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3杯目 仕事の実り ①

 蝉の声が頭上から降り注いで、耳を覆うように支配していた。

 刺すような日差し、蒸し風呂のような空気の中、木村修人は汗を流しながら外回りの営業をしていた。

 鞄に詰め込まれた書類や資料が重く、修人の足取りは、ひどく鈍かった。

「普通、車があるだろ……」

 修人は悪態を吐くようにぼやいた。

 ちっぽけな営業所には、社用車が3台しかない。勤続年数の順に予約できるのだが、4年目の修人は滅多に順番が周って来ない。


 汗をぬぐいながら、修人は地図アプリを開き、次のアポイントメント先への道を探していた。

 暑さから逃れるために日陰日陰へと歩いていき、自然と路地裏を抜けるようなルートを選ぶ。

 いつの間にか周りは寂れた建物ばかりになっていた。まるで人がいなくなってしまったかのような、住宅街の裏通り。

 手入れされずに生い茂った庭の木の枝が、歩道まで伸びてきて日陰をつくってくれている。

 しかし例え日陰であっても、まとわりつく鉛のような空気からは逃れられない。全身からあふれ出す汗がどろどろと流れていく。そのうち自分そのものが、溶けてなくなってしまいそうだった。

 

 そうして辺りを散策しながら歩く修人の正面に、ひっそりと佇む古びた建物が見えた。

 外観は周りの建物とほとんど変わらないが、よく見ると窓や周りの植物たちは綺麗に掃除されている。人の気配がする様相だ。

 そして正面にある木製の扉に『OPEN』の文字が書かれたプレートが吊り下げられていて、その上には『rheology(レオロジー)』と記された看板がある。

「……カフェか」

 修人は今にも消え入りそうな声で呟いた。

 入り口の横に黒板に書かれたメニューらしきものがあるが、遠目に見ただけの雰囲気でカフェだとわかる。

 修人は考えることすらせずに、カフェへと向かっていた。今の修人にとっては、その建物がオアシスに思えた。

 次のアポまで、それほど時間はない。しかしそんなことは言っていられかった。

 ここで休憩しないと、熱中症で倒れてしまう。

 以前、部長が真夏でも休み無く歩き回った、と武勇伝を吹聴していたが、そんなことをしては死んでしまう。そもそも昔と今では最高気温がまったく違うだろう。

 それを言ったところで上司の武勇伝は止まらないし、営業ノルマが緩くなることもない。

 ため息をつきながら「最近の若いヤツは……」、と言うだけだ。

 まさかこんなパワハラ気質の昭和な会社に就職することになるとは思わなかった。

 自分の望んでいた未来とはかけ離れた現実に、修人はため息をついた。

 

 修人が沈んだ気持ちで扉を開けると、店内は涼やかな空気が流れ込んできた。灼熱の外とはまったくの別世界だった。

 修人はその空気を纏わせるように深呼吸をして、足早にカフェへと踏み入った。エアコンではなく自然な空気。室内というだけで快適だ。

 陰鬱な気持ちも忘れて、まさに生き返るような心地だった。

 他にお客はおらず、店内は静かだった。カウンター席が5つと、テーブル席が2つ。ぼんやりとした視界で確認を済ませると、修人は1番奥の臙脂えんじ色のソファに倒れ込むように座った。

 そしてずっしりと重い鞄を床に下ろす。

 それから運ばれてきたおしぼりで汗を拭い、がっくりと項垂れた。そしてソファに体を沈み込ませるように、体を休ませる。


 さて、お店に入ったからには、何か注文する必要がある。営業職に就いてから、こうした外食での出費が増えてしまったが、仕方ない。

 それに今は喉が砂漠のように渇ききっている。冷たいものを飲みたいところだ。

 修人は身体を起こして、机の端に立てかけられているメニュー表を手に取った。

 メニュー表はラミネートされた1枚の紙だけだった。

 年季が入っていて、よれている部分もある。

 表裏にはぎっしりとメニューが並んでいた。通い詰めた常連でも全て試せてはいないだろうと思わせる量だ。

 そんなメニュー表を見て、修人はあることに気づいた。

 コーヒーがどこにも書かれていないのだ。

 カフェオレも、エスプレッソも、ブラックでさえもない。


 これだけメニューがあるのに、コーヒーがないのか?

