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16杯目 香りの効果 ②

 朝の陽光が窓からやわらかく差し込んでくる。木製の家具で統一された店内は、淡い金色に染められたように見える。

 ミアは前足を前に突き出して、背中を反らして大きく伸びをした。

 いつもよりも早い時間の起床だ。今日は店のオーナーである白城莉央と、買い物へ出かける予定がある。

「ミア、おはよう!」

 約束の時間ちょうどに扉が開き、莉央が元気よく店に入ってきた。

 相変わらず、莉央は明るい笑顔とテンションだ。輝くブロンズ髪も相まって、小さな太陽が扉を開けて侵入してきたのかと思うほどだった。

 ミアは目を細め、それからストンと床に降り立つ。

「おはようございます。今日はお付き合いありがとうございます」

「いいよ~。いつもまとめ買いで済ませてるのに、珍しいね」

「はい。少し特別なものが必要でして」

 ミアの答えに、莉央は目を輝かせながら問いかけた。

「へえ、特別なものって何? 気になるなあ」

「詳細は後ほどお話しします。それでは行きましょう」


 『rheology(レオロジー)』を出て、それから横道を曲がると、視界が開けて商店街のメインストリートが現れる。古びた木製の看板や、レトロな個人経営のお店が並ぶ通りだ。朝の澄んだ空気の中で、まだ人影はまばらだった。

「相変わらず、のんびりした雰囲気だね」

 莉央は周囲を見渡しながら言った。

「そうですね。この時間帯は特に静かです」

 ミアは莉央の隣を歩きながら、通りに並ぶ店をじっと見つめていた。いつもならケージに入れられるが、今日は近場ということで歩いての移動だ。四本の足で地面を踏みしめる感覚が心地よい。

「この辺、もっと賑やかになればいいのに。せっかくミアのお店があるのにね」

 ミアは莉央を見上げ、首を軽く傾けて答えた。

「私は今くらいの忙しさが性に合っていますよ。お客様とゆっくりお話しできますから」

 ミアの耳が微かに揺れた。もし『rheology(レオロジー)』があまりに有名になり、行列ができるような店になってしまったら、今のように一人一人に丁寧なサービスを提供することは難しくなるだろう。

