ)
◇◇◇◇◇
放課後。
ノイスは校舎裏を抜け、人気のない通路を選んで歩いていた。
(……さすがにここまでは追ってこないよね)
そう思った、まさにその瞬間。
「……ノイス様!」
聞き覚えのある声。
(……まずい)
反射的に土魔法を発動し、地面の中へと沈む。
頭上で、足音が止まった。
しばらくして――
「……また、逃げられてしまいました」
そこには、いつもの勢いはなかった。
二つに結んだ銀色の髪が、しゅんと沈んだ肩にかかっていた。
「私……きっともう嫌われてますよね」
ぽつり、とこぼれ落ちる声。
「ただ……絶詠の魔女様について、お話がしたかっただけなのに……」
うずくまるルーシーの肩が、小さく震え始めた。
(……さすがに、これは)
地面が盛り上がり、ノイスが土から顔を出す。
「やあ」
「ノイス様が生えてきた!?」
驚いたように目を見開くルーシー。
「僕も君に嫌な思いをさせたいわけじゃないんだ。
だから、後を追ってくるのはやめてほしい」
ルーシーは力なく笑い、視線を落とした。
「そうですよね……
急にこんなふうに迫られたら、誰だって嫌ですよね」
(自覚あったんだ)
「でも、絶詠の魔女様の名を聞いたら、居ても立っても居られなくて……」
肩が小さく震える。
「師匠は確かにすごい人だけど、どうしてそこまで……」
小さく息を吸い込み、ルーシーは語り始めた。
「……これは、私がまだ魔法を使えるようになったばかりの頃の話です」
◇◇◇◇◇
ルーシーは、アスカナティア魔法都市に生まれた。
生まれながらにして、高い魔法適性を持つ子供だった。
彼女が授かったスキルは、《魔導操作》。
魔法の軌道そのものに干渉し、自在に操ることを可能にする希少なスキルだった。
扱いは極めて難しい。
だが、そのぶん強力でもある。
周囲は口々に彼女の将来を期待し、
ルーシー自身もまた、その期待に応えようと懸命に努力していた。
――けれど、事件は起きてしまう。
期待に応えなければならない。
その一心で、ルーシーは当時の自分では到底制御しきれない魔法にまで手を伸ばしてしまった。
結果は――暴走。
制御を失った魔法が、周囲で荒れ狂う。
燃え盛る炎。
空を引き裂く雷。
それらはもはやルーシーの意思を離れ、
ただ破壊の衝動のままに暴れ回っていた。
「ルーシー! 何をしているんだ!」
大人たちの鋭い声が飛ぶ。
「ち、違うの……止まって……お願い……!」
幼いルーシーは震えながら両手を伸ばした。
けれど、魔法はもう彼女の手を離れている。
止められない。
どうにもできない。
逃げ場のない恐怖だけが、幼い胸を締めつけた。
「……誰か……助けて」
――その時だった。
「《アイス・タートル》」
澄んだ声が、張り詰めた空気を切り裂く。
次の瞬間、分厚い氷の障壁が出現し、暴走する魔法をいとも簡単に受け止めた。
そこに立っていたのは、フルートを手にした一人の魔法使いだった。
「……もう大丈夫よ」
魔法使いは、幼いルーシーの前に膝をつく。
「……私のせいで……ご、ごめんなさい……」
「怪我人は出ていないわ。だから、落ち着いて」
魔法使いは、泣きじゃくるルーシーをそっと抱き寄せた。
その腕はどこまでも優しく、思わず安心してしまうほど温かかった。
「ねえ、あなたのスキル……
《魔導操作》でしょう?」
幼いルーシーは、涙で濡れた顔のまま、こくりと小さく頷いた。
「やっぱりそうなのね。私と同じスキルだわ。
制御するの、とても難しいわよね」
その言葉に、ルーシーははっと顔を上げる。
「私は……もう魔法を使いたくありません――」
「大丈夫」
魔法使いは、優しく微笑んだ。
「あなたならきっと、制御できるようになるわ」
まっすぐに告げられたその言葉は、不思議なくらいルーシーの胸にすっと沁み込んでいく。
「だから――魔法を嫌いになんて、絶対にならないでね」
その言葉は、幼いルーシーの胸の奥に、深く刻み込まれた。
◇◇◇◇◇
ルーシーは、目を潤ませたままノイスを見つめていた。
「……目の前に颯爽と現れた、その方こそが絶詠の魔女様でした」
