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2杯目 歴史の味、希望の香り ②

 和美の正面に置かれたグラスの中には、夕焼けを思わせるような深い橙色の液体が静かに揺れていた。

 四角い氷が縦に連なっていて、1番上の氷が水面からわずかに浮き出ている。グラスの外側についた水滴がゆっくりと滴り落ちて、敷かれた紙のコースターへ吸収されていく。

 その新鮮で爽やかな柑橘の香りが、和美の鼻先をくすぐり、気分をふわりと軽くした。

 冷たいグラスに触れた瞬間、手のひらから心地よい冷気が伝わってきて、外の湿っぽい暑さを忘れさせてくれる。


 和美はそっとグラスを持ち上げ傾けると、口をすぼめて、ダージリンを一口含む。

 口の中に広がる紅茶の風味は、花のような優雅さに加えて、柑橘系を思わせる香りもする。渋みはすくなく、調和の取れた味わいだった。

 後味で広がるほのかな甘みを感じながら、和美は深い満足感に包まれる。

 紅茶の優しい味わいは、長時間歩いた和美の体を癒してくれる。そして気分を落ち着かせて、穏やかな気持ちにさせてくれた。

 和美は紅茶を味わうように目を閉じて、贅沢な時間を堪能した。

 

 和美はふと視線を窓に移す。差し込んでくる陽光が、店内を柔らかな光で包んでいる。

 和美はゆっくりと紅茶を飲みながら、心の中で思いをめぐらせた。

 たまには外に出るのもいいものだ。たった1杯の紅茶でも、そう思わせてくれる力があった。

 それと同時に、忘れていた紅茶への想いが蘇る。

 幼い頃からの憧れ、家族と過ごしたひととき、そして独り静かに本を読んだ夜。

 ダージリンの美味しさと店内の静寂によって、心の奥にしまい込んでいたものを解き放たれていく。

 カウンターの方に目をやると、ミアがこちらに気を使っているのか、静かに作業をしていた。

 動作は控えめで、あまり音を立てないように棚に並んだティーカップやポットを整理している。

 その姿には、長い間この喫茶店を守ってきた慎ましさと、客を大切にする心遣いが感じられた。

 

「あ、そうだわ」

 和美は思い出したように手をぽんと叩くと、鞄から地図を取り出した。

「猫さん。このお店を知らないかしら」

 そう言うと、和美は地図をミアの前に差し出した。

「この商店街の地図、ですか」

 ミアはカウンターからひょっこりと顔を覗かせて、その地図を覗き込んだ。

 和美が頭を悩ませて辿り着けなかった、地図とも呼べないような地図だ。

 しかしミアは何度か瞬きをした後に、すぐに記されている場所を言い当てた。

「分かりました。お酒屋さんですよね?」

「ええ。そうなの。どこか分かりますか?」

「ええ、もちろん。顔見知りですよ」

 ミアの言葉に、和美の表情が晴れやかになる。

「このお店を出て、すぐ左に曲がると商店街の大通りへと出ます。そこから右に50メートルほど歩いていくと、右手側にありますよ」

「ありがとう。行ってみるわ」

 和美はミアの言葉を地図の余白にメモして、今いる喫茶店の場所にも印をつけた。

 ようやくたどり着くことができそうだ、と和美はホッと一息をついた。

 

 それから和美は再びダージリンをゆっくりと堪能した。

 安心したからか、ダージリンの味はより美味しく感じられた。

「この紅茶、本当に美味しいですね」と和美は朗らかに口角を上げる。

「何だか心が温かくなるような気がします」

 ミアも微笑みながら、「そう言っていただけて嬉しいです」と応えた。

 すると和美は穏やかな表情のままで、ぽつりと呟いた。

「実は今日は息子の命日なんです」

 ミアは驚きの表情を浮かべて、耳をピクリと動かした。

 しかし和美の柔和な表情を目にして、すぐに肩の力を抜いた。

「だから息子が好きだったお酒を、仏壇に供えてあげようと思ったの」

「ご自身は飲まないのですね」

「ええ、私はさっぱり。息子は夫に似たのでしょうね。よく一緒に飲んでいましたよ」

 和美は目を細めて、懐かしそうに話す。

「家族や友人もみんな亡くなってしまって、私はひとりぼっちなんです。孤独な時間が増えるごとに、心がますます寂しく感じていたんですよ」

 和美の口調は大切にしていた胸の内を、そっと打ち明けるかのようだった。


「でも不思議ね、こうして紅茶を飲んで、話すだけで心が軽くなったようだわ」

「……紅茶には、そうした力が秘められていますから」

 ミアはまるで紅茶をグラスに注ぐときのような、柔らかな声色で言った。

「あら、そうなの?」

 和美が興味深そうに聞き返すと、ミアは厨房の棚から1つの陶器を取り出した。

 先ほど和美に提供した、ダージリンの茶葉だ。

 ミアは前足を器用に使い、蓋を開ける。

「今日、淹れたダージリンです。名前は『マーガレッツホープ』」

「……『マーガレッツホープ』?」

 和美はミアの言葉を、深く刻み込むように反芻する。

 聞いたことがない茶葉の名前だった。それから和美は身を乗り出して、陶器を覗き込む。

 そこには黒みがかった茶葉が入っていた。微光に照らされた茶葉は、まるで見られていることに気付いていないかのように、静寂を漂わせている。


「この茶葉の茶園は1830年代に、インドで設立されました。茶園には美しい小川が流れていて、家屋のバルコニーからは地平線の先まで青々と広がる茶畑の丘が見渡せます。朝日が昇ると、茶畑が一斉に照らされて輝いているように見えるそうです」

「素敵なところでしょうね」

 ミアの言葉によって浮かんできた茶園の情景は、ただ美しいだけでなく、どこか懐かしさや安心感をもらたしてくれた。

「ええ。オーナーの娘であるマーガレットは絵画のように美しい茶園の風景をとても気に入り、『またここに戻る』と望んだものの、帰りの船で熱帯病を発病してしまい、13才で亡くなりました」

 ミアは一度話を区切ると、自分が持っている陶器の中の茶葉に目を向けた。

 そして尻尾をゆっくりと左右に揺らした。

「そのため、当時のオーナーは娘の希望を想って、茶園の名前を『マーガレッツホープ』に変更したんです」

 ミアは話を終えると、鳴き声混じりの吐息を吐いた。


 和美には、オーナーの想いが分かるような気がした。マーガレッツホープを飲む人への希望。

 きっとオーナーは、娘を亡くした悲しみではなく、希望を茶園に込めたのだろう。希望を名前として託し、マーガレッツホープを飲む人たちが笑顔になることを願ったのだ。

 そして100年以上もの歴史を経ても、マーガレットホープは愛されている。

「素敵で優しいお話ね」

 オーナーの想いがつまった味や香りが、和美の心を揺れ動かした。前向きに希望を持てるように。

 それがミアのいう紅茶の力なのだろう。


 和美はミアの心遣いに感謝しながら、ティーカップを手に取り、最後の一口を飲み干した。

 なんだか希望を持てそうな味がした。

 それから名残惜しそうに、深く息を吸い込むようにして香りを堪能した。

「ごちそうさま、美味しかったわ」

「ありがとうございます」

 家に帰ったら、棚の奥で眠っている紅茶を取り出してみよう。そんな思いを馳せると、自然と口角が上がった。

 心地よい味わいとともに、和美は『rheology(レオロジー)』でのひとときを大切に感じたのだった。

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