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19杯目 新たな再会 ①

 左脚を大きく上げ、一度動きを止めると、前に向かって思い切り踏み込む。それと同時に右腕を力強く回し、握っていたボールを放り投げた。

 弧を描いて山なりになったボールは、座っているキャッチャーの頭を越えて、ガシャンという音とともに後ろの金網へと当たった。

「おい!何をやっているんだ、日野!」

 日野の後ろで、ピッチングの様子を見ていたコーチから叱咤の声が飛んでくる。

 日野はキャッチャーからボールを受け取り、肩をリラックスさせて息を吐く。

 この程度のピッチングすら、上手くいかない。

 原因は分かっていた。

 ある日、試合中に失投したボールが打者の頭部に当たってしまった。

 その瞬間から心の中に再び当ててしまうかもしれない恐怖が巣食い始めた。それからはマウンドに立つたびに、それはどんどん大きくなっていき、投げる瞬間には心は恐怖に支配されていた。

 かつてはまっすぐに捕手のミットに収まっていたボールが、今では思うように投げられない。

 当然、2軍に落とされ、ついには練習でさえもできなくなった。

 夜も眠れず、食事も喉を通らない。何度も何度も投球フォームを修正しようと練習を重ねたが、状況は悪化するばかりだった。

「もういい。今日はあがれ」

 ため息混じりのコーチに頭を下げて、日野はグラウンドを後にした。


 日野は呆然としながら、街を歩いていた。

 2軍の選手は1軍とは違い、昼に試合があることが多い。その後に練習があったとしても、夕方ごろには自由に動ける。

 日野が所属しているチームは、日野が幼少期の頃から応援している地元のチームだ。

 この辺りの道は懐かしい見慣れた道だった。

 子どもの頃はファンとして応援していたし、ドラフトで指名された時は運命を感じた。

 特別な才能がないと自覚しながらも、毎日練習に打ち込み、ようやく1軍に定着し始めた矢先だった。

 こんなことでスランプに陥るなんて、やはり自分にプロの世界は無謀だったのかもしれない。

 心の中には重い霧がかかり、どこを歩いているのかさえ意識が曖昧だった。かつての思い出が詰まったこの街も、今の日野にとっては遠い過去のように感じられた。それでもただ歩き続けたかった。

 歩き疲れた日野は、ふと足を止め、周囲を見渡した。すると、商店街の裏通りにある一軒の古民家が目に入った。

 それは、子どもの頃に通ったカフェだった。

 古びた木の看板には、『rheology(レオロジー)』という店名が刻まれていた。

 日野の心に温かい記憶が蘇り、胸がじんとした。

 父親と一緒に訪れたあの頃。野球クラブの練習終わりに、ときどき立ち寄ったカフェだ。

 紅茶を注文すると、初老の優しい目をした店主からサービスで飴やお菓子を貰っていた。

 扉に吊り下げられたプレートは『Open』となっている。

 入り口横の黒板プレートにも、メニューが記されている。

「まだ営業しているのか。懐かしいな」

 日野の足は自然と『rheology(レオロジー)』へと向かっていた。

 レンガや瓦は雨風の影響で色褪せていた。

 それでも20年近く前を思い出すには、充分な風貌だった。


 日野はゆっくりと木製の扉を押し開け、中に入った。

 店内はほとんど変わっておらず、まるで時間が止まったかのように感じられた。

 木のテーブルや椅子、臙脂(えんじ)色のソファ、なにもかも昔のままだった。窓から差し込む柔らかな光が、店内を温かく照らしていた。

 すると「いらっしゃいませ」とカウンターの向こうから、優しい声が聞こえた。

 その姿に日野は思わず目を見開く。カウンターの奥に立っているのは一匹の猫だった。

 灰色の毛並みは上質な毛布のように美しく、瑠璃色の丸い瞳が日野を見つめている。

 スリムでしなやかな身体に、ピンと尖った耳が付いている。

 日野は一瞬目を疑い、それから耳を疑った。

 店内には他に誰もいない。猫が喋ったようだ。

 そんな馬鹿な話があるわけないが、目の前にいる猫には、そう思わせるだけの聡明さを感じる。

「すみません、ここは男の人が店主だった覚えがあるのですが……」

 これで奥から人が出てきたら赤面ものだな、と思いながら日野は尋ねた。

 すると猫の店主は微笑んで答えた。

「前の店主ですね。彼は引退して、今は私が受け継いでいるんです」

 それから「私はミアといいます」と付け足した。

 流暢で澱みない喋り方に、日野は息を漏らして感心してしまう。

「そ、そうなんですね」

 日野は唖然としたが、何か言わなきゃと取ってつけたような相槌をして、日野はミアの正面のカウンター席に座った。

 少し傷があるが、一枚板の立派なカウンターだ。

 そこからはキッチンの背後にある、茶葉が入ったキャニスターがよく見えた。

 これも昔と変わらない、懐かしい情景だった。

「ご注文はいかがいたしますか?」

 ミアは丁寧な口調で日野に尋ねる。

「えーと、たしか……」

 せっかくの機会だから、昔飲んでいたものを、頼みたい。日野はかつての記憶を思い返す。

 メニュー表も変わらない。ラミネートされた1枚の紙だ。表裏に紅茶の種類が書かれている。

 目的のものを見つけた日野は、顔を上げてミアに頼んだ。

「ブレンドティーのホットをお願いします」

「かしこまりました」

 ミアはヒゲを揺らしながら、微笑んでそう言った。


 注文を受けたミアは、まずは電気ポットに水を入れて、スイッチを押す。

 沸騰するまでの間に、カウンターの奥へと進み、後ろ足でスッと立ち上がると、茶葉の入ったキャニスターを取り出した。

 それからティーポットとティーカップを用意する。

 ミアは機敏に動いているが、人間が普通に作業するよりも大変そうだ。

 何を持つにも両足でなければならないし、水を入ったやかんを持ったときはずいぶんと重そうだった。

 

 そしてミアは器用な手つきで、計量した茶葉をティーポットに入れていく。

 熱湯が出来上がると、ミアはティーポットにゆっくりと入れていく。お湯を静かに注ぎ入れると、豊かな香りが店内に広がり始めた。

 ミアはティーポットの蓋をしっかりと閉め、砂時計をひっくり返した。

 ミアはじっとして動かず、ただ砂が落ちる様子を見つめる。

 前の店主と同じだ。

 いつもは柔和は雰囲気なのに、このときだけは少しだけ緊張感を漂わせていた。

 ミアもまた獲物を見つめるような鋭い目つきだった。

 しばらくして、砂が全て落ちたことを確認すると、ミアは慎重にティーポットを持ち上げ、紅茶をティーカップに丁寧に注いでいく。

 一滴も漏らさないように、ゆっくりとした所作だった。

 最後の一滴までしっかりと淹れると、ミアは日野の前にカップを置き、「お待たせいたしました」と優しく言った。

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