縫い合わされた刻1
――カチ、カチ、カチ……。
どこか遠くから、規則正しい時計の針の音が聞こえる。
深い、深い、終わりのないような白銀の闇の底から、ゆっくりと意識が浮上していくのを感じた。
「……ん……っ」
かすかな声を漏らしながら、アリアドネはゆっくりと瞼を持ち上げた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた天井。
(あ、れ……? 私、どうしたのかしら……)
目を開けると、そこはいつもの自分の部屋のベッドの上だった。
窓から差し込む柔らかな木漏れ日、聞き覚えのある鳥のさえずり。
けれど、何かが違う。
ぼんやりとする視界のなかで周囲を見回すと、部屋の装飾品が以前とは変わっていることに気づく。見たこともない豪奢な細工の施された調度品や、仕立ての良すぎるカーテン
「見たことのない花だわ……」
枕元に飾られた一輪挿しに目が留まる。零れ落ちそうなほど豊かな花弁を広げているそれは、息を呑むほど色鮮やかだったけれど、私の知らない品種だった。
「ここは……夢なのかしら」
花に触れようと、寝台から降りて手を伸ばそうとした、その時だった。
「ひゃうっ……!?」
足に思うように力がまったく入らず、アリアドネはその場に崩れるようにへたり込んでしまった。
まるで、自分の身体ではないみたいに感覚が鈍い、
自分の手足を見つめながら、アリアドネは激しい眩暈を覚えた。
いったいどのくらい、自分は眠っていたのだろう。
頭に霞がかかったようで、直前の記憶があやふやでどうにもまとまらない。
すると、床に座り込んだアリアドネの耳に、バタバタと廊下を激しく駆けてくる、複数の足音が近づいてくるのが聞こえてきた。
――バタンっ!!
静寂に包まれていた部屋の扉が、勢いよく左右に跳ね上がった。
「わあぁぁぁんっ!」
「待ってよ、アル! あ、ずるい!」
部屋に転がり込んできたのは、弾むような高い声。
呆気に取られるアリアドネの視界に飛び込んできたのは、ハニーブラウンのふんわりとした髪を揺らす、3歳くらいの小さな男の子と女の子だった。
吸い込まれそうなほどに澄んだ群青色の瞳。その顔立ちには、懐かしい面影が色濃く残っている。
床にへたり込んだままの私を見つけるなり、二人はぱぁっと、大輪のひまわりが咲いたような弾けんばかりの笑顔を見せた。
「おぉーー!アリー姉さんだぁ!!」
「え……っ? あ、危な――」
小さな身体からは想像もつかないほどの勢いで、二人は小さな大砲のようにアリアドネの胸元へと遠慮なく飛び込んできた。
ふかふかとした温かい重みがぶつかる。アリアドネは弱り切った身体で精一杯彼らを受け止めようとしたが、今の身体に踏ん張る力など残っているはずもなかった。
「ひゃっ……!?」
受け止めきれず、アリアドネは小さな二人を抱きすくめたまま、背後の柔らかな絨毯の上へと後ろのめりに倒れ込んでしまった。
「うふふ、あははは!」
「起きた! アリーお姉ちゃんが起きたー!!」
倒れ込んだアリアドネの胸の上で、子どもたちは嬉しそうにキャッキャと声を上げてはしゃぎ、小さな手で彼女の頬や服の袖をペタペタと触っている。
胸を支配するのは、愛おしさと、それを遥かに上回る大混乱。
(アリー……お姉ちゃん? この子たち、私の名前を……? それに、このハニーブラウンの髪と群青色の瞳、まるで――)
混乱する頭をどうにか働かせながら、アリアドネは胸の上の二人をそっと見つめ、掠れた声で尋ねた。
「あの、ね……教えてちょうだい。ここは、えっと……シルフィード侯爵家で、良いのよね……?」
自分の声なのに、どこか遠くから聞こえるような違和感。
すると、男の子のほうが群青色の瞳をきらきらと輝かせ、胸を張って元気いっぱいに答えてくれた。
