古の氷竜2
氷竜の巨大な足元。
吹き荒れる雪煙の合間に、アリアドネの真眼は激しく火花を散らす複数の魔力の光を捉えた。
「ヴェントゥス様……! それに、騎士団もいる……!」
極寒の地獄と化した戦場で、彼らは戦っていた。
竜が放つ氷のブレスが大地を凍らせ、容赦なく騎士たちに襲いかかる。並の防具であれば一瞬で砕け散るほどの衝撃。しかし、彼らは凍りつくことなく、雪を蹴り上げ、次々と竜の巨体に鋭い一撃を食らわせる。
(耐えている……。私の加護が、みんなを守ってくれている……!)
騎士たちが身にまとっているのは、アリアドネが寝る間も惜しんで仕立てた、加護が施された第三騎士団の隊服だった。
冷気に晒されながらも、隊服の加護の糸が、竜の魔力をことごとく弾き返している。
そして、その最前線。
ひときわ凄まじい速度で戦場を駆け抜け、竜の猛攻をすべて紙一重でかわしながら剣を振るう男がいた。
「――ハァッ!」
氷竜の硬質な鱗を切り裂いたのは、セリアスだった。
シルバーブルーの髪を激しくなびかせ、トパーズの瞳を鋭く光らせるその姿は、まるで戦場に舞い降りた氷雪の死神のよう。
前衛に立ち、最も危険な攻撃を引き受けながら、その身のこなしは驚くほど軽やかで洗練されている。
(よかった……、無事だった……!)
アリアドネの胸に、涙が出るほどの安堵が込み上げる。
セリアスがあれほど縦横無尽に動けるのは、彼の卓越した剣技はもちろんのこと、アリアドネが「これでもか」というほど執念深く、彼の隊服に身体強化と防寒の加護を縫い付けたからだった。
「ヴェントゥス様――!!」
アリアドネは宙に浮いたまま、声を限りに彼の名を叫んだ。
その瞬間、激しい剣劇の最中であったはずのセリアスの身体が、ピクリと反応する。あり得ないはずの場所から声が聞こえ、鋭く視線を上空へと向けた。
「アリアドネさん!」
上空を見上げたセリアスの瞳が、驚愕に大きく見開かれた。
吹雪の中で宙に浮かぶ彼女の姿は、あまりにも現実離れしていて、そしてあまりにも無防備だ。
「なっ……!? どうしてここに加護師殿が!」
「上空に人影……!? 馬鹿な、防壁もなしにこの寒さの中を!」
周囲の騎士たちからも、一斉に信じられないというような驚愕の叫びが上がる。戦場にいる誰もが、王都にいるはずの、しかも戦闘能力を持たないはずの加護師がいることに驚いていた。
その一瞬の動揺を、氷竜は見逃さない。
――グルゥゥゥアアアッ!!!
突如として現れた敵を排除しようと、古の氷竜がその巨大な口を開く。
標的は、上空で完全に孤立しているアリアドネだ。
「アリア! 逃げるんだ!!」
セリアスが喉を裂かんばかりに叫ぶのと同時に、竜の喉奥から、全てのものを一瞬で凍らせる氷雪のブレスが放たれた。
「っ……!」
逃げる間などない。アリアドネはとっさに、コートのフードをさらに目深にかぶり、針箱を胸に抱きしめて身を縮めた。
――ゴォォォォオオオッ!!
視界が完全な白に染まり、凄まじい衝撃と凍てつく風圧がアリアドネの身体を包み込む。
(大丈夫!私の加護なら耐えられる……!)
バリバリと周囲の空気が凍りつく不気味な音が響くなか、アリアドネはコートの温もりに守られながら、歯を食いしばってその猛威を耐え忍んでいた。
凄まじい轟音が止み、氷雪の煙がゆっくりと晴れていく。
そこには、全身に光の粒子を立ち上らせながら、しっかりと宙に留まっているアリアドネの姿があった。
コートの表面は薄い氷の膜で覆われているものの、彼女自身は傷一つなく、その銀色の瞳は力強く前を見据えている。
「ば、馬鹿な……! 竜のブレスを真っ向から受けて、無傷だと!?」
「いったいどれほどの加護が重ねられているんだ……!」
騎士たちが驚愕に目を見張る。しかし、目の前の獲物を仕留め損ねた氷竜は苛立ったように、激しく尾を雪に叩きつけた。
――グルゥァァァッ!!
