第8章「転機:純白の引き金」
海底――すなわち、山に残された最後の牌が近づいていた。
無機質なコンクリートの部屋には、全自動卓の微かなモーター音と、乾いた牌の音、そして四人の女たちの荒い息遣いだけが充満していた。 卓上には相変わらず、2から8の数牌だけが異様な山を築いている。
十七巡目。 南家のアヤが、震える指で引いた『七索』を河に叩きつけるように捨てた。彼女の派手なネイルは、あまりの力みで今にも剥がれそうだった。 西家のルリは、古風なワンピースの胸元を固く握りしめながら、涙目で『二萬』をツモ切りする。 北家のマナに至っては、もう声にならない嗚咽を漏らしながら、機械的に『五筒』を捨てていた。
(このまま流局すれば「勝者なし」。私たちは全員、元の地獄へ戻される)
東家(起家)であるシオリは、自分の番が回ってくるのを見つめながら、静かに息を吸い込んだ。 彼女には、この先の残酷な結末が痛いほど計算できていた。別室にいるであろう主催者の男たちは、自分たちが疑心暗鬼に陥り、絶望のままゲームセットを迎える様を特等席で楽しんでいるに違いない。
シオリはゆっくりと顔を上げ、他の三人を見た。 多額の借金に縛られ、尊厳をすり減らしてきたアヤ。 51歳の男に買われ、バルコニーから身を投げてでも逃げようとしたルリ。 大人の欲望に弄ばれ、夢を真っ黒に塗りつぶされたマナ。
彼女たちは皆、シオリが学校で救えなかった生徒たちと同じ、助けを求めるような、傷だらけで怯えきった目をしていた。
「……ねえ、あなたたち」
静寂の中、シオリの凛とした声が響いた。 ピクッと、三人の肩が大きく跳ねる。皆、極限の緊張状態で一触即発の空気に呑まれていた。
「このゲームのルール、覚えている?」
シオリは、まるで教室で生徒に語りかけるような、穏やかで通る声で言った。
「『勝った者が、すべての望みを叶える』。そうだったわね」
アヤが怪訝そうに眉をひそめる。
「……それがどうしたって言うのよ。どうせ誰もアガれない。アガリ牌なんて、最初から山に一枚もないんでしょ……!?」
アヤもまた、この盤面の異常なカラクリに気づいていた。彼女の声には、行き場のない怒りと絶望が滲んでいた。
「ええ、その通りよ」
シオリはあっさりと肯定し、そして、天井の隅で明滅する監視カメラへ向かって、フッと冷たい笑みを向けた。
「でも、私は教師だから。あなたたちに教えなきゃいけないわね。大人が作った『理不尽なルール』の、正しい壊し方を」
次の瞬間。 シオリは自分の完璧な手牌の中から、端にある一枚の牌を、ためらいなく強く摘み上げた。 それは、誰もが手放せなかった、そして誰もが血眼になって求めていた、致命的な么九牌。
「……えっ?」
アヤが息を呑んだ。その牌が意味する「結果」に気づき、血の気が引いていく。
「だめ、それを出したら……!」
ルリが悲鳴のような声を上げた。マナは状況が飲み込めず、ただ目を丸くしている。
「いいから――私からアガりなさい!!」
パァーン!!
コンクリートの部屋に、ひときわ高く、澄んだ音が響き渡った。 シオリが力強く河に叩きつけたのは、何の装飾もない、純白の字牌。
『白』。
瞬間、時が止まったかのような錯覚が部屋を包んだ。 シオリの意図を完全に理解したアヤの目から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。 この女は、見ず知らずの自分たちを救うために、親である自分がすべての負債を背負い込み、一人で地獄へ落ちるつもりなのだ。自分たち三人を、「同点のトップ」にするために。
「……っ!!」
アヤは泣き顔のまま、しかし確かな怒りと反逆の意志を込めて、自分の手牌を勢いよく倒した。
「……ロン!!」
アヤの叫びに呼応するように、ルリが震える両手で祈るように、手牌を開く。
「ロ、ロン……ッ!」
最後に、マナが両手で顔を覆い、こぼれる涙を拭いながら叫んだ。
「ロンです……っ!!」
「「「国士無双(13面待ち)!!」」」
トリプルロン。 三人同時のダブル役満。麻雀というゲームにおいて、これ以上ないほどの最大火力が、起家であるシオリの放った『白』に突き刺さった。
コンクリートの地下室に、三人の勝利の宣言がこだまする。 親であるシオリへの合計請求点数は、19万2千点。 それは、一人の人間の人生を完全に破壊し尽くす、致死量の数字だった。
シオリは手牌を伏せたまま、倒された三つの美しい『国士無双』を見つめ、どこかホッとしたように微笑んだ。
盤上の中央に置かれた純白の『白』は、彼女たち三人のこれから始まる、誰にも汚されない新しい未来を暗示するように、地下室の冷たい光を静かに反射していた。