「そうだよ! ここはシルフィードこうしゃくけだよ!」
「アリーお姉ちゃんのおうちだよー!」
女の子の方も、男の子の言葉に合わせるように深く何度も首を縦に振る。
その無邪気な肯定に、アリアドネはホッと胸をなでおろすと同時に、さらなる疑問が生まれる。
間違いない、ここは確かに私の生まれ育った侯爵家だ。
けれど、この子たちは一体だれの――。
「ちょっと、アル! エル! 急に走ったら危ないって言ったでしょ……!?」
その時、開け放たれた扉の向こうから、廊下を急ぐまた別の足音と、聞き覚えのある声が響いてきた。
弾ける笑顔に、可愛い小言、アリアドネの大切な妹。
パタパタと小気味よく響いていた足音が、部屋の入り口でピタリと止まった。
「――っ」
開け放たれた扉の向こうに立っていたのは、一人の美しい大人の女性だった。
ハニーブラウンの髪は上品に大人らしくアップにまとめられ、上品なドレスに包まれている。けれど、そのひときわ目を引く、アリアドネと同じ澄み渡ったスカイブルーの瞳は。
「リズ……? リゼット、なの……?」
床に倒れ込んだまま、アリアドネが掠れた声でその名を呼ぶ。
リゼットは息を呑んだまま、完全に言葉を失っていた。手に持っていたはずの子どもたちの上着が、指先からハラリと床に滑り落ちる。
そのスカイブルーの瞳に、みるみるうちに大粒の涙がたまっていった。
「あ……、あり、アリー姉さん……?」
震える声で紡がれたのは、ずっと、ずっと呼びたくても呼べなかった最愛の姉の名前。
目の前にいるリゼットは、アリアドネの記憶にある16歳の妹よりも、ずっと大人びていて、洗練されている。
髪型も、纏う雰囲気も、まるでかつてのお母様のように落ち着いていて――けれど、涙をボロボロと溢れさせるその泣き顔だけは、あの頃の甘えん坊な妹のままだった。
「うそ……夢じゃ、ないよね……? 本当に姉さんが、起きたの……!?」
リゼットは、床に散らばった上着を踏み越えるようにして、よろめきながらアリアドネの元へと駆け寄ってきた。
胸の上にいた2人の子どもが「ママー?」と不思議そうに顔を上げるのも目に入らない様子で、リゼットは絨毯に膝をつき、アリアドネの華奢な身体を壊れ物を扱うように、けれど力一杯に抱きしめた。
「アリー姉さん……っ! 姉さん、姉さん……!!」
首筋に、リゼットの熱い涙と、大人の女性のあたたかい体温が触れる。
アリアドネは、すっかり自分より大人びてしまった妹の背中に、まだ感覚の鈍い両腕をそっと回した。愛おしさと同時に、胸を突くような戸惑いが広がっていく。
(リズが、大人になっている……。それに、この子たちは今、リズのことを『ママ』って……?)
「ママ、なかないで」
「アリーお姉ちゃん、おきてるよ?」
リゼットの背中で、アルとエルが小さな手で母親のスカートを引っ張っている。
その声にハッとしたように、リゼットはゆっくりとアリアドネから身体を離した。ハンカチで何度も何度も目元を拭うけれど、スカイブルーの瞳からは次から次へと涙が溢れて止まらない。
「ごめんなさい、姉さん……。私、あまりにびっくりして、嬉しくて……っ」
「いいのよ、リズ。泣かないで……」
「名前、ずっと、ずっと呼んでほしかった……!姉さん……」
アリアドネは、震える手でリゼットの濡れた頬をそっと撫でた。16歳の頃の、柔らかくて少し丸みのあった妹の頬とは明らかに違う。
胸の奥で、カチカチと不穏な時計の音が再び大きく鳴り響くようだった。
アリアドネはごくりと唾を呑み込み、絨毯の上でリゼットの服の裾を掴んでいる子どもたちへ視線を向けた。
「リズ……。この子たちは……?」
リゼットは涙に濡れた顔のまま、愛おしそうに子どもたちの頭を撫でた。