氷竜の憎悪に満ちた二つの巨眼が、上空のアリアドネを捕らえる。竜はその巨大な翼を広げ、アリアドネを直接噛み砕くべく翼を大きく広げた。
そして、飛び立とうとした――その瞬間。
「君の相手は、ボクだよ……」
セリアスが弾かれたように跳躍する。
彼の隊服から、アリアドネが込めた身体強化の魔力が爆発的に吹き荒れる。
セリアスは一瞬で竜の翼に到達すると、剣にありったけの氷魔力をまとわせ、全力で振り下ろした。
――ドォォォォンッ!!
凄まじい衝撃波が走り、飛び立とうとしていた氷竜の巨体が、地面へと叩きつけられる。
地響きを立てて雪煙が舞い上がり、竜は苦悶の咆哮を上げた。
「彼女に触れることは許さない」
着地したセリアスの背中は激しく上下し、そのトパーズの瞳には、かつてないほどの殺気が込められている。
――グルゥゥ、オオオオオッ!!
叩きつけられた氷竜は怒り狂い、強靭な尾を凄まじい速度でしならせた。それは巨大な氷の鞭となって、着地したばかりでまだ体勢の整わないセリアスへと容赦なく襲いかかる。
「セリアス様……っ!」
上空から叫ぶアリアドネの視界で、風を切り裂く白銀の尾がセリアスに迫る。
だが、その直撃を間一髪で防ぎ、己の身を盾にして尾を強引にいなした影があった。
「――が、はっ……!」
鈍い衝撃音と共に、一人の男が雪原へと激しく吹き飛ばされる。その身に纏うのは、重厚な紋章が刻まれた、騎士団長の隊服。
「団長――っ!?」
セリアスの悲痛な叫びが、吹き荒れる風を切り裂いた。
雪煙のなかに倒れた年配の騎士団長は、辛うじて息はあるものの、その身体は凄惨な状態だ。
隊服はズタズタに裂け、いたるところの肉が深く削り取られている。
白い雪原の上に、どくどくと溢れ出る鮮血が瞬く間に広がり、まるで不吉な華が咲いたかのようだった。
「団長! しっかりしてください!」
「おい、早く傷を塞げ!!」
周囲の騎士たちが必死に駆け寄るが、極寒の環境が災いし、並の治癒魔法では傷口が凍り始め治癒が進まない。
アリアドネは宙から急降下し、血に染まる雪原へと降り立った。すぐに団長の傷口へ視線を落とし、真眼で魔力の流れを視る。
(このままでは失血死してしまうわ)
アリアドネの脳裏に最悪の結末が過る。
「私が……私が縫います!」
アリアドネは迷うことなく、針箱を固く握り締めた。
団長の隊服は激しく破れ、加護を宿すための生地が不足している。
「布が足りないなら……」
アリアドネは躊躇うことなく、自分が着ていた多重加護のコートの裾を力任せに引き裂いた。自身の高密度の加護が込められた最高峰の布地。それを団長の軍服の裂けた部分にあてがい、即座に補充する。
凍てつく指先で銀の針を躍らせ、目にも留まらぬ速さで「治癒」と「生命維持」の加護を布地へと刻み込んでいく。
一針ごとに、彼女の純粋な魔力が糸を伝って、団長の傷口へと直接流れ込んだ。
――フワァァァッ……。
次の瞬間、団長の身体がじんわりとした、信じられないほど暖かな光に覆われる。
「す、凄い、凄いぞ! 血が止まってきたぞ!」
「見ろ!傷口が塞がり始めたぞ……!」
周囲の騎士たちから歓声が上がる。アリアドネは激しく息を乱しながらも、針を動かす手を止めずに告げた。
「あくまで応急処置です。このまま城下に降りて、適切な医療処置ができれば安心なのですが……!」
アリアドネは針を引き抜くと、ハッと周囲を見回した。
ここは王都の外郭、検問所のすぐ近く。城下までは目と鼻の先だ。
「竜の気をそらすことができれば……! ここからなら団長様を抱えて、王都の治癒師に託すことができるはずです!」
