11杯目 模倣とアールグレイ ②
明平は目の前に置かれたティーカップに目を移す。
紅茶の香りが湯気とともに立ち上り、柑橘系の爽やかな香りが鼻をくすぐった。
ティーカップの表面に広がる琥珀色の水面は、穏やかに揺れている。
そして白い磁器のティーカップは、その琥珀色を際立たせ、艶やかに輝いている。
いつも楽屋で愛用している安物の湯呑みとは、ずいぶんと勝手が違う。芸術品のようで、手に取ることもはばかられた。
明平は不慣れな様子で、ティーカップを持ち上げる。
それから一口含むと、その繊細な味わいが口の中に広がった。最初に感じるのは、ほのかな苦味、それから柑橘の爽やかさだった。それが徐々に深い茶葉の渋みと豊かな風味へと変化していく。温かい液体が喉を通り過ぎるたびに、心の中に小さな灯りが灯るようだった。
ティーカップを持つ手が自然と緩み、心地良い脱力感が全身を包む。明平は無意識にホッと一息ついた。
「これが何か分かるか?」
突然、隣に座っていた師匠の扇太郎が問いただす。
「ええと、紅茶ですか」
「馬鹿野郎。種類の話だよ」
「すみません、あまり詳しくなくて……」
明平が謝ると、扇太郎は呆れたように、こめかみの辺りを人差し指で掻いた。
「アールグレイだ。聞いたことくらいあるだろう?」
「あ、はい」
紅茶に疎い自分でも耳にしたことがあるのだから、おそらく有名なのだろう、と明平は推測した。
しかしこれまで飲んだことはなかったと思う。それでも喉越しがよく、飲みやすかった。
明平は改めてティーカップに注がれたアールグレイをまじまじと見つめる。
「その程度の知識じゃ、なぜ私がこれを好んで飲むか分からないだろうな」
「はい。見当がつきません」
明平は開き直って、堂々と答える。
「おい、猫助。アールグレイの起源の話をしてくれや」
「ミアです」
扇太郎に妙な名前で呼ばれたミアはふてくされてヒゲを揺らしながらも、アールグレイの起源について語り始めた。
「一説ですが、アールグレイの名は連合王国貴族のグレイ伯爵に由来します。中国から届いた正山小種の香りの良さ、フルーツのような甘い香りに、伯爵はすっかり魅了され、それを模倣して作らせた紅茶がアールグレイであると言われています」
「な、なるほど」
明平は深く頷いて感心する。
アールグレイの起源はもちろん、猫がこんなに博識だとは思わなかった。流れるようなスラスラとした解説に、思わず聞き入ってしまう。
「当時の正山小種はリュウガンというライチに似た果実の香りだったそうですが、ヨーロッパでは手に入らなかったらしいです。地中海のシチリア島で作られていたベルガモットという柑橘類のオイルで香りをつけて補い、ベルガモットフレーバーティーとして再現したようですね」
ミアは話を終えると、背後で尻尾を揺らしながら、満足そうにフゥと息を吐いた。
すると扇太郎が、腕を組み神妙な面持ちで、口を開いた。
「近頃、お前は噺に自分の色を出すようになったな」
「……。そうかも、しれません」
明平は苦悶の表情を浮かべ、心境を吐露し始める。
「師匠の技を模倣しようとしましたが全く上手くいかず、これで本当に自分が独り立ちできるのか、正直分からなくなってきました」
明平の声には、焦りと不安が滲んでいた。
師匠の芸を一から十まで真似し、日々練習に励むことが明平の修行の一環であった。しかし、劣化した模倣ばかりでは一生師匠を追い越すことができないのではないかという疑念が、心に芽生え始めていたのだ。
「だから、何とか自分の力だけで笑ってもらおうと必死でした」
「模倣をすることには、ウケをとることよりも、もっと重大な意味があるんだ」
扇太郎は重厚な声で語りかけた。
噺のときとはまるで違う。ひっそりして、誰にも聞かれないような話し方だった。
「模倣ができるようになるというのは、基礎がしっかりと身についている証拠なんだ。それがなければ、どんなに独自のスタイルを追求しても、ただの素人の独りよがりになってしまう。今のお前はまさにそれだ」
明平は扇太郎の言葉をじっと聞きながら、ごくりと息を呑んだ。
「技術がないのに、目先の笑いを欲しがり、徐々に客に媚びるようになっていく。そんなことをしても芸は身につかん。そしてそれを本当の意味での自分の色とは言わない」
明平はぐうの音も出ず、押し黙る。
自分の浅はかな考えが見透かされたどころか、無自覚だった根本的な甘さまで指摘されてしまった。
「申し訳ありません……」
明平は手を膝につき、頭を深く下げる。声は震え、冷たい汗が背中を伝って流れた。
そんな明平の様子を見て、扇太郎は表情を和らげ声のトーンを落としてから言った。
「だけどな、お前の中にある不安は成長の証でもある」
「え?」
明平は思わず、顔を上げる。
「誰もが通る道なんだ。進んでいれば壁に当たる。模倣しようとしても出来ない部分が、お前の弱みであり強みでもある。俺が時折、アールグレイを飲むのは、そんな模倣の大切さを思い出すためだ」
そういうと扇太郎は残っていたアールグレイをぐいっと飲み干した。
日頃から飲んでいるからなのか、師匠がティーカップを持っていても、それほど違和感がなかった。
「現代ではアールグレイのことを真似だ模倣だと言う奴はいない。それは紅茶としての基礎がありながら、自身の強みを理解して、唯一無二の道を進んでいるからだ」
明平はティーカップを見つめながら、師匠の言葉を心の中で反芻した。
師匠の真似をすることは間違っていない。我流を模索することも間違っていない。ただし模倣とは何かを理解した上で、その先に自分の道が見えるように努力しなければならない。
ミアが話してくれたアールグレイのように模倣できない部分を補い、自分の強みにしていかなければならないのだ。
「ありがとうございます。少し心が軽くなりました。」
明平は静かに微笑んだ。その心には新たな決意が芽生えつつあった。今はまだ見えないかもしれないが、たしかに明平の中に独自の芸の種は存在している。それを見つけ、育てていくことが自分の使命なのだ。
そう決心すると、明平も師匠を真似て、勢いよくアールグレイを飲み終えた。
「頑張ってくださいね」
帰りしなに、ミアの言葉に励まされ、明平は『rheology』を後にした。