「私の子どもたちよ。男の子がアルフレッドで、女の子がエルシア。双子なの」
「リズの、子…ども…」
頭を強く殴られたような衝撃だった。
ついさっきまでの記憶では、リズはまだ16歳の、恋もこれからの少女だったはずなのだ。それなのに、目の前にいる彼女は幼い子どもを育てる母親になっている。
だとしたら、私は。
「リズ……私、どれだけの時間、眠っていたの……? 今は、一体何年なの……?」
恐ろしくて、声が震えた。
窓の外の平和な景色、見たことのない豪奢な調度品も、すべてがその「答え」を物語っているようで、背筋に冷たいものが走る。
アリアドネの問いに、リゼットは痛ましそうに瞳を伏せ、その細い手をぎゅっと握りしめてきた。
「……あの日、姉さんが吹雪のなかで倒れてから、ずっと、眠ったままだったの」
「あの日……?」
「うん。……お姉ちゃんが目を覚ますまで、八年の歳月が流れたわ」
「八、年……?」
アリアドネの思考が、完全に停止した。
二十一歳だったはずの自分。八年が経ったということは、今の自分は二十九歳ということになる。
慌てて自分の手元を見つめるが、白く細い指先も、肌のハリも、二十一歳のあの日のままで、何一つ変わっているようには見えない。
(どういうこと……? 私は八年も眠っていて、なのに、なぜ――)
「――リズ! アルとエルがそっちへ行ったと聞いたが、アリーの部屋に勝手に入っては……!」
混乱したアリアドネの耳に、廊下から低く、けれど酷く聞き覚えのある、威厳に満ちた男の声が響いた。
足音は真っ直ぐにこの部屋へと向かってきている。
「――カル兄様……っ!」
足音の主を察し、アリアドネが息を呑んだ瞬間だった。
目の前にいたリゼットの顔から笑顔が消える。先ほどまでの感動の涙は消え去っていた。
「姉さん、お願い! 今すぐベッドに戻って、寝たふりをして……っ!」
「え……? リズ、どういうこと――」
「いいから早く! あとでまた来るわね!」
リゼットの必死すぎる形相に、アリアドネは気圧された。
まだ思うように動かない身体だったが、リゼットに半ば引きずられるようにして支えられ、どうにか滑り込むようにしてベッドの上へと戻る。
慌てて掛け布団を頭の下まで引き上げ、ぎゅっと目を閉じた。
そんな母親の様子を、絨毯の上に残された双子が不思議そうに見つめている。
「ママ、どうして? アリー姉さん、おきてるよ?」
「ねえ、セリアスにぃにが――」
「アル、エル、静かに! お部屋を出るわよ、ほら、急いで!」
子供たちが何かを言いかけるのを遮るように、リゼットは鋭い声で二人の小さな手を引いた。
普段の優しい母親とは違う雰囲気に、双子はそれ以上言葉を続けられず、小さな足をバタバタとさせてリゼットに急かされるまま部屋の外へと連れ出されていった。
パタン、と扉が閉まる静かな音が聞こえる。
閉められた扉のすぐ向こう側から、先ほどよりもずっと近くでカリアンの怪訝そうな声が響いた。
「リズ? こんなところで子どもたちを急かして、どうしたんだ。……アリアドネの部屋から出てきたようだが、何かあったのか?」
掛け布団の中で、アリアドネは息を殺して固まった。
信じられないほどの早さで、心臓がトクトクと警鐘を鳴らしている。
「いいえ。子どもたちが、アリー姉さんにご挨拶したかったみたいよ。さあ、アル、エル、行きましょうね」
扉の向こうから聞こえるリゼットの声は、先ほどアリアドネに向けていた慌てた声ではなく、驚くほど落ち着いた母親のトーンだった。
カリアンが何かを小さく呟き、やがて、いくつもの足音が廊下の向こうへと遠ざかっていく。
完全に静寂が戻った部屋の中で、アリアドネはゆっくりと掛け布団を下げ、大きく息を吐き出した。
心臓の音がうるさいほどに耳の奥で脈打っていた。
.
.
.
