12杯目 小さな恋のメロディ ①
夕暮れの日差しがのんびりと、カフェ『rheolog』に差し込む。
心地よい日差しに当てられたミアは、ふわりと尻尾を揺らし、大きなあくびをひとつする。それからゆっくりと前足を伸ばして、しなやかな体を解した。
「ふあぁ……、平和ですねぇ」
ミアは独り言を呟くと、ふっと目を細めた。今日は開店してから、1人もお客が来店しなかった。
昔は当たり前だった静寂が、今ではどこか珍しい。常連客の足音や、新しい客が立てるドアベルの音が聞こえる日々が続いていたからだろう。
「ま、たまにはこういう日もありですね」
心地よい平穏をかみしめつつ、そろそろ閉店の準備でもと、ミアが後ろ足をスッと揃えた瞬間だった。
チリン、とドアベルの軽快な音が鳴り、女性が入ってくる。
「ミア、いる?」
扉ををくぐってきたのは、このお店のオーナーであり、大学生の白城莉央だった。
今日も相変わらずブロンドの髪を携え、太陽のように陽気で明るい口調だ。大学の帰りなのか、教材の入った大きなバッグを抱えている。
「もちろん居ますよ」
ミアが細い目をして応える。
「お疲れ様。今日は静かだったみたいね」
莉央がカウンターに近づきながら、店内を見回す。
すると、その後ろから莉央に引っ張られる形で、もう1人の女性が入ってきた。
その女性は少し緊張した様子で店内を見回す。いきなりカフェに連れて来られて戸惑いが隠せない様子だった。
しかしミアと目が合った瞬間、おどおどしていた女性の瞳が宝石のように輝く。
「わぁ! 猫ちゃんだ!」
女性は嬉しそうに声を上げ、驚くほど素早い動きでカウンターに駆け寄る。
「触ってもいいですか!?」
女性から伸びた手は、今にもミアを鷲掴みしようとしていた。
ミアはできるだけ体を後ろにそらして、距離を取る。危うく毛を逆立ててしまいそうだった。
無遠慮に触られるのは苦手だ。それに飲食を扱う都合上、清潔にしておかなければならない。
「ええと、すみません。止めて下さい」
「わっ、ほんとに喋るんだね!」
女性はミアの言う通りに手を引っ込めてくれたが、顔を近づけたままで、興奮した様子は変わらない。なおもハイテンションで詰め寄ってくる。今にもお互いの鼻が辺りそうな距離感だ。
ミアはヒゲを垂らし、げんなりとしながら、莉央の方に向き直った。
「どなたですか?」
「友達の美咲だよ」
「あぁどおりで」
ミアは呆れるように、大きく息を吐き、肩をすくめた。
莉央の明るい波長が似ているような気がする。少し会話しただけでお互いすぐに意気投合したのが、容易に想像できてしまった。
それからミアは美咲を宥めて、正面のカウンター席に座るように促した。
その間も、美咲はミアから一度も視線をずらすことはなかった。まるで天敵に狙われているみたいで、ゾッと寒気が走った。
「それで今日はどうしたんですか?」
ミアが恐る恐る尋ねると、莉央が困ったかのように頭を掻きながら言った。
「いやあ、ちょっと相談があってね」
莉央はそう言うと、美咲の方に目を向ける。
すると美咲は俯きしゅんとして、「実はね…」と静かに話し始めた。
「彼氏と別れることになったの。ずっと悩んでたけど、結局うまくいかなくて…」
彼女の声には先ほどまでの勢いはなく、微かな震えがあり、その目には悲しみが宿っていた。
莉央は隣で同情の目を向け、口をつぐむ。
美咲の話を続ける。
「ちょっとした価値観とか性格のすれ違いだったんだけど、だんだん許容ができなくなってきて、本当に辛かった。自分を責めてばかりで、どうしたらいいのか分からなくなっちゃった」
美咲は俯き、小刻みに震えて鼻を啜る。先ほどまでのハイテンションはすっかりと身を潜めてしまった。
「今朝、いつものように大学で会ったら落ち込んでてさ。ついさっきまで泣いてたんだよ」
「はぁ、そうですか」
ミアは興味なさそうに相槌をうつ。
「それで元気付けるためにここに連れてきたってわけ」
