十五話 氷を砕く者
感覚が、奪われていく。
ロウが最初に感じたのは、痛みではなかった。
《ブリザード・パイプ》を受け止めた両腕の前腕が、
じわりじわりと白く凍りついていく。
氷は肘へ、肩へと這い上がり、
同時に手首から指先へも広がっていった。
杖を握る指が、思うように動かない。
ブラムは氷棒を肩に担いだまま、悠然と歩み寄った。
「ひとつ、教えてやろう」
「《ブリザード・パイプ》は、
ただの氷を固めたものではない」
近付くだけで周囲の温度がさらに落ちる。
「魔素を常に循環させ続ける――
言わば、魔法そのものだ」
氷棒の内部を、淡い光が巡った。
「内部を巡る氷の魔素が、触れたものを侵す。
肉体だろうが、灼熱の炎だろうがな」
(……そんなん強過ぎるじゃねえか)
ロウの喉が鳴る。
「話を聞かれた以上――」
ブラムの視線が鋭くなる。
「ここで消えてもらう」
(腕はもう完全に動かねえ……!)
感覚の失われた腕を抱え、ロウは歯を食いしばる。
(それでも……
ノイスに、伝えなきゃ……!)
無理やり体を前へ倒し、駆け出す。
「逃がすか」
担いでいた氷棒を床に突き立てた。
――キンッ。
澄んだ音が、廃墟に響く。
床を這うようにゴツゴツとした氷が伸びていった。
床から突き出た氷の柱が列を成し、
逃げるロウへと迫る。
「くっ……!」
ロウの足元が凍りつく。
靴底が、床に縫い止められる。
そして、今度は膝まで冷気が徐々に這い上がっていく。
ロウは必死に踏ん張る。
だが、凍てついた床に縫い止められた足は微動だにしない。
「……くそっ!」
「無駄だ」
ブラムはロウを冷たく見下ろした。
「お前と俺とでは、実力が違う。
抵抗するだけ無駄だ」
氷棒をロウへと向ける。
「でもよ……俺が急にいなくなったら、
学園だって問題になるぜ」
白い息を吐きながら、ロウが言葉を並べる。
「安心しろ。
お前のことは、“MCR”が回収する」
その名が、ロウの胸に冷たく突き刺さった。
「お前が消えても、問題にはならない。
連中なら、痕跡ひとつ残さず処理するだろう」
(なんだよ……飛び出した結果が、これかよ)
悔しさに奥歯を噛む。
だが、凍りついた身体はもう、まともに動かない。
「“MCR”って……いったい、何なんだよ……」
かすれた声で問いかける。
「それをお前が知る必要はない」
ブラムが氷棒から手を離すと、
それは細かな冷気となって散っていった。
「……あまり借りを作りたくなかったが」
懐から取り出したのは、指先ほどの小さな結晶。
近くにあるだけで――空気が、微かに歪む。
「魔素標識……起動」
ブラムが低く告げると、
結晶は音も光も立てず、静かに弾けた。
――魔素の波が、四方へと広がっていく。
魔素そのものを“信号”として解き放つ、異質な術式。
「……これでいい。
あとは連中が片付ける」
ロウは氷に覆われたまま、ぴくりとも動かない。
「……もう聞こえていないか」
結晶が消えた空間を一度だけ見上げ、
ブラムは口角を歪めた。
緑炎の縄に縛られたまま、
ミレイユが震える声で口を開く。
「ブ、ブラムさん……
い、いやー。
さすが、アスカナティア魔法学園屈指の実力者で……」
へつらうようにミレイユは笑った。
「あと、その……
そろそろ縄、解いてもらえませんか……?」
だが、ブラムは一度睨みつけ、視線を外す。
「……ふん。
お前たちはしばらくそのままだ」
「えっ……?」
ユミナが目を見開く。
「この程度の相手に、二人がかりで勝てないとはな。
頭を冷やすには、ちょうどいい」
「そ、そんなぁ……!」
ミレイユが情けない声を上げた。
――その時だった。
「いやあ……こんなところにいたんだ」
場違いなほど穏やかな声が、廃墟に落ちた。
その場にいた全員が、
声のした方へ、遅れて振り向いた。
いつの間にか。
廃墟の入り口に、一人の青年が立っていた。
ノイス・ノーチラス。
困ったように、首を傾げている。
「明日、試験なんだよ?