その言葉に、騎士たちがハッと目を見張る。しかし、目の前にはいまだ怒り狂う巨大な氷竜が君臨していた。団長を運ぶ隙を作るのも、これ以上、戦力を失うのも、どちらも致命的だ。
その時、アリアドネの前に、一歩を踏み出して立ちはだかる背中があった。
「――そういうことなら、ボクの役目だね」
剣を握り直し、静かに闘志を燃やすセリアスが、アリアドネを背中で庇うようにして氷竜を睨む。
「君は、団長たちと一緒に山を降りるんだ。いいね?」
振り返りもせず、けれど有無を言わせない響きを含んだ声。セリアスは残った騎士たちに鋭い視線で合図を送ると、凄まじい地響きを立てて迫りくる氷竜に向かい、地を蹴り上げた。
再び激しい雪煙がたちこめ、白銀の視界の中で剣撃の火花が爆ぜる。
「団長を頼むよ! 」
セリアスが引き受けた一瞬の隙を突き、数人の騎士が息の合った動きで団長の身体を抱え上げると、城下へ向かって駆け去っていった。
しかし、アリアドネはその場に残り、しっかりと雪の大地に足をつけていた。
視界を遮る雪煙を割って、竜の猛攻を紙一重でいなしたセリアスが、驚愕の表情でアリアドネの元へと舞い戻る。
「何故……アリアドネさん、君は死にたいのかい!?」
珍しく余裕をなくした彼の叫びに、アリアドネは銀に輝く瞳をまっすぐに向け、きっぱりと返した。
「死にません! そして、あなたたちも絶対に死なせません!」
そう言うと同時に、アリアドネは針箱からあらかじめ用意していた、リボン状の純白の布地を取り出した。そして、竜の攻撃の合間を縫って、残された騎士たちの腕へと次々にその布を巻き付け、凄まじい速さで固定していく。
彼女が針を一刺しするたび、騎士たちの全身に脈打つような、強力な身体強化の加護が巡った。
「な、なんだこれ……! 体が軽い、今までの加護とは比じゃないぞ!」
己の内に爆発的な力がみなぎるのを感じ、騎士が驚愕の声を上げる。セリアスもまた、自身の腕に施されたその規格外の魔力の高まりに、目を大きく見開いていた。
「ええ。これは王家から賜った聖樹の繊維から紡がれた『極光の魔糸』で縫い上げたものです」
世界に数本しか存在しない聖樹の糸。あまりにも希少で、一生に一度使えるかどうかという伝説級の魔糸だが、使う時があるとするならば今しかない――そう考え、アリアドネは密かにこの決戦のために準備していた。
けれど、極光の加護を以てしても、古の氷竜の猛威は収まらなかった。完全に興奮しきった竜は、セリアスたちの刃がその肉体を切り裂く痛みすら忘れてしまったかのように、狂暴に暴れ狂う。
一人、また一人と、強力な加護の上から叩きつけられ、冷たい雪の中に倒れ込む。
「いや、いや……! そんな……っ!」
アリアドネは悲鳴を上げ、倒れた騎士たちのそばに駆け寄ろうと必死に足を動かした。しかし、それを阻むように氷竜が冷酷なブレスを撒き散らす。
激しい衝撃波と行く手を阻む氷の壁によって、彼らとの距離はさらに引き離されてしまった。
「さて……」
ついに、荒れ狂う白銀の世界の中で、武器を構えて立っているのはセリアスただ一人になってしまった。
吹き荒れる極寒の嵐の中、セリアスは静かに剣を構え直す。
セリアスは、ゆっくりとアリアドネの方へ視線を向けた。その瞳は、この絶望的な状況にあっても、不思議なほど穏やかで、絶望するアリアドネには救いに見えた。
「年下でも、君を守れることを証明しないとね!」
その言葉を合図に、セリアスの身体から爆発的な魔力が噴き上がった。彼の髪が逆立ち、トパーズの瞳が静かに輝く。
そして、セリアスが剣を天に掲げると、周囲の雪煙すらも巻き込んで、巨大な氷の刃がいくつも空に形成されていく。
――グルゥゥァァァッ!!
氷竜が激昂し、その巨大な顎を開いた。最大出力の、すべてを氷に変える絶対零