「元気付けるって、どうすればいいんですか?」
すると莉央は上目遣いで、ミアを見つめる。
「触らせてあげて?」
「嫌です」
ミアは即座に毛を逆立て、明確に拒絶の意思を示す。その顔には珍しく怒りの色すら浮かんでいた。
たしかに先ほどのテンションを目の当たりにすれば、それだけでメンタルが回復しそうではある。
しかしいくらオーナーの頼みとはいえ、そんなことで触らせてあげるほど、安いものではない。
「いいじゃん、減るもんじゃないし」
しかしミアは無言で耳は後ろにピンとさせて、尻尾をパタパタと激しく振り始める。
それから体を縮め、目を細めて睨みつけて、莉央への不満を露わにする。
「まぁ拒否されると思ってたけどさ」
莉央が口を尖らせ、わざとらしく拗ねてみせる。
分かっていたなら初めから頼まないでほしい、そんな言葉を飲み込み、代わりにミアは鼻先で小さく息を吐く。
莉央が木製の椅子に背中を預けると、ギィと擦れる音がした。
その音が店内に響くと同時に、莉央は肘を膝に乗せ、少し考えるように目を閉じた。しばらくして、ぽつりと口を開く。
「じゃあさ、なんか紅茶作ってよ」
「はぁ、まぁいいですけど」
もちろんお客さまからの注文ではあるのだが、こういう経緯で頼まれるとどうしても歯切れが悪くなる。
「なんかいつもみたいに、いい感じのこと言ってくれたらいいからさ」
「なんかそんな風に言われるのは、とても嫌なんですけど……」
そういうとミアは大きく息を吐く。
「そもそも人間の恋愛事情については、何も知りませんよ。猫には人間のような恋愛の概念はありませんから」
ミアはふんっと鼻を鳴らす。
それでも莉央はジッとミアを見つめて、お願いする。
「とにかく励ましてあげてよ」
「……分かりましたよ」
ミアはそう応えると、カウンター後ろの棚を見つめて、尻尾を這うようにして揺らす。そしてこの無茶振りに対して、どんな紅茶が最適かと、時間をかけて思案する。
数分後、ミアはふと手を伸ばし、1つの茶葉を取り出した。
それからミアはいつものように、ティーポットをセットして、紅茶を淹れる準備を始める。
「莉央さんはいつものハーブティーにしますか?」
「いや、せっかくだから美咲と同じのにしようかな」
「かしこまりました」
ティーポットに茶葉とお湯を入れ、砂時計をひっくり返すと、抽出されるまでジッと待つ。
砂が落ちている間、ミアはピクリとも動かない。
茶葉がゆっくりと広がり、香りがぐっと増す。
そして砂がすべて落ちると、ミアは茶こしを使って温めておいたティーポットに紅茶を移していく。
「『小さな恋のメロディ』という映画は知っていますか?」
「知らな~い」
莉央は頬杖をつき、少し退屈そうに答えた。その横で、美咲も首を傾げると、まるでおかしな質問でもされたかのように、軽く首を横に振った。
「やっぱり紅茶が出てくるの?」
「はい。イギリスが舞台の作品ですから、随所に出てきますよ」
ミアはにこりと微笑んでから、軽く息をつきながら話し始める。
「イギリスの小学校で、11歳のダニエルはバレエの練習をしていた少女・メロディに一目惚れします。そして親交を深めるうちに、2人は心惹かれていきます。しかしそれを認めない厳しい教師たちや親たちと対立するようになり、ついに2人は『結婚します』とまで宣言するんです」
「うわぁ、すごい大胆だねえ」
莉央は大袈裟に口を覆って、くさい芝居のような仕草をする。
「秘密基地での結婚式とか、トロッコに乗って野原を走って行くラストシーンは割と有名だと思っていたんですけどね」
それでも2人はあまりピンときていないのか、反応が芳しくない。
ミアが腑に落ちないかのような表情をすると、美咲が訊ねる。
「いつの映画なの?」
「確か1971年だったと思います」
「じゃあ知らないよ!」
ミアは少し驚き、納得がいっていない様子で「でも、内容的には、今でも通じるところはあると思いますよ」と首を傾げた。




