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15杯目 ティータイムの道標 ①

 雪が激しく降る夜、高層ビルの屋上に1人の男性が立っていた。

 ビジネススーツに身を包み、ネクタイとネームホルダーが激しく風になびいている。

 ネームホルダーには長谷川亮介と記されている。その目は虚で深い絶望の色が宿っていた。周りのネオンが彼の凍える身体を照らす。

 そして亮介は震えながら、ビルの縁に向かって、一歩一歩進んだ。柵を越えさえすれば、後は簡単だった。革靴だと足元のコンクリートが滑りやすい。それでも歩みをすすめ、亮介はビルの端に立った。

 数分の出来事だったが、独特の緊張感で体感は数時間のように思えた。

 下を見下ろすと、遠くに見える街の明かりが夜空の星みたいで、まるで別世界のように感じられた。

 あまりにも現実感がなくて、恐怖心はなかった。

「もう、これ以上は無理だ…」

 亮介は呟き、最後の一歩を踏み出そうとした。深く息を吸い込み、拳に力を込めて目を瞑ると、今までの人生が脳裏を駆け巡った。過去の記憶が瞬時に蘇り、1本のフィルムのように目の前を駆け抜ける。

 その瞬間、亮介の心に一抹の迷いが生まれた。そこから心がこじ開けられて決壊するように、後悔や不安、死への恐怖が入り込んできた。彼は逃げるように柵の内側へと倒れ込む。

 頭上から降る雪が、身体に積もっていく。

 それから自分の惨めさに身を震わせる彼からは、苦悶の声がこぼれ出た。


 雪が止む気配を見せない中、亮介は絶望のまま街を彷徨っていた。

 ビルの屋上から逃れた後、寒さと心の痛みが混ざり合う中で、足を引きずるようにして歩いていた。歩道のコンクリートは雪に覆われ、亮介の足跡が深く刻まれていた。

 亮介の頭の中は混沌としていた。絶望と後悔が交錯し、思考は堂々巡りを繰り返すだけだった。

 どこを歩いているのかさえ分からない。頭や肩に雪が積もっていくばかりだった。

 年明けの街は人影がほとんどない。営業している店も見当たらず、亮介は寒さと孤独感に苛まれていた。

 逃げ込むようにコンビニに入ったりもしたが、店内を2、3週して結局何も手に取らずに出た。それがさらなる孤独感に苛まれた。

 疲労感に打ちのめされながら、亮介はいつの間にか商店街のアーケードへ足を向けていた。

 お店にはシャッターが降りていて、街灯だけが無機質に通りを照らしている。身体が震え、寒さがいっそう厳しくなったように感じた。

 結局、誰もいないアーケードを歩くのも億劫になって、亮介は裏路地へと足を向けた。

 しばらく進んでいくと、ふと1軒の喫茶店に目を留めた。店の窓からは温かいオレンジ色の光が溢れてきて、まるで自分を招くように見えた。

「こんな時に、営業している店があるなんて……」

 亮介は思わずその扉に引き寄せられるように歩み寄り、冷えた手で木製のドアノブを握った。


「いらっしゃいませ」

 頭上でドアベルが鳴るのと同時に、中から声が聞こえてきた。

 女性とも男性ともとれる、子どものような声だ。亮介は声が聞こえた、カウンターの奥の方へ視線を向ける。そこにいたのは小さな猫の店主・ミアだった。

「……え」

 亮介は驚きに息を呑み、思わず体を揺らした。心が沈みきっていた状態だったためか、その現実感のなさに一瞬で思考が停止した。猫が喋るという光景があまりに非現実的で、亮介は何度も瞬きを繰り返す。

 ミアの身体は絨毯のような綺麗な灰色の毛で覆われている。そしてピンと立った耳を微かに動かしている。瑠璃色の瞳を丸くして、じっと亮介の方を見つめていた。その瞳の中に揺らぎはなく、どこか人間のような知性が感じられた。