小さな声だった。
けれど、そこには確かな想いが込められていた。
「師匠にそんな過去が……
しかも、アスカナティア魔法都市に来ていたんだ」
「はい……」
ルーシーは小さく頷く。
「それ以来、私にとって絶詠の魔女様は、ずっと憧れの存在でした……
だから、追放されたと聞いた時は、とても信じられなくて」
ぎゅっと拳を握りしめる。
「私の目標が……
目指していた場所そのものが、全部消えてしまったような気がしたんです」
「追放されてからは、ほとんど情報もなくて……
生きていらっしゃるのかどうかすら、わからないほどでした」
そしてルーシーは、まっすぐノイスを見つめた。
「……でも、そんな私の前に、ノイス様が現れたんです」
震える声で、はっきりと告げる。
「どうしても気持ちを抑えられなくて……
こんな、つけ回すような真似をしてしまって……本当にごめんなさい」
一瞬、言葉を探すように唇を噛みしめ――続ける。
「でも、もう関わりませんので……安心してください」
そう言い残し、ルーシーはその場を後にした。
遠ざかっていく背中を見送りながら、
ノイスは、ぽりぽりと頭を掻く。
「……師匠はさ」
ぽつり、と独り言のように。
「孤児だった僕を拾って、育ててくれたんだ」
その一言に――
ぴたり、と。
ルーシーの足が止まった。
「え……?」
振り返ったルーシーに、ノイスは続ける。
「師匠は元気にしてるよ。
人里離れた山奥だけど、割と快適に暮らしている」
「……っ」
「僕がわかることだったら、教えるからさ」
ノイスはルーシーの目を見て、はっきりと言った。
「だから、様付けと尾行はやめてほしい。
それが守れるなら……別に、逃げないよ」
一瞬、呆然。
次の瞬間――
「は、はいっ!」
勢いよく頷くルーシー。
「やめます。約束します!
ノイスくん! 不束者ですが、よろしくお願いします」
ノイスは、小さく息を吐いた。
(……やっぱり、平穏は遠い気がする)
けれど、不思議と――
居心地は悪くなかった。
◇◇◇◇◇
翌日の朝。
ノイスは、寮の玄関を出た瞬間に嫌な予感を覚えた。
(……あ)
校舎へ向かう道の脇。
そこに、見覚えのある銀色の少女が見えた。
ルーシーは、両手を前で揃え、姿勢よく立っている。
その表情は、昨日までの暴走気味なものとは違い、どこか落ち着いていた。
「おはようございます、ノイスくん」
「……おはよう。あのさ」
ノイスは、じっと彼女を見る。
「尾行はやめるって言ってなかった?」
ルーシーは、少しだけ首を傾げ――
そして、胸を張った。
「はい。これは尾行ではありません」
「……?」
「正々堂々と、待ち合わせです」
にこり、と満面の笑み。
(一方的なのは待ち合わせじゃなくて、
待ち伏せっていうんじゃ……)
「様付けと尾行やめたら、付き人にしてくれるって言ってくれましたよね?」
「いや、言ってないけど……」
「同じようなことです。
これからは毎日お迎えに参ります」
きっぱり。
ノイスは、こめかみを押さえた。
(やっぱり関わんない方が良かったかも)
「一緒に登校するだけですから。
迷惑はかけません。たぶん」
「その“たぶん”が一番怖いんだけど……」
そう言いつつも、ノイスは歩き出す。
ルーシーは、少し距離を保って隣を歩いた。
様付けはない。
尾行もしない。
(……まあ、約束は一応守ってるか)
そして、教室に入ろうとした――その時だった。
校内放送が流れる。
「1-A、ノイス君。
至急、学園長室までお越しください」
ノイスは、思わず天を仰いだ。
「……学園長室? 何かしたっけ?」
隣では、ルーシーがきらきらと目を輝かせている。
「学園長直々に……!
さすがノイスくん、期待されてますね!」
「いや、たぶんそういうのじゃないと思う……」
(なんだか、嫌な予感しかしない)
教室にも入らずに、そのまま学園長室へ向かう。
校内放送で名が知れ渡り、周囲の視線がさらに集まっていく。
こうしてノイスは、
またしても平穏から一歩遠ざかることになるのだった。