どれほどの時間が経っただろう。
カチ、カチと時を刻む音だけが響く部屋の扉が、今度は物音を立てないよう静かに開いた。
「姉さん、お待たせしてごめんなさい」
入ってきたリゼットの手には、湯気を立てるスープと柔らかそうなパンが載ったトレイがあった。目覚めたばかりのアリアドネの身体を気遣った、消化に良さそうな軽食だ。
リゼットはトレイを枕元のサイドテーブルに置くと、アリアドネの身体を起こし、背中にそっとクッションを当ててくれた。
「驚かせてごめんなさい。色々話したいことは沢山あるのだけれど、どれから話せばいいのか分からないわ」
トレイを置いたリゼットは、眉を下げてひどく困ったように微笑んだ。八年という歳月を経てすっかり大人の美しい女性に成長したリゼットだが、その表情には、アリアドネのよく知る幼い頃の面影がそのまま残っている。
「ふふ、リズの困った顔は昔と同じで安心したわ」
「姉さん……っ」
アリアドネが小さく笑いかけると、リゼットはまたスカイブルーの瞳を潤ませて、愛おしそうに姉の手をきゅっと握りしめた。
微笑もうとしたアリアドネだったが、不意に視界がぐらりと大きく歪んだ。急激な疲労感が押し寄せ、身体の芯から力が抜けていく。
まだ目覚めたばかりの身体には、起き上がっているだけでも相当な負担だった。
「あ……れ……?」
「姉さん!? だめよ、無理をしないで」
リゼットが慌ててアリアドネの肩を支え、背中のクッションを外してゆっくりと寝台へ横たわらせた。
「顔色が悪いわ、詳しい話はまた今度にしましょう。もう日暮れが近いわ。また明日来るわ、ゆっくり休んでちょうだいね」
手際よく掛け布団を胸元まで引き上げながら、リゼットは痛ましそうにアリアドネの額に触れた。
「今はもう、何も考えずに横になって休んで。……おやすみなさい、アリー姉さん」
その優しい声を遠くに聞きながら、アリアドネは抗えない深い眠りの中へと、再びゆっくりと意識を沈めていった。
それから数日の間、リゼットや、限られた数人の古参のメイドたちが、つきっきりでアリアドネの身の回りの世話をしてくれた。
栄養のある食事と優しいケアのおかげで、アリアドネの身体は驚くほど順調に回復していく。数日前は立ち上がることさえできなかった足にも、今ではしっかりと力が入るようになった。
一人のメイドが、手際よくベッドサイドの一輪挿しの花を差し替える。新しく生けられたのは、ハッとするほど鮮やかなピンク色をした大輪の花だった。やはり、アリアドネの記憶のどこを探しても名前の分からない品種だ。
「綺麗ね……」
ぽつりと零れた呟きに、メイドは嬉しそうに微笑むと、深く一礼して部屋を去っていく。毎朝目覚めるたびに色を変える美しい花々だけが、アリアドネの張り詰めた心を静かに癒やしていた。
誰もが、アリアドネの前では「この八年間のこと」について、深く触れようとはしない。
記憶がまだおぼろげで混乱しているアリアドネを、これ以上刺激しないための気遣いなのだろう。
アリアドネ自身も、それが彼女たちの優しさだと分かっていたからこそ、あえて自ら進んで外の様子を聞き出すことはしなかった。
そうして平穏に過ぎていった、ある夜のこと。
――パチリ。
深夜、妙に頭が冴え渡り、アリアドネは唐突に目を覚ましてしまった。
静まり返った部屋には、ただ規則正しい時計の針の音だけが響いている。もう一度眠ろうとベッドの中で何度か寝返りを打ってみたものの、いっこうに眠気はやってこない。
(少し、身体を動かそうかしら……)
そう思い、アリアドネはそっとベッドから起き上がった。
窓から差し込む青白い月光が、静まり返った部屋をほのかに照らしている。
ふと、部屋の隅にある化粧台の鏡に目をやると、そこに自分の姿が映り込んでいた。その瞬間、月光を反射して、アリアドネの耳元で何かが蒼く冷ややかにきらりと光った。
「私、ピアスしていたんだ……」
ぽつりと呟き、自分の耳たぶに触れる。
長い眠りから目覚めて以来、ずっと混乱の中にいたせいだろうか。今の今まで、自分の耳元の存在に全く気づかなかった。
「……氷晶のピアス」
自分の口から出た言葉なのに、酷い違和感があった。なぜ自分がいま、このピアスの名前を自然と口にできたのかが分からない。
けれど、その響きには胸が締め付けられるほどに、大切な懐かしさがある。