 修人はメニューの裏表を何度か往復した後、思わず顔を引きつらせた。

 書かれているのは、どれもこれも紅茶の銘柄ばかりだった。殆どは初見のものばかりだが、ダージリンとかアールグレイといったメニューから推察すると、間違い無いだろう。

 どうやらここは紅茶専門のお店らしい。

 いつもどんなお店に入っても、アイスコーヒーを頼んできた。好んでいるわけではないが、それがなんとなく決まっていて、もはやルーティーンといってもいい。

 コーヒーを提供していないカフェなんて、想定していなかった。

 しかし今さら出るわけにはいかない。それにもう少し休憩しないと、腰が上がりそうになかった。


 修人はぶっきらぼうに「アイスのセイロンティーを」と注文をした。

 セイロンティーがどういう味だったかよく覚えていないが、この際何でも良い。たしかお茶みたいにクセが少なくて飲みやすかったはずだ。

 修人はメニュー表を机の端に戻すと、ふたたび背もたれに身体を預けた。

「かしこまりました」

 少し遅れて聞こえてきた返事は、男性とも女性とも言い難い声色だった。

 まるで中性的な、あるいは子どものような声だ。声からはその姿がまったく想像が出来なかった。

 そういえば入ったときに、店員の姿が見えなかった。見えないところで作業でもしていたのだろうか。おしぼりを運んできてくれたはずだが、その時は見ている余裕なんてなかった。たしか足音もしていない。

 修人はふと店員の姿に興味に駆られ、カウンターの奥にある厨房へと目を向けた。

「……え」

 修人は驚きのあまり、言葉を失った。目を丸くしたまま、身体が動かなくなる。

 カウンター席の向こう側のキッチンで作業していたのは人ではなく、1匹の小さな猫・ミアだった。

 後ろ脚で立ち、前脚を器用に使いながら、紅茶を淹れる準備をしている。

 店員が見当たらなかったのは、見えないところで作業していたからではない。この猫が小さ過ぎて気が付かなかっただけのようだ。

 

 修人はその様子に目が離せなくなっていた。何度、瞬きしても、あまりに非現実的な光景は変わらない。頭の中に疑問符が浮かぶばかりだった。

 修人は自分が疲れていることなど忘れて、自然と立ち上がっていた。

「なにか?」

「い、いや。何も……」

 バツが悪くなって、すぐにソファに腰掛けた。それでも修人の目は、ミアの方を見続けてしまっていた。

 猫が1匹でお店を運営していて、紅茶を淹れている。こんなことは誰も信じてくれないだろう。

 修人の心に不思議な感覚が広がっていく。ファンタジーな世界に足を踏み入れたかのような気分になった。

 ロボットかとも思ったが、こんな寂れたお店に、最先端の技術があることの方が違和感があった。

 ミアは修人の目線など気にすること無く、手慣れた様子でアイスティーの淹れていく。

 その手際は惚れ惚れするほど見事で、見応えがあった。


 しばらくして、氷が入ったグラスに紅茶が注がれ、セイロンティーが完成した。

 そしてミアがグラスを乗せたお盆を片足に持ち、ゆっくりとソファー席までやってくる。思わず立ち上がり、手伝いたくなったが、変に手を出すのも躊躇われた。修人の心配をよそに、ミアはおぼんを机の上に置き、それから両脚を使ってグラスを修人の前に置いた。「お待たせしました」とミアが軽く会釈する。

 修人は呆然とグラスを見つめる。

 目の前で起きていることが、まだ現実だと信じられなかった。

 そしてまるで煙を掴むかのように、グラスを手に取った。グラスには結露が付いていて、手がひんやりと濡れた。どうやら本当に現実らしい。

 すると漂ってきた紅茶の豊かな香りが、鼻孔に心地よく染み込んだ。

「初めて嗅ぐ香りだ」

 紅茶らしくもあり、それでいてフルーティーな香り立ちと甘みがある。

 それだけで修人は心がリフレッシュされ、疲れが少しずつ和らいでいくのを感じていた。

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