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4杯目 午後のパレット ①

「あぁ、これじゃ駄目だ」

 宮川圭は背もたれに体を預けて、天井を仰いだ。

 何度か瞬きすると、眼球の奥に圧力がかかってクラクラする。

 机の上に置かれていた愛用の目薬をさしてから、慣らすためにゆっくりと部屋を見渡した。

 自宅兼アトリエとなっているアパートの一室には、画材やキャンバスがずらりと並び、壁には圭自身の作品が掲示されている。足の踏み場がないほど手狭になってきたが、残念ながら引っ越す余裕はない。今月の家賃も怪しいくらいだ。

 圭は机に置かれた絵に目線を戻して、深いため息をつく。

 今日は朝から、圭は絵筆を握りしめ、静まり返った部屋でひたすらキャンバスに向かっていた。時計の針が進む音すら聞こえないほど集中し、気がつけば外は夕暮れだった。

 色彩を何度も重ね、画布に描かれた輪郭を塗りつぶし、描き直し、また色を重ねる。

 しかし、どうしてもその先が見えなかった。キャンバスに向かうたびに、何かしらの欠けを感じてしまう。それが一体何なのか、言葉にできず、また筆を止めるしかなかった。

 手についた絵の具は乾きかけていて、爪の隙間にまで入り込んでいた。

 今日はもう駄目だ、と諦めにも似た感情が胸の中を覆った。

 芸術には無駄が必要ではあるが、なぜ無駄であるか解る事柄は不要だ。


 圭は椅子から立ち上がり、キャンバスの前で少しの間、ぼんやりと立ち尽くした。

「気分転換が必要だ」

 ふと口について出た圭は、すぐさまこの埃っぽいアトリエの空気から解放されたい衝動に駆られた。

 外の空気を吸い込みたくなり、着替えることにした。外へ出ることで何かが変わるかもしれないと信じたかった。着替え終えた圭がドアを開けると、夕暮れが頬を照らす。

 その瞬間、少しだけ肩の力が抜けたような気がした。

 画家としての自分を一時的に忘れ、ただ一人の人間として、外の世界に溶け込むことができるような気がして、圭は一歩外へと踏み出した。


 午後の静かな『rheology(レオロジー)』に、軽やかなドアベルの音が鳴る。

 そして扉から、髪が長く中性的な容姿の宮川圭がひとりで入ってきた。

 着替えた外着はくたびれていて、足元は運動不足と不摂生で覚束ない。そのうえ背筋はどうしても曲がってしまい、目の下に隈を浮かべていた。

 ドアノブを支えにして、なんとか姿勢を保っているようだった。

 その様子を見てミアは思わず背中を反らせて、毛を逆立てる。

 しかしミアとは対照的に、圭は穏やかな微笑を浮かべていた。

「久しぶりだね。ミア」

 その声にミアは目を細めて、それから胸を撫で下ろすように、吐息を吐いた。

「いらっしゃいませ。宮川さま」

 『rheology(レオロジー)』に何度も訪れる客は少なくない。

 紅茶好きやミアと話すことが目的で来店する客もいる。様々な人が『rheology(レオロジー)』で過ごす意味を見出している。そして圭もその1人だった。

 芸大生の頃に気まぐれで訪れていて、気づけばもう5年以上経過していた。

「久しぶりにアフタヌーンティーを楽しみたくて来たよ」と圭が言うと、ミアも小さく頷いた。

「かしこまりました」

 すぐにミアは手慣れた手つきで、アフターヌーンティーの準備を始めた。

 圭はいつも決まって、アフタヌーンティーを注文する。これも5年間ずっと続いていることだ。

 『rheology(レオロジー)』では、週に2回、月曜日と木曜日にだけ提供しているメニューだ。

 圭は店の雰囲気を堪能しながらゆっくりと歩を進め、カウンター席に腰掛けた。


「前に来たのっていつだったっけ?」

「半年ほど前ですね」

「え? そんなに経ったのか」

 圭は驚いたように目を見開いたが、すぐに納得するように小さく頷いた。日々の忙しさに追われているうちに、あのときの記憶が霞んでしまっていたようだ。

「はい。お仕事が忙しいようですね」

 ミアの言葉に、圭は照れくさそうに苦笑し、無意識に頭を掻いた。

「それで食べてるわけじゃないから、仕事とは言えないけどね」

 圭の声には、どこか自嘲の響きが混じっていた。

 圭は画家を志している。美大を卒業してから、その道を歩み続けていたが、現実は思っていた以上に高く、絵だけで生活する目標は遥か遠くの夢だった。

 今はアルバイトをしながら、何とか絵を描く時間を捻出している。コンテストがあれば、眠る間も惜しんで制作に没頭し、応募する。しかし、その努力が実を結ぶことはほとんどなかった。

