15杯目 ティータイムの道標 ②
「紅茶はお口に合いましたか?」
ミアは穏やかな口調で問いかけた。
「……はい。美味しいです」と亮介は短く答えたが、その声には生気がなかった。
実のところ、味に集中する余裕すらなかった。
紅茶の香りや温かさを感じつつも、心はどこか遠くに漂っている。
「それは良かったです」と言っているミアには、申し訳なく感じられた。
するとミアはふんわりとした口調で、しかし目つきを鋭くして、話を続けた。
「このダージリンの茶種は『ロプチュー』といいます」
「……なぜ、そんなことを?」
亮介は顔を上げ、ミアの表情を覗き見る。
ミアの表情は真剣なようにも、微笑んでいるようにもみえた。そしてミアはゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「ここで働いていると、人の心の動きがよく見えるんです。特に悲しみや絶望には敏感になります」
あっさりと自分の内面を言い当てられた亮介は、何も言えぬままミアの話に耳を傾ける。
「歩くときはふらつき、表情も沈んでいる。お客さまは自分を押し殺して、追い詰められているように感じました。あるいはもう追い詰められた後かもしれませんね」
ピタリと言い当てるミアの言葉に、亮介はまた幻想と現実の間を行き来しているような感覚に陥った。
「……そう、ですね」
しばらく沈黙した後、亮介は観念したように呟いた。
「毎朝の通勤ラッシュ、上司の怒鳴り声、終わることのない業務。気がついたときには、心が蝕まれていました」
亮介の脳裏に、今日の静まり返ったオフィスが浮かぶ。
1人でデスクに座り、黙々と作業を進めるだけの自分の姿。未完了のタスクやファイルが画面いっぱいに広がっていた。
反対に胸の奥は空っぽで、ぽっかりと穴が開いたような虚無感が広がる。いつからこんな風に感じるようになったのか、もう覚えていない。
「夢を持って入社したはずだったんです。それがいつの間にか、ただ生きるだけの作業になって……」
亮介は俯きながら言葉を絞り出した。
「そして、ある日突然、プツンと何かが切れたんです。それからは……どうでもよくなった」
その声はあまりに静かで、しかし、深く沈んだ痛みを含んでいた。
そして亮介はがっくりと頭を垂れるとか細い声で、ミアに問いかけた。
「自殺は悪いことでしょうか?」
するとミアは耳を少し傾けて、思案する仕草をみせる。
それから拍子抜けするほど、あっさりした声で応える。
「悪いことだとは思いません。もし仮にこの先の人生もずっと不幸ならば正しい選択だと思います」
意外な言葉に、亮介は驚き目を丸くした。
てっきり生きていればいいことがあるだとか、命を粗末にするなとか、決まりきった答えが返ってくるものだと思い込んでいた。
「ですが、そんな人がいるとは思えません。それに追い詰められた人が、正しい選択をできるとは限らない。何しろ他の生き物は自殺なんてしませんからね。不幸だから生きる意味がない、なんて考えてしまうのは人間特有のものでしょうね」
ミアは尻尾を後ろ足の間にくるりと巻き込むようにして、少しだけ目を細めた。その仕草はどこか達観しているようにも見える。
「じゃあ生きる意味ってなんでしょうか?」
亮介は、もはや目の前にいるのが猫だという事実すら忘れていた。ただの疑問ではなく、求めるように、ミアの言葉を待っていた。
「自然界なら種族存続のため。ですが、人間はそれぞれ違ってきますね。自分だけの道標を見つけた時に、初めて意味を持つんじゃないでしょうか」
「みちしるべ?」
「はい。この紅茶の名前『ロプチュー』は現地の言葉で『道標の石』といいます。人生の道標を見つけることは、生きる意味を知るための原点のようなものです。どんなに困難な道でも、道標があれば迷うことはありません」
ミアはそう言うと、背筋を丸くして、優しそうなリラックスした表情を浮かべる。
「生きる意味を見失ったときは、初めに見つけた石まで戻ってみるといいかもしれません」
亮介は手に持っていたティーカップをもう一度眺める。
そこには茶褐色の紅茶から、まだ湯気が立ち込めていた。
亮介はティーカップを持ち上げ、残りをすべて飲み干した。
すると芳醇な香ばしい焙じ香が鼻を通り抜けた。それからやわらかい渋みがして、最後にはコクと旨味が増していった。
「これが、『ロプチュー』……」
さっきまでは感じなかった味が、体内に流れ込んできた。そして亮介を温めてくれる。
昔を思い出させるような懐かしさもある。暗闇を照らしてくれる温かさもあった。
「もともとこれを出すつもりだったんですか?」
「はい。注文されたときに、この話ができたらと思いまして」
ミアは背中の後ろでふんわりと尻尾を揺らす。
亮介は敵わない、というかのように苦笑した。
「夢でも、愛でも、創造でも、社会貢献でも、楽しみでも、学びでも、何でもいいと思います。それが生きる意味になるなら」
ミアがそう付け加えると、亮介は深く息をついた。
どう生きても、自分であることには変わりない。自分の道標はいったいなんなのか、亮介は思案した。
生きてきた道の何処かに、道標があるのかもしれない。亮介はロプチューの飲みながら、思い出の中の道標を懐古した。
それから感謝の意を込めてミアに微笑んだ。
「ありがとうございます。少しだけ、心が軽くなった気がします」
ミアもそれに応えるように、優しく微笑んだ。