ロウも戻って勉強しないと」
空気が、わずかに軋む。
ブラムが、ゆっくりと視線を向けた。
「ノイス・ノーチラス……?
どうして、ここにいる」
問いかけに、ノイスは何も答えない。
ブラムたちには見向きもせずに、
凍りついたロウへと視線を落とした。
「あちゃちゃ。
このまま凍りついたままだと勉強できないね」
そう言いながら、ノイスはロウへと歩み寄る。
「せっかく頑張って勉強したのに、
試験を欠席したら意味ないよ」
そして、ノイスは何の構えもなく、
ロウに手をかざす。
詠唱もない。
魔法陣もない。
ただ、指先を向けただけ。
――パキ。
小さな音。
それだけで。
ロウを縛っていた氷が、
内側から崩れるように砕けた。
砕けた氷片は床に落ちることなく、
白い霧となって消えていく。
「なっ……!?」
ブラムの目が見開かれる。
ロウは確かめるように、自分の手を握り、そして開いた。
「ぐ……っ。
ノ、ノイス……? どうしてここに……?」
ロウは何が起きたかわからない様子で、
ゆっくり息を整えた。
ノイスはそれを確認して、小さく頷いた。
「うん。大丈夫そうだね。
試験前日だから、一緒に勉強しようと思ってさ」
それはまるで、ちょっとした氷を払い落としただけのような仕草だった。
背後からの視線に気付き、振り返る。
ノイスの視線はブラム。
そして、縛られたミレイユとユミナへと向けられる。
「……あれ、なんかお楽しみ中だった?」
沈黙。
「僕、邪魔しちゃったかな。
大丈夫だよ。ロウを連れてすぐ帰るから」
さらに場の空気が、凍ったように止まった。
ミレイユの喉が、ごくりと鳴る。
ユミナの指先が震える。
やがて――
ブラムがゆっくりと名を呼んだ。
「……ノイス・ノーチラス、だな」
低く、噛み締めるような声。
「僕のこと、知ってるの?」
ブラムの口角が、ゆっくりと吊り上がった。
「あははは……!」
乾いた笑いが、廃墟に反響する。
「わざわざ学園の外まで来てくれるとはな。
手間が省けた」
冷たい視線が、突き刺さる。
「まどろっこしいのは、もういい。
絶対零度の氷よ、形作れ。
《ブリザード・パイプ》」
ブラムの手の中に、再び無骨な氷棒が姿を現す。
「お前を叩き潰して――
このまま“MCR”に突き出す」
その名が、空気をさらに重くした。
ノイスは、首を傾げる。
「ああ……よくわかんないけど、
僕、そういうの興味ないから」
あまりにも落ち着いた平坦な声。
その一言が、ブラムの神経を逆撫でした。
「余裕ぶっていられるのも今のうちだ」
冷気が渦を巻き、
床が、壁が、空気さえも白く染まり始める。
凍てつく殺気が、ノイスへと向けられた。
「大人しく捕まれば、
痛い目を見ずに済むぞ?」
「ノイス!!」
氷から解放されたロウが、声を振り絞る。
「そいつは別格だ!
俺たちじゃ歯が立たねぇ――早く逃げろ!!」
(うーん。そうは見えないけどな)
内心で、ぽつりと呟く。
「逃げられるとでも思ったのか?
……すでに手遅れだ!」
氷棒を握る手に力がこもり、冷気が溢れ出す。
ブラムは地を蹴り、一直線にノイスへと迫った。
素早い踏み込み。
爆ぜる冷気。
そして、冷たい殺意。
(あ……やっぱりこうなっちゃうか)
ノイスは、面倒くさそうに肩を落とした。