「いつかは、絵だけで食べていきたいと思ってるんだけどね」

 圭は小さく呟いた。自分に言い聞かせるように、カウンターに視線を落とす。

「はい。信じてますよ」

 ミアが優しく声をかけた。

 その言葉は慰めでもなく、励ましでもない。ただそこに存在するだけの理解が込められていた。しかし、それだけで救われたような気分だった。


「家に篭りっぱなしだったから、疲れたよ」

「たまには出歩かないと駄目ですよ」

 ミアが沸かしたお湯をティーポットに注ぎながら、苦言を呈す。

「それは分かっているんだけどね」

 圭は何も言い返せない、といった風に顔を歪める。するとミアは追い打ちをかけるかのように、声をかける。

「一流の画家は長生きなことが多いですから」

「不思議だよねえ」

 その言葉に、圭は深く考え込んでから頷いた。

 カウンターの端を軽く指先で叩きながら、圭は頭の中で名だたる画家たちの姿が浮かべる。

 シャガール、ピカソ、モネ、葛飾北斎……。

 どの画家も、ひとつの時代を生き抜き、そしてその命を長く保ち続けた人々だ。

 どういう因果か判らないが、確かに画家には長寿が多い。

 長い時間をかけてひとつの道を追求し続けることは、彼らの中にあった一種の覚悟と執念を物語っているのかもしれない。

「長生きしたからって、絵が評価されるわけじゃないけどさ」

 圭は少し自嘲気味にそう言った。ただ歳を重ねるだけで才能が認められるわけではない。むしろ、評価されることなく生涯を終える画家のほうが多いのだ。しかし、それでも長く生きることができれば、いつか自分の絵が、誰かに届く日が来るのかもしれない。

「長生きするのに越したことはないよね」

 圭は冗談めかして笑った。


 それからしばらくして、ミアが淹れたアフタヌーンティーが出来上がった。

「お待たせしました」

 ティーカップに注がれたアフタヌーンティーは、美しい褐色をしていて、そこからは湯気が立ちのぼっている。

 その香りは芳醇で深みがあった。紅茶の独特な香りが複雑でありながら、それぞれが邪魔しないバランスが保たれていた。

 『rheology(レオロジー)』オリジナルのブレンドティーだ。

 それからミアは、二段のティースタンドを運んできた。

 1段目にはサンドイッチとスコーンが並んでいる。どちらも一口サイズの小さなものだ。

 そして2段目にはフルーツタルトが置かれていた。香ばしく甘い香りは圭の食欲をそそった。


 圭はまず、1段目に乗っているサンドイッチを手に取り、口に頬張る。

 パンは、ふわりと軽く、口当たりの良さが感じられる。パンの間に挟まれた具材は、新鮮な野菜やふんわりとした卵、ハムだった。

 特別なものは入ってないが、素朴で懐かしいような味がした。

 それから圭は慎重な動きで、アフタヌーンティーを口に含んだ。

 軽食を際立たせるようなうまみと、フルーティーな甘み、それに少しばかりの苦味があった。

 まろやかで心地いい味が、口の中を満たす。

「とても美味しいよ」

「ありがとうございます」

「このアフタヌーンティーの味は、いつも変わらないね」

「ええ。そうですね」

「『rheology(レオロジー)』に初めて来たときのことを思い出すよ」


 あれは美大の留年が決まったころだった。

 幼い頃から圭は自分の才能や努力に自信を持っていたが、美大に入ったことで、すぐに覆った。

 自分より上の者なんていくらでもいる、と。

 留年の知らせを受け、圭はかつての情熱を失い、失意の中で自分自身が崩れ去っていくのを感じた。

 大きな波に打ちのめされ、立ち直れそうにない脱力感に襲われた。

 しばらくの間、彼は部屋に籠り、作品の前に座りながら、未来への不安や絶望感に苛まれた。

 部屋には数え切れないほどの絵画や画材が散らばっていた。その中には彼が時間をかけて制作し、コンテストに応募した作品もあった。しかし、誰にも評価はされなかった。

 部屋に居ることも嫌になって、街へ繰り出した。目的地があったわけではない。

 何もかもがどうでもよく思えるほどに心が重かった。人混みの中を歩き、やがてそれも嫌になった。

 まるで監視されているような、睨まれているような気がした。裏通りに入って、人目を避けて歩いた。

 すると、たまたま一軒の喫茶店が圭の目に留まった。その店の外観は幻想的な雰囲気で、絵画から飛び出してきたかのような美しさだった。

 喫茶店だけが色を持っていた。

 圭はまるで光に導かれる虫ように、『rheology(レオロジー)』に入ったのをよく覚えている。

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