「なるほど、確かにそうかもね。でも、シャッター街になるのは寂しいよね」

 莉央は小さく笑いながら肩をすくめた。


 そんな会話を交わしながら、2人は商店街を進み、やがて目的のお店である『藤田酒屋』にたどり着いた。

「目的のものは、お酒なの?」

 意外な目的地に、莉央は驚きの声を挙げる。

「ええ。そうです」

 ミアはそう言うと、店内に入っていく。

 店内の棚にはさまざまな銘柄の酒が整然と並べられている。日本酒、焼酎、ウイスキー、ワイン。

 その多様な品揃えは、ショッピングモールに引けを取らず、高品質なものを厳選している。

 莉央とミアが入り口前に立っていると、店主の藤田が2人に気づいて声をかける。

「いらっしゃい、莉央ちゃん」

 カウンターの向こうから、酒屋の店主である藤田がにこやかに声をかけてきた。白髪混じりの髪に、笑い皺が刻まれた顔は、どこか安心感を与えてくれる。

「こんにちは~」

「藤田さん、いつもお世話になってます」

 ミアも隣でペコリと頭を下げる。藤田と会うのは年末に『rheology(レオロジー)』に来てもらって以来だった。

「今日は何をお探しかな?」

 藤田はカウンターから出て、2人に歩み寄った。店内には他の客の姿はなく、手持ちぶたさのようだった。

「実はアップルティーのお酒を探してるんです」

 ミアがそう言うと、藤田はふむ、と頷いて棚の一角に目を向けた。

「なるほど。もしかしてコレのことかな」

 藤田はすぐに棚の奥から一本のボトルを取り出し、ミアの前に掲げてみせた。

 ボトルのラベルには、ティーポットが描かれており、その周りには赤色のリンゴのロゴが彩っていた。

「これです! ありがとうございます、藤田さん」

 ミアは尻尾をピンと立てて反応し、喜びの表情をみせる。その様子に藤田も満足そうに頷く。

「何これ? お酒なんですか?」

 莉央が首を傾けながら、ラベルを確認する。

「はい。紅茶のメーカーが手掛けているリキュールなんです」

 藤田さんが答えると、莉央は感心したように目を丸くした。

「ヘえ、美味しそう。学校行く前だから今日は飲めないけど、今度飲ませてね」

「もちろん」

 ミアはそう言うと、嬉しそうにヒゲを揺らしてみせた。その仕草に莉央も思わず笑みをこぼす。

「普段はお店に置いていないので、助かりました」

 ミアが礼を述べると、藤田は包装紙で丁寧にボトルを包みながら言った。

「どういたしまして。お客さんが喜んでくれるといいね」

 藤田は紙袋に入れたボトルを莉央に手渡した。


 ミアが買い物に行った日の午後。

 健一が再び『rheology(レオロジー)』を訪れた。

「お待ちしていました」

 ミアはさっそく棚から一本のボトルを取り出す。その手には、昼に購入したばかりの紅茶リキュールが握られていた。

「お酒、ですか」

「お客さまのおぼろげな味の記憶と、20歳くらいという話を聞いて、ピンと来ました」

 そう言って、氷の入ったグラスに紅茶のリキュールを入れて、健一の前に差し出す。

 宝石のように煌めく氷の中に、ワインのような深い赤色の液体が漂っている。

「わざわざありがとうございます」

 健一は少し緊張した面持ちでグラスを手に取ると、ゆっくりと口元に運んだ。

 一口含んだ瞬間、健一表情がみるみるうちに変わった。満足と感動が入り混じったその顔は、まるで懐かしい人に再会したときのようだった。

「これだ!……間違いありません。この味です」

 ミアもまた満足そうに頷いた。

「お客さまの求めるものが見つかってよかったです」

 健一はひとしきり味を堪能したあと、グラスを見つめながら、遠い記憶に思いを馳せた。

「この味、母がよく飲んでいたアップルティーの味なんです。仕事に行く前に必ず一杯飲んでいました」

 シングルマザーだった母は、休むことなく毎日仕事をしていた。昼は事務職をして、夜もスナックで働く。

 会えるのはその間のわずかな時間だけだった。

 子どものころの健一になっては、それが何より大切な時間だったのだ。

 しかし紅茶の香りが苦手だったし、興味を持つことはなかった。今思えば、母も健一の前で飲むのは避けていたように思う。

 「僕が20歳になったとき、母が嬉しそうにこれを勧めてくれました。『これなら飲めるだろう』って。最初は妙な味だと思って、それからすっかり忘れていました。でも……記憶の奥底にはずっと残っていたみたいです」

 健一はグラスをもう一度持ち上げ、小さく笑った。

「それがリキュールだったなんて……少し驚きました。でも、こうしてまたこの味に出会えて、本当に良かった。不思議なものですね。あの頃の思い出がこんなにも蘇るなんて」

 健一が気恥ずかしそうに苦笑しながら言うと、ミアは微笑みながら言った。

「それは、プルースト効果かもしれませんね。」

「プルースト効果?」

 健一が首を傾げると、ミアが背筋を伸ばして、説明を始めた。

「作家のマルセル・プルーストが自伝的小説『失われた時を求めて』で、自分が紅茶に浸したマドレーヌを食べた時に幼少期の記憶が蘇ったことを書いています。これがプルースト効果と呼ばれるようになったんです。特定の香りや味が、忘れていた思い出を一気に呼び覚ます現象なんですよ」

「なるほど、それが今の私に起きたんですね」

 しばしグラスを見つめながら考え込む健一の顔に、どこか優しげな笑みが浮かぶ。

「今度、このリキュールを買って、母に持っていってみようと思います。もうお酒は飲めないかもしれませんが、香りだけでも楽しめるはずですから。」

 ミアもその言葉に頷きながら、静かにリキュールの瓶を見つめた。

「香りや味覚は、時間も空間も超えて、人の記憶に直接触れることができますからね」

 『rheology(レオロジー)』にはしばしの静寂が流れ、修一はその思い出に浸っていた。ミアもまた、リキュールに込められた思い出に想いを馳せた。

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