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16杯目 香りの効果 ①

 身の震える寒さの午後、吉口健一は、母親が入所している養護施設の門をくぐった。施設のロビーには、老人たちの笑い声と、スタッフの優しい声が響いていた。

「吉口さん、お母さんの調子は今日も良いですよ」

 健一の存在に気がついたスタッフの一人が声をかけてくれた。

「ありがとうございます」と健一は微笑み返す。

 それから受付を済ませると、エレベーターに乗り込んだ。

 母の部屋は3階の一角にあった。今の時間は、ほとんどの入居者が部屋にいるタイミングらしい。3階のフロアは不気味なほど静かだった。

 個室のドアを開けると、母が窓際の椅子に座って外を見つめていた。白髪混じりの髪が陽の光を浴びて輝いている。

「母さん、来たよ」と健一は優しく声をかけた。

 母はゆっくりと振り向き、健一を見つめた後、しわくちゃな顔に、かすかな微笑みが浮かんだ。

「あら、いらっしゃい」

 その笑みは上品で、奥ゆかしさが感じられた。

 入院する直前まで働いていた接客していたころの名残が今も残っている。

「健一? 久しぶりね」

 母は少し戸惑った様子で言った。

 その瞳は虚空を見つめていて、健一の姿はどこにもなかった。

 健一はため息とともに笑みを作り、椅子を引いて母の隣に座り、語りかけた。

「気分はどう?」

「ずっと閉じこもっていても、つまらないわね」

 母は寂しそうな笑みを浮かべて、そう言った。

 足腰が弱っている上に、軽い物忘れが始まった今、1人で行動するのは施設から制限されている。


「クゥちゃんは元気?」

 母は椅子の上で、身を乗り出して訊ねる。

 クゥちゃんとは、健一が就職を機に家を出てから母が飼い出した犬の名前だ。それももう20年以上前の話。すでに他界してしまっている。

「うん。元気だよ」

「そう、よかったわ」

 母の屈託のない笑顔に、健一は顔を歪めて目線を逸らす。頭ごなしに否定するよりも、話を合わせた方がいいというが、嘘をつくことには抵抗感があった。

 居心地の悪さを感じた健一は、話題を変える。

「母さん。昔よく飲んでいた紅茶のこと、覚えている?」

 健一の問いかけに、母はピクリとも表情を変えず、しかし思考を巡らせているかのように目をあちこちに向ける。

「そうだったかしら?」

 母は首をかしげた。

「ごめんなさいね、私、覚えてないわ」

「いいんだよ、お母さん」

 健一は目を潤ませながら、そう言った。

 そして幼少期の頃を思い返す。母は出勤する前に、決まって紅茶を飲んでいた。

 当時は紅茶の香りがなんとなく苦手で避けていたが、母が美味しそうに飲んでいた記憶がある。

 たしか大学生の時に一度だけ、飲ませてもらったことがあった。りんごの香りが漂うフルーティーな紅茶だった覚えがある。

 もし、あの紅茶を用意できたなら……。

 健一はそんなことを考えながら、制限時間になるまで、母と世間話をして過ごした。


 陽が傾きかけた午後、カフェ『rheology(レオロジー)』の扉がゆっくりと開いた。

 ドアベルの音が店内に響き、紺色のコートを纏った健一がゆっくりと入ってきた。木製の床は軋む音を立てて、彼の一歩一歩を受け止めた。

 カウンターの向こう側では、店主の猫・ミアが微笑みながら迎えの挨拶をした。

「いらっしゃいませ」

 健一はミアの正面の席に座り、柔らかく差し込む日差しに照らされた。

 カウンターの奥を見ると、一面に茶葉が入ったキャニスターが置かれていた。

 健一は少し期待を持ってメニューに目を落とす。

 そしてしばらくの間、何を注文しようかと考えていたが、やがて決心がついたかのように、口を開く。

「以前飲んだ、紅茶を探していて……」

「ほう、どんなものでしょうか?」

 ミアは耳を前に傾けて、健一が次に発する言葉に集中する。

「たぶん、アップルアイスティーだと思うんです。ですが、どこのお店で飲んでも違う気がして」

 健一は言葉がみつからないのか、口ごもりながら話す。

「アップルティーですか……」

 ミアは興味深そうに相づちを打つ。

「覚えているのはりんごの甘い香りです。かなり印象的だったんですけど」

「かしこまりました。作ってみましょう」

 そしてミアは頷いて、手早く準備を始めた。

 まずカウンター背後の棚からキャニスターを取り出した。キャニスターの中から広がる香りは、甘くてフルーティーなアップルティーの匂いだ。

 それからポットに水を入れ、スイッチを押す。

 次にミアは紅茶の葉をティーポットに適量入れていく。葉は鮮やかな色をしており、小さなリンゴの果肉が混じっているのが見える。

 やがてお湯が出来上がると、ミアはそれを慎重にティーポットに注ぎ始めた。熱湯が紅茶の葉に触れると、香りが一層豊かに広がり、部屋中に甘酸っぱいリンゴの香りが漂った。

 ミアはポットの蓋を閉め、数分間蒸らすために時計を見ながら待った。

 時間が経つと、ミアは慎重にティーポットの蓋を開け、茶こしを使って別のティーポットに移し替え、熱を冷ます。

 そこから氷に満ちたグラスに紅茶を注ぎ始めた。琥珀色の液体がグラスの中で氷と絡み合うと、氷が割れて涼しげな音を立てる。濃い琥珀色の液体がカップに満ち、上品なリンゴの香りが一層際立った。

 最後にミアは香り高いアップルティーを慎重に運び、健一の前に置いた。

「お待たせいたしました。当店のアップルアイスティーでございます」


 グラスからはリンゴの甘酸っぱい香りを漂わせ、健一の鼻をくすぐった。

 そして健一はティーカップを手に取り、そっと一口含んだ。

 冷たいアップルティーの香りが口いっぱいに広がり、しばらく目を閉じて味わった後、控えめに微笑んだ。

「美味しいです。ここ最近で飲んだ中で、1番美味しい。」

 健一は穏やかな声で言った。

「でも……」

「でも?」

 その言葉に、ミアは耳を軽く動かしながら首を傾げた。

「何か想像と少し違うような気がして……」

 健一は眉をひそめて、慎重に言葉を選びながらミアに伝えた。ミアが不思議そうに、背中の後ろで尻尾を振りながら問い返す。

「どう違いますか?」

「このアップルティー、香りは素晴らしいんですが、酸味が少し足りないように感じます。それに、もう少しリンゴの香りが強かった気がします。それと……たぶん、少しだけ苦味もありました」

 健一は思い出すように視線を遠くに漂わせながら、丁寧に説明を加える。その表情には、上手く説明ができないもどかしさが浮かんでいた。

「普段はあまり紅茶を飲まないから、記憶が曖昧で……。どんな紅茶だったのか、名前を聞いておけば良かったと後悔しています」

「その紅茶を飲んだのはいつ頃ですか?」

「私が20歳になったばかりだったと思います。珍しく母が勧めてくれたんです。もう30年近く前のことです。あれ以来、飲んでいませんし、記憶も曖昧なんです」

 するとミアは何か気づいたように、ピンと尻尾を立てると、ヒゲを揺らして笑みを浮かべた。

「おそらく、お客さまが求めているものが分かりました。ただ、残念ながら今はお店にご用意がありません。ですが、また後日、ぜひいらしてください」

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