11杯目 模倣とアールグレイ ①
座布団一枚に、マイクがひとつあるだけの簡素な舞台で、明平は観客の視線を一身に受けていた。
明平の語り口は軽やかで、川の流れのようにすらすらと話し進めていく。
「『すると頭の桜の幹をぐいっとつかみ、根こそぎぜんぶ引き抜いちまった』」
観客の間からくすくすと笑い声が漏れる。
その巧妙な言葉遊びと、絶妙な間の取り方で聴衆を惹きつけていく。
「『そしたら頭に穴が開いちまって、雨水溜まって池ができた。「おい! 魚が泳いでるじゃねえか」と大騒ぎ』」
噺が佳境に入るにつれ、明平の語りはさらに熱を持ち、捲し立てていく。
やがて、明平がサゲを見事に決めてお辞儀をすると、わっと歓声と拍手が聞こえてくる。
一礼して舞台を降りた明平は手応えを感じながらも、それと同時に明平の心は曇天の空のような、薄暗い闇に覆われていた。
「お後がよろしいようで」と口にしながらも、心の奥底では一抹の虚しさが広がっていた。
公演が終わり、楽屋に戻ると、観客席の喧騒が嘘のように波を打ったような静寂に包まれていた。
その奥で落語の師匠である扇太郎は座布団の上に腰を下ろし、腕を組み、じっと目を瞑っている。その周りにはピンと空気が張り詰めていて、近寄りがたい威圧感があった。
明平は緊張した面持ちで、師匠の前で座礼をする。それから声を絞り出すようにして問いかける。
「今日はどうだったでしょうか、師匠?」
扇太郎は目を開き、しばらく無言のまま、明平をじっと見据える。
その眼差しはナイフのように鋭く、何もかもを見透かしたかのようだった。深く刻み込まれた皺は、幾多もの経験を思わせる。
すると扇太郎は重い口を開いた。
「……技術を以前の問題だ」
重厚で短い言葉は、決して引き抜けない釘のように、明平の心に深く刺さった。
苦々しく顔を歪め、力が抜け肩を落としそうになったのをなんとか堪える。
「申し訳ありません…」
明平はか細い声で謝罪するのが、精一杯だった。
このところ師匠の反応が芳しくなかった。どれだけお客にウケても、どれだけ手応えがあっても、顔をしかめて首を横に振るばかりだった。
一体どうすればいいのか、試行錯誤を繰り返すが、糸口は掴めずにいる。
今日ほどウケても、駄目なのだ。もがいても進展のない状況に、明平の心は底なし沼に沈むかのようだった。
すると扇太郎がふと立ち上がり、明平の肩に手を置く。
「まあ、そんなに落ち込むな。今から一杯飲みに行こうじゃないか」
突然の誘いに、明平は戸惑い、咄嗟に返事をすることができなかった。
これまで大人数の接待で飲みに行くことはあっても、師匠と二人きりでは一度もなかったことだ。
どう答えるべきか、引き出しを開けても言葉が見つからない。
もちろん断ることなどできない。しかし師匠の真意をくみ取らなければならなかった。間が埋まらないのは、扇太郎が最も嫌うことのひとつなのだ。
明平は慌てた様子で「え、えぇ、もちろんです、師匠」と、ぎこちなく応えた。
扇太郎に連れられてタクシーを降り、さらに裏路地を歩くこと数分。
たどり着いたのはずいぶんと寂れた古民家風のカフェだった。おそらく築50年ほどは経っていて、柱のひとつをうっかり押したら、ばらばらと壊れていってしまいそうなほど古くさい。
看板には『rheology』と小洒落た言葉が書かれている。
「えっと、ここですか?」
「なんだ、文句でもあるのか?」
「いえ、一杯飲む、と仰られたので……」
「阿呆か、夜の公演があるのに、酒を飲むわけがないだろう」
「いえ、そういえわけでは……」
てっきり高級なバーや有名なレストランに連れて行って貰えると思っていたから、ずいぶんと拍子抜けだ。
明平は言葉を飲み込んだまま、黙って師匠の後について中に入る。
ドアを開けると、室内は思いのほかきれいに整えられていた。木製の家具とアンティークな食器たちが並んだ温かみのある空間で、紅茶の香りがする心地よい空気に満たされている。
まるでヨーロッパの田舎のようだった。
店内に客はおらず、静かな時間が流れている。
するとカウンターの奥から、鈴が鳴るような可愛らしい声が聞こえてくる。
「いらっしゃいませ」
「やぁ、猫助。今日は弟子の明平を連れてきたんだ」
扇太郎は楽しそうに会話を交わしながら、明平を紹介した。
明平は挨拶をしようと、一歩前に出る。それから猫助と呼ばれた店主の姿を見て、自分の目を疑った。
カウンターの向こう側で作業している店主は、どう見てもただの猫なのだ。
ふんわりとした灰色の毛皮に、ぴょんと長めの尻尾。頭の上から生えた耳は、少し外側を向いている。両手に収まりそうなほどの小さな猫だった。
そして不満そうな声で、扇太郎へ抗議をする。
「猫助じゃなくて、ミアですけど」
ムッとしたその表情は、まるで人間のようだった。
「し、師匠。猫が喋ってますよ!」
「馬鹿野郎。猫が喋ったくらいで落語家が驚くんじゃねぇよ」
ずいぶんと理不尽な叱りだが、明平はぐっと口をつぐんで閉口する。
慌てふためいても、師匠に叱責されてしまうだけだ。
「扇太郎さんのお弟子さんですか。きっと素晴らしい落語家になるのでしょうね」
「いえ、日々怒られてばかりで……」
猫と喋るのは、あまりに前代未聞の体験で、明平は舞台に上がっていたときよりも、緊張して畏まってしまった。
扇太郎師匠とミアという店主は旧知の仲のようで、カウンター席に座り、次々と話が弾む。
明平はそんな二人のやり取りを眺めながら、少しずつこの状況に慣れていった。
師匠がこんな場所に通っているとは、今まで全く知らなかった。
「今日もいつものやつを頼むよ。こいつにも同じものを」
「はい。かしこまりました」
ミアがそう返事をすると、しなやかな動きで背中を伸ばし、二本足になった。それから背後の棚からキャニスターを取り出し、茶葉をスプーンでティーポットに入れていく。その動作はゆっくりと慎重であり、細やかなこだわりが感じられた。
明平はごくりと息を呑んで、その様子を眺める。
ミアはティーポットに沸かしたお湯を注ぐと、砂時計を反転させて、紅茶の蒸らし時間を計っていく。その間、ミアの瑠璃色の瞳は一瞬たりとも外さず、じっとその様子を見つめていた。
数分後、砂時計の砂がすべて落ちると、ミアは慎重にティーポットと茶こしを持ち上げ、紅茶をカップに注いだ。彼女の動作は一切の無駄がなく、その姿を見ていると心が落ち着くようだった。
ミアはティーカップを静かにテーブルに置き、フッとヒゲを揺らして頬を緩めた。
「どうぞ、お待たせしました」