ずきりと、頭の奥が引き裂かれるように痛んだ。
「あ、ぐ……っ」
アリアドネは激しい眩暈に襲われ、こめかみを強く押さえたままその場によろめいた。
『外さずに、付けておいて。ボクの魔力が君を助けてくれるはずだ』
耳元で優しく囁く、シルバーブルーの髪を揺らした青年の姿。そして、真剣なトパーズの瞳。
途切れ途切れの記憶が脳裏をかすめる中、視界の端、月光に浮かび上がる棚の上に、見覚えのある小さな木箱が視界に入る。
「そうだ。……私の、針箱」
吸い寄せられるように歩み寄り、愛おしむように両手でそれを持ち上げる。
それは、アリアドネが一人の仕立て職人として、ずっと大切に使い込んできた相棒とも呼べる箱だった。
手のひらから伝わる、懐かしい木肌の質感と心地よい重み。
けれど、月明かりの下でじっくりと表面を見つめていたアリアドネに、小さな違和感が生まれる。
(あれ……? こんな傷、前はついていなかったはず……)
箱の角や天板のあたりに、いくつかの古い擦り傷が付いている。
自分が眠っていた八年の間に、誰かがこの箱に触れていたのだろうか。考えても今のあやふやな頭では答えなど分かるはずもなかったが、胸の奥で嫌な予感がざわめき立つ。
アリアドネは小さく首を振って恐怖を払い落とすと、そっと針箱の留め金を外し、蓋を開けた。
アリアドネは息を呑む。
ずきり、と。
脳を直接抉られるような、激しい頭痛がまた彼女を襲った。
「くっ……あ、つ……!」
思わず片手で額を割りそうなほど強く押さえながらも、アリアドネは恐る恐る針箱の中を覗き込んだ。
月明かりに照らされたその中身を目にした瞬間、彼女は完全に言葉を失った。
「どうして……こんな……」
そこに転がっていたのは、ひどく乱れ、散らばった針や糸だった。
仕切りは無惨に外れ、カラフルな糸はあちこちで複雑に絡まり合い、鋭い針は何本も突き刺さるようにして散乱している。
それは、持ち主がかつて、必死に何かを成し遂げるために、猛烈な勢いで中身を引っ掻き回したかのような痛々しい惨状だった。
(なんで……? なんでこんなに、乱れているの……?)
その疑問が引き金だった。
パチパチと頭の中で火花が散るように、せき止められていた記憶が、一気にアリアドネの脳内を駆け巡り始めた。
『――グオォォォォォンっ!!!』
脳裏に響き渡る、鼓膜を破らんばかりの凄まじい咆哮。それは、世界の終わりを告げるかのような、氷竜の叫び。
視界を真っ白に染め上げる、肌を切り裂くようなあの恐ろしい猛吹雪。
「あ……、ああ……っ!」
思い出した。
あの日、あの極限の絶望の中で、自分は何をしていたのか。
騎士団の皆を守るため、迫り来る氷竜を討つためにアリアドネは凍える手で、必死に加護縫いをした。
一針、また一針。血を吐くような思いで、アリアドネが縫い合わせたもの。
それは、傷ついた人々でも、破れた衣服でもない。
(私は……あの時……)
刻を、縫い合わせたのだ。
迫り来る死の運命から全員を救い出すため、アリアドネは自身の持つ全ての力を注ぎ「時間」を無理やり縫い合わせた。
指先から魂までが削り取られるような、圧倒的で恐ろしい『刻を縫い合わせた感覚』が、鮮烈な臨場感を持って蘇る。
だから、私は八年間も眠り続けていた。
だから、身体の時間が二十一歳のままで止まっていたのだ。
全ての記憶が繋がり、脳裏を駆け巡る凄まじい衝撃に、アリアドネは激しい息の乱れを抑えられないまま、その場に立ち尽くしていた。
視界が歪む中、静まり返った部屋に、ハラリと微かな音が響く。
ベッド脇の一輪挿し。昼間、メイドが生けていったあの鮮やかなピンク色の花から、花弁が、まるで彼女の涙に答えるように一枚だけ滑り落ちた。
「っ……!」
吸い込まれるように床へ膝をつき、アリアドネはその小さな花びらを恐る恐る指先で拾い上げる。
その瞬間だった。
指先を通じて、胸が痛いほどに締め付けられる、懐かしい魔力の欠片がほんの一瞬だけ肌に伝わった。
本当に、ほんの一瞬。アリアドネがハッと目を見開いたときには、すでに幻のように消え去ってしまっていたけれど、彼女はその感触をはっきりと記憶している。
「ヴェントゥス様……」
ぽつりと溢れた寂しさを含んだアリアドネの声が、夜の静寂に溶けていった。




