第3章「シオリ:正義の代償と、起家の覚悟」
「教師」という職業は、もっと尊く、希望に満ちたものだと思っていた。 だが、赴任してわずか数ヶ月で、23歳のシオリの理想は無惨に打ち砕かれていた。
黒板には、チョークで書き殴られた『死ね』『キモい』『さっさと辞めろ』というおぞましい文字の群れ。シオリのデスクの上には、今日もコンビニの生ゴミがぶちまけられ、異臭を放っていた。 歴史ある名門女子校。外から見れば清楚で華やかなその学び舎は、一人の生徒――理事長の娘を頂点とした、陰湿で残酷なカースト制度に支配された地獄だった。
始まりは、クラスで孤立していた一人の生徒をシオリが庇ったことだった。 「こんなことは間違っている」と、主犯格である理事長の娘を正面から叱責した。それが引き金だった。ターゲットにされていた生徒は転校という形で逃げ出し、代わりにシオリが、学園中の悪意を一身に受ける避雷針となったのだ。 同僚の教師たちは皆、自分の保身のために目を逸らした。すれ違いざまに聞こえる生徒たちの嘲笑。精神を削り取るような日々の嫌がらせ。
そして昨日、決定的な事件が起きた。 階段を降りようとしたシオリの背中を、何者かが強く突き飛ばしたのだ。 間一髪で手すりを掴み、数段滑り落ちただけで済んだが、もし打ち所が悪ければ命を落としていたかもしれない。顔を上げると、階段の上から理事長の娘とその取り巻きたちが、クスクスと笑いながら見下ろしていた。
(……これはもう、教育の範疇じゃない。犯罪だ)
恐怖よりも、激しい怒りがシオリを突き動かした。 その足で理事長室の重厚な扉を叩き、シオリは真っ直ぐに理事長を睨みつけた。娘の退学処分と、学校の自浄作用を求める直談判。だが、葉巻をくゆらせる初老の理事長は、シオリの必死の訴えを聞いて、腹の底から愉快そうに笑った。
「シオリ先生。君は真面目で、本当に教育熱心だ。だがね、世の中には『権力』というどうしようもない壁がある。私の学園で、私の娘を罰することなど誰にもできんのだよ」
理事長の傲慢な顔に、シオリはギリッと奥歯を噛み締めた。
「……権力があれば、人の命を脅かしても許されると?」
「そうだとも。だが……君がそこまで言うのなら、一つチャンスをやろう」
理事長は葉巻を灰皿に押し付け、目を細めた。
「今夜、私の友人たちが集まるプライベートな麻雀対戦がある。君もそこへ参加したまえ。そこで君が見事トップを取れたなら、約束しよう。娘を退学処分にし、いっそこの学園の理事長の座を君に譲ってやる」
「……ゲーム?」
「ああ。だが負ければ、君には『それ相応の負債』を背負って、裏社会の底辺で一生を終えてもらうことになるがね」
正気の沙汰ではない。大人の、しかも権力者たちが余興として楽しむための見世物だ。 だが、シオリに迷いはなかった。ここで逃げれば、また次の犠牲者が出る。私が、この理不尽な連鎖を断ち切らなければならない。
「……分かりました。その条件、お受けします」
――そして現在。 地下深くの無機質なコンクリートの部屋。 シオリは、自分の意志で「東家(起家)」の席に座っていた。 対面にはどこか虚ろな目をした古風な服の少女。右隣には、どこか諦観したような目をした黒いドレスの女性。左隣には怯えきった様子の若い娘。
(この人たちも……)
シオリは静かに3人を観察し、胸を痛めた。彼女たちの瞳の奥にある怯えは、学園でいじめられ、去っていった生徒たちの目と全く同じだった。 監視カメラの向こうにいる「権力者」たちに理判尽に虐げられ、ここに座らされているのだと、直感で理解できた。
(勝たなければ。私が勝って、あいつらから全てを奪い取る……!)
強い決意と共に、自動卓からせり上がった13枚の牌を引き寄せる。 起家であるシオリの手牌。それを理牌した瞬間、シオリの思考はピタリと停止した。
一、九、東、南、西、北、白、發、中……。 見間違いではない。13種類の么九牌が、1枚の重なりもなく整然と並んでいる。 麻雀というゲームにおいて、天文学的な確率でしか起こり得ない絶対的な配牌。
『国士無双13面待ち』。
第一ツモでどの么九牌を引こうと、ダブル役満が確定する魔法の剣。 数学教師であるシオリの脳裏に、これが意味する恐ろしい確率と、微かな違和感がよぎる。 だがその時、彼女はまだ知る由もなかった。
この完璧すぎる手牌が、権力者たちが用意した「悪意の処刑装置」の引き金であることに。




