3杯目 仕事の実り ②
修人は少し呆気にとられながらも、グラスを口元に運んだ。
セイロンティーが口の中に触れた瞬間、心地よい冷たさとまろやかな風味が口いっぱいに広がっていく。
こんなに飲みやすい紅茶は初めてだ。もともと身体の一部だったかのように、すんなりと流れ込んでくる。
それでいて味わい深く、熟したコクがあった。
修人はもう一口、そしてさらにもう一口と飲み続ける。アイスティーの清涼感が彼の体を包み込み、暑さを和らげていく。
これまでずっと惰性でコーヒーを飲んでいたことを後悔するほどの飲みごたえだった。
修人はグラスの半分以上を一気に飲むと、大きく息を吐いた。
まさかこれを猫が淹れているなんて……。
目の前で見ていたが、それでも信じられなかった。
修人は感心した目を、カウンターにいるミアに向ける。すると再びミアと目が合った。
ビー玉のように透き通った瞳は、生き生きとした活力に満ちていて、ロボットではなさそうだった。
「お、美味しいです」
修人はとっさに声を出した。
「ありがとうございます」
前足を立てたまま後ろ足を曲げて腰を下ろしたミアは、ぺこりと頭を下げた。落ち着いた所作は、上品さを醸し出している。
そしてミアは修人のことを、じっと見つめる。
「お客さま、ふだんは紅茶を飲まないですよね?」
ミアは澄ました顔で、ずばり言い当てる。修人は不意を突かれて、少しドキッとした。
「は、はい。どうしてわかったんですか?」
「難しそうな顔をしながら、メニューをずっと見ておられたので」
「あぁ、なるほどね」
まだあの時は猫のことを確認していなかったが、ずっと見られていたのか。
ミアがいたずらっぽく笑うと、修人は決まりが悪そうに、頭を掻いた。
「正直、暑さから逃れたい一心で、ここに入ったんですよ」
修人は正直に白状した。
それから仕事のことを思い出して、眉間に皺を寄せる。そして深いため息をついた。
「この時期の外回りの営業は、本当に大変なんですよ」
「たしかに今日は暑いですね」
「もちろん暑さもあるんですが、最近の仕事が本当にキツくて、まったく働きがいを感じられないんですよ。ノルマも多いし、上司はうるさいし」
もともと考えていたことだったが、それを言葉にすると止まらなくなっていた。
相手は猫だと言うのに、軽快に愚痴ってしまった。
修人がハッとしてミアの方を見ると、何とも言えない複雑な表情が浮かんでいた。
その表情からは、何を考えているのか、ムッとしているような不満そうな、あるいは興味がなさそうな表情にも見えた。
「こんな話されても困りますよね」
修人は自嘲気味にそう言うと、ミアは耳をピクリと動かして、それから丁寧な口調で言葉を紡いだ。
「そうですね。私には人間の仕事はよく分かりません」
ミアはそっと目を閉じ、深く吸い込んだ空気をゆっくりと吐き出した。
やがて目を開けたミアは、修人の方を真っ直ぐに見据えた。ビー玉のような瞳がかすかに光を宿して、輝きが増している。そして少し間を置いて、柔らかな声で語った。
「仕事が辛いときは、誰にでもあるものです。その選択に、善いも悪いもありません。続けるのも、辞めるのもどちらも間違いではない。仕事は手段にすぎないのですから」
修人はその言葉に小さく眉をひそめた。「手段……?」と首を傾げ、少し考え込むような顔をする。
ミアはその様子を見て、静かに微笑む。
「ええ、そうです。生きるための手段。けれど、いけないのは、自分の生き方まで辞めてしまうこと。それだけは、どんなに辛くても、絶対にしてはいけません」
部屋の中は思考の奥深くにある静寂に包まれた。窓の外から聞こえてくる蝉の声が、わずかに小さくなったような気がした。
修人は唸るように息を吐き、「うーん、なるほどなぁ」と囁くように頷いた。その目には一抹の困惑と、ほんの少しの納得が浮かんでいた。
まさか、こんな小さな猫の言葉に考えさせられるだなんて思いもよらなかった。
それからミアは背中の後ろで尻尾を振りながら、声を弾ませる。
「セイロンティーはスリランカで作られた紅茶の総称です。本日、飲んでいただいた銘柄はキャンディ」
「……キャンディ?」
飴玉か?
何だか甘そうな名前だ。
「キャンディはスリランカの地名です」
連想していたことが見透かされたのか、間髪入れずに補足されてしまった。
「スリランカのキャンディ郊外にはセイロンティーの父と呼ばれるジェームズ・テイラーの墓があります」
ミアは姿勢を正して、それからゆっくりと語り始めた。
「彼は16歳のころに、スコットランドからコーヒー栽培の研究助手としてスリランカにやってきました。しかしコーヒーが病害によってほとんど全滅。テイラーも必死で回復を試みましたが、叶わなかったそうです」
修人はその話に聞き覚えがあった。
スリランカといえば、かつてはコーヒー豆の生産で知られていた。今でもセイロンコーヒーがあるが、流通量が少なくて、かなり希少だ。
「それに代わる作物として、テイラーは紅茶の栽培・製造の研究を重ねました。初めは10キロだった茶葉は、20年後には2万トンまで急増させ、スリランカの輸出産業を確立させました」
「それが彼の仕事……?」
「ええ。ですがテイラーは茶園のバンガロー内で亡くなるまで、1度もスコットランドには帰らなかったそうです。もちろん紅茶栽培は仕事ですが、それ以上に彼には強い志と探究心があったのです」
修人はミアの伝えたいことが、何となく分かった気がした。
「コーヒーでも紅茶でも生き方は同じ、ってことですか」
修人は、まるで自分に問いかけるようにポツリと呟いた。
その声は小さく、カフェの静けさに溶け込んで消えていく。視線を伏せると、机の上のセイロンティーに目を留めた。
琥珀色の液体が、グラスの中で透明な氷と交わり、宝石のように輝いている。
修人は手を伸ばし、そっとグラスを掴む。
冷たい感触が指先に伝わり、心の奥でくすぶっていた熱を冷やしてくれるようだった。
最後の一口を飲み干すと、初めに飲んだときよりもコクが増し、より味わい深くなっているような気がした。
テイラーの話を聞いたからだろうか。これが彼の仕事の成果、というわけだ。
修人は、ぼんやりとそんなことを思った。
修人が飲み干したグラスを机の上に戻すと、氷がカランと音を立てて崩れる。
修人はその音にどこか心地さ感じながら、余韻に浸った。
そして修人は小さく呼気を吐いて、汗を拭い立ち上がる。
「ありがとう。美味しかったよ」
ただ体を休めただけではない。
お店に入ってきたとは別人かのような、心持ちになっていた。
「またのお越しをお待ちしております」
会計を済ませ、『rheology』出ると、ふたたび真夏の熱波が襲ってくる。
しかし修人の足取りはずっと軽くなっていた。




