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19杯目 新たな再会 ②

「ありがとうございます」

 日野はぼんやりとした口調でそう言った。

 ミアの作業にすっかり魅了されて、見入ってしまった。前足で作業するから、普通だったら危なっかしく見えるはずだ。だけどそれを一切感じさせない。

 それどころか前の店主と重なる部分があって、日野はなんだか懐かしい気分になった。

 子どもの頃に食い入るように眺めた、いつまでも見ていられるようなあの光景だ。

 日野は改めて、目の前に置かれたティーカップを見つめる。

 芸術品かと思わせる、美しいソーサーとティーカップ。

 そしてその中には深いオレンジ色の紅茶がひっそりと佇んでいる。

 湯気が立ち込め、紅茶の芳醇で華やかな香りが鼻腔をくすぐった。

 日野はティーカップを持ち上げ、一口含む。

 すると心地よい温かさと香りが口いっぱいに広がった。

 紅茶特有の軽い渋みがあり、飲んだ後にはほのかな甘みを感じられた。飲みやすいのに、濃厚な味わいだ。

 ブレンドティーというだけあって、それぞれの茶葉の特徴を良いところを取ったような、独自の風味や香りを楽しむことができる。

「あの頃と変わらない味ですね」

「ありがとうございます」

 

 ブレンドティーを飲んでいると、ふと幼少期の野球少年だったころの記憶が蘇ってきた。

 ティーカップから立ち上る温かい湯気を見つめながら、日野は過去へと思いを馳せる。

 とある日は喜ばしい日だった。

 日野が所属する少年野球クラブは激戦を制し、ついに全国制覇を果たした。

 日野の胸には金メダルが輝き、誇らしげな笑顔が自然と浮かんだ。大きなトロフィーを高々と掲げ、みんなで歓喜の声を上げた瞬間が、鮮明によみがえる。

 その後、父親が特別に連れて行ってくれたのが『rheology(レオロジー)』だった。紅茶を飲んだのは、それが初めてだったかもしれない。

 ほんのりと甘く、香り高い紅茶の味わいは、勝利の喜びとともに心に深く刻まれた。


 また別の日、絶対に落とせない試合に挑んでいた。勝てば甲子園出場が決まる試合だった。

 その日は、チーム全員が異様な緊張感に包まれていた。観客席にはいつも以上に多くの人が集まり、応援の声がグラウンド全体に響いていた。

 試合は序盤から一進一退の攻防が続き、どちらが勝つか分からない展開だった。日野も全力でプレーし、守備でも攻撃でもチームを引っ張った。そして迎えた最終回、点差はわずか1点。守り切れば勝利という状況だった。

 ピンチの場面で、バッターが振り抜いた球は鋭いライナーとなってセカンドを守っていた日野の方向に飛んできた。

「捕る!」

 心の中で叫びながら、飛びついてグラブを伸ばした。手に確かな感触があった……が、次の瞬間、ボールがグラブをすり抜け、背後に転がっていった。

 その間にランナーは次々とホームへ戻り、試合は逆転サヨナラ負けに終わった。ベンチに戻ると、悔しさが込み上げ、涙が止まらなかった。人目もはばからず、大声で泣いた記憶が蘇る。

「日野、大丈夫だ」

 先輩に肩を叩かれたが、その言葉が余計に胸に突き刺さった。自分のミスがなければ勝てたのではないか。その考えが頭の中を何度も巡り、さらに涙が溢れた。

 数日後、父親に連れて行ってもらった喫茶店で、紅茶を飲んだ。負けた悔しさが紅茶の渋い味と相まって、日野の心に染み込んだ。


 何も考えずに必死に戦って、ただ楽しんでいたあの日々は、今となっては遠い過去だ。

 プロの世界はまさに実力主義の厳しい世界だった。毎日が戦いであり、競争であり、生き残るためには常に最高のパフォーマンスを発揮しなければならない。そこには楽しむ余地なんてなかった。

「またあの頃に戻りたい。でも、もう無理なんですよね……」

 いつからか日野は追い詰められ、ついにはキャッチボールすらもままならなくなってしまった。


「変わらずにいるために、どうすればいいでしょうか?」

 ふいに、日野はミアの方を見つめ、悩みを吐露した。

 それはまるで自分でも気づかないうちに、偶然こぼれ落ちたかのような声だった。

 するとミアは前足で顔のあたりを掻いて、考える仕草をする。その動作が妙に人間らしく、日野はじっと目を向ける。

 それから後ろ足を曲げ、背筋と前足をスラリと伸ばして姿勢を正すと、落ち着いた口調で応えた。

「みんな変わらないようで、実は少しずつ変わっているものです」

「それはどういう意味ですか?」

 日野が眉をひそめて訊ねると、ミアはスッと目線を落とす。そこには日野の飲んでいたブレンドティーが湯気を薄ら立ち上らせていた。

「たとえば先ほど変わらないと言っていただいたブレンドティーも、実は年々少しずつ変わっています」

「えっ」

 日野が驚いた顔を見せると、ミアは静かに続けた。

「茶葉の品質や技術、天候や湿気などによって、どうしても変化してしまいます。手に入らなくなった茶葉もあります」

 そしてミアは一瞬言葉を切り、小さく息を吐いた。

「それに私も、まだ前の店主さんほどの技術はありません」

 ミアは静かに瞳を閉じ、そして息継ぎと同時にもう一度、日野を見つめた。

「変わらないことを目指して努力していても、変わってしまうものはある。それでも変わっていないようにみせなければいけません。このブレンドティーを待っている方々がいますから」

 ミアの言葉に、日野は深く息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。

 心の中で何かが解き放たれるような感覚があった。

 自分は無理やり変わらないようにしようと押さえ込んでいたのかもしれない。しかし、ミアの言葉はそれを否定するのではなく、変化の上に変わらないものを魅せることの大切さを教えてくれた。

「だからこそ、変わることを受け入れながらも、それをどう魅せるかを考えることが大切……」

 日野は自分に言い聞かせるかのように、小さな声で呟いた。それからブレンドティーを一口飲み、考え込むように目を伏せた。カップを持つ手が、少しだけ震えているように見えた。

「ありがとうございます。ミアさん」

 日野の声色には、先ほどまでの迷いが消え、前向きな力が宿っていた。

「何か変えられそうな気がしてきました」

 それから日野は大事そうに残りの紅茶を飲み干すと、ふと軽やかに口角を上げた。

 ミアもまた、それを見て満足そうに瑠璃色の瞳を細め、猫らしい柔らかな笑みを浮かべた。

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