 見渡してみても、他に人の姿は見当たらない。

 夢でもみているか、あるいはもう死んでしまった後なのだろうか。ビルの上と同じくらい、現実感が無かった。

 そんな疑念が亮介の頭に浮かび、まるでカーペットに染み広がる墨汁のようにじわじわと広がっていく。

「こちら、どうぞ」

 猫が前足を軽く上げ、カウンター席を示した。

 まるで長年の経験を積んだ喫茶店のマスターのような、落ち着いた態度だ。ヒゲを生やした初老の男性のイメージと重なる。共通しているのは、ヒゲが生えているという一点のみだ。

「は、はぁ」

 亮介はミアに案内に従い、少しふらつきながら、カウンターの席についた。

 店内の温かさが亮介の身体に染み渡り、凍えた身体が少しずつ解けていくのを感じた。

 そしてそれが、生きている実感をもたらしていた。

 亮介が戸惑っていると、カウンターの向こう側にいるミアが、ヒゲを揺らして微笑む。

「ご注文は?」

「ええと……」

 正直、寒さと孤独に耐えかねたから入ったのであって、何を頼むかなんて、まったく考えていなかった。

 亮介はメニュー表に目を向ける。とりあえず一番上に目に入った文字を読み上げた。

「温かい、ダージリンを」

「かしこまりました」


 ミアはそういうと、ティーポットとカップを取り出し、準備を始めた。

 ミアは静かに立ち上がり、慣れた手つきでやかんに水を満たし、コンロに置いて火を点ける。

 背後の棚からキャニスターを取り出し、その中に入っているダージリンの茶葉をそっとティーポットに入れる。

 やかんから聞こえる音が軽やかに変わり、湯気が噴出する。ミアはそれを聞くと、火を止めてやかんを持ち上げた。そして湯気が立ち上る熱湯をティーポットに注いでいく。

 その様子に、亮介は少し心配になって見つめていたが、ミアの動きは慎重で丁寧だった。

 湯が茶葉に触れると、瞬く間に香りが広がり、温かな空気が一層豊かになる。

 亮介はその光景をぼんやりと眺めながら、思わずミアの手元に目を奪われた。猫が紅茶を淹れる姿なんて、誰が想像できるだろう。その動きには一切の迷いがなく、むしろ人間以上に洗練されているように見えた。

 ミアはティーポットの蓋を閉じ、砂時計を反転させると、香箱座りをしてジッと待つ。

 その時間はまるで瞑想のようだった。

 砂がすべて落ち切ると、ミアはティーストレーナーをカップにセットし、ティーポットをゆっくり傾ける。

 琥珀色の液体を静かに注ぐ動作は、非常に慎重で、一滴も無駄にしないかのようだった。

「お待たせいたしました」

 そう言うとミアは亮介の前にティーカップを置いた。


 亮介はティーカップをそっと手前に手繰り寄せて、両手で持ち上げる。

 じんわりと感じる熱と、顔のあたりまで届く緩やかな湯気が、命を吹き込むように、亮介の身体に伝わってくる。

 亮介はジッと紅茶を見つめ、それからゆっくりと啜った。温かい液体が体内に入り込み、亮介は深呼吸と嘆声が混ざったような、息を漏らした。

「お仕事ですか?」

 ミアが声をかけると、亮介は一瞬驚いた表情を見せた。しかしすぐにそれを隠し、無理に笑おうとぎこちなく笑みを浮かべる。

「はい。まぁ……そうなんです」

「年の初めから、大変ですね」

「いえ、慣れてます。もう、いつものことですから」

 大学を卒業してから6年間、サービス残業と休日出社が常態化していた。お盆も正月も駆り出されて、実家にもしばらく帰れていない。

 慣れるというより、麻痺するという表現のほうが正しいだろう。

 そして今日はその一種の防衛本能にも限界が来てしまった。

 正月に会社にいるという事実よりも、休みが終わり、またいつものように会社が始業する日が近づいていること。それが亮介に重くのしかかっていた。

 もはや上司がいない休日出勤の方が気楽に思えるくらいだった。


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