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10杯目 道の曲がり角(epilogue)

「ねぇ、ミアは本当に何も知らなかったの?」

「知りませんって」

 ミアは少し疲れた様子でため息をつきながら、カウンターに置かれたティーカップを手際よく片付ける。その指先にはいつもの落ち着きがあるものの、莉央のしつこい問いにさすがに呆れ顔だ。

 和美と鈴が帰った後、莉央はずっとこの質問ばかりだった。 

「それ、あと何回聞くんですか?」

「だって、本当に信じられないんだもん」

 莉央はまだ夢から覚めきっていないかのように、感心しきりだった。

「たしかに鈴さんからお父さんが亡くなったことも、和美さんから息子さんが亡くなったことも聞いていましたが、その2つが同じ話だなんて思ってもいないですよ」

「まぁ、そうだよね」

 莉央は納得するようにうんうんと頷き、それから本日3杯目のハーブティーを飲み干した。


「これで全部解決とはいかないけどね」

 莉央は口元を引き締め、真剣な表情で言った。

 鈴にはまだ味覚障害や母親との関係にまつわる問題が残っている。その複雑な感情が解消されるには、もっと時間が必要だろう。

「ええ、安心とはいきません。でも、今日の出来事が彼女にとってプラスに働くはずです」

 ミアはゆっくりと頷きながら答える。穏やかな言葉の中には、確信めいた想いが込もっていた。

「うん。そうだね」

 莉央は微かに目を細め、その言葉に同意するように頷いた。

「莉央さんは、鈴さんの様子を見に来ていたんですか?」

 莉央は初めて鈴と話をしたあとも、彼女の訪れるタイミングを見計らって顔を出していた。鈴の抱える問題が心配になって駆けつけていたのだろう。

「それもあるけど、どっちかと言うとミアの方かな」

「私、ですか?」

 カップを拭いていたミアは、その言葉に驚いたように耳をピンと立てる。

「うん。鈴ちゃんのことを知ってから、悩んでる感じだったし」

 莉央はまっすぐにミアを見つめる。ミアは少し照れたように小さく笑い、手元の布巾をゆっくりと畳んだ。

「なるほど、心配をかけてしまいましたね」

 そう言うと、ミアはふっと息をついて、どこか肩の力を抜いたような表情になる。

「たしかに初めは鈴さんの家庭の問題を解決できないかとか、味覚障害を直す方法がないかと考えていました。でも……簡単に解決できる問題ではないですし、考えれば考えるほど、自分にできることなんて本当に少ないなと思って」

 ミアの声には静かな諦念と、それでもどこかに確かな決意が滲んでいた。莉央は黙って耳を傾ける。

「ただ、いろんな方からアドバイスをいただいて、気づかされたんです。私が目指すサービスの先に、きっと答えがあるんだと。そう思えたとき、特別なことをする必要はなくて、自分ができることを精一杯続ければいい。そう決めたんです」

「そっか。どんな紅茶を出すか気になってたんだよ」

 そう言うと、莉央はカウンターに肘を置いて、身を乗り出す。

 その顔はしたり顔で、目の奥はきらりと光っていた。ミアに顔を近づけて、まるで取り調べのように訊ねた。

「今日おすすめしてたグームティーにも意味があったんじゃないの?」

「ええ。私なりには。しかし今となっては、もう話す必要のないことですよ」

 ミアは口を隠すようにそっぽを向いて、体を丸くする。

「ええー、いいじゃん。教えてよ」

「ひけらかすものじゃないんですよ」

 視線がじりじりと突き刺さり、ミアの小さな抵抗はとうとう崩れ去った。

「……はぁ、仕方ありませんね」

 ミアは深々とため息をつき、観念したように肩を落とす。そして静かに語り始めた。


「グームティーはネパール語で『道の曲がり角』という意味があります」

「『道の曲がり角』?」

 期待していた答えとは違ったのか、莉央は片眉を上げて、肩透かしを食らったかのような顔をする。

「何か地味だね」

「まぁ、そうかもしれませんね。しかし『赤毛のアン』は、ご存知ですか?」

「んー、聞いたことはあるけど」

「カナダの作家・モンゴメリによって1908年に著された児童文学です。日本でも世界名作劇場のアニメが有名ですよ」

「へぇ、そうなんだ。見たことはないや」

 莉央はしれっと答え、肩をすくめる。その様子を見て、ミアが細い目をしながら、解説を続ける。

「カナダのプリンス・エドワード島を舞台に、孤児の少女アン・シャーリーがカスバート家の養子としてやって来ます。本当は男の子が欲しかった一家でしたが、アンの明るい性格に感化されて、引き入れて一緒に生活を始めるようになります。共同生活の様子を描き、そしてアンがクィーン学院を卒業して教員になるまでの物語です」

「なんかめっちゃ詳しいね……」

 莉央が半ば呆れたように言い、カウンターに肘をつきながらジト目でミアを見つめる。

 「どうせ、紅茶が出てくるから見たんでしょ?」と突っ込むと、ミアは少し得意げに微笑んだ。

「ええ。ティータイムの描写が多くて、とても興味深いんです。特に、アニメでは田舎っぽいとされていた『ソーサーに紅茶を移して冷ます』という行為が、忠実に描かれているんですよ」

「うんうん、それはいいから」

 楽しげに話し続けるミアの言葉を、莉央が軽く手を振って遮る。

 邪魔されたミアは不満そうに顔をしかめて、尻尾を激しく揺らし、毛を逆立てた。


「それがどう紅茶の名前と関係あるの?」

「物語の終盤に、育ての親であるカスバート家の兄が亡くなった後の、アンの有名なセリフがあるんです」

 莉央が首を傾げて尋ねると、ミアは一瞬だけ遠くを見つめ、穏やかな表情で小さく息を吸い込んだ。

「『今、道は曲がり角に来たのよ。曲がったむこうに、何があるか分からないけど、きっとすばらしい世界があるって信じているわ。それに曲がり角というのも、心が惹かれるわ。曲がった先に、道はどう続いていくのかしらって思うもの』」

 喫茶店『rheologyレオロジー』に静寂が訪れる。まるでその言葉の余韻を楽しむかのようだった。

 それから莉央は「ほぅ」と短く感心したような声を出す。どこか遠い場所へと心が引き込まれたような感覚だった。

「アンの前向きに生きる姿勢、楽天的な考え方がよく分かる名台詞です」

 ミアの耳が微かに動き、優雅に伸びをする。その言葉の美しさに酔いしれているかのように、ミアは穏やかな息を吐いた。

「少しでも元気を与えられたらと思ったんですが、そんなメッセージなんて必要なかったですね」

 ミアは柔らかく微笑み、カップを片付けながら目を細めた。

「まさか道の曲がり角の向こう側で、おばあちゃんがいるなんてね」

 莉央もまた感慨深げに呟き、遠くを見るような目をした。その目の奥には、鈴と和美が再び巡り合ったあの瞬間の美しさが宿っていた。

 窓の外では、すっかり夜の帳が降りていた。

 『rheologyレオロジー』は、いつもと同じ静けさに戻りつつも、どこか特別な余韻を残していた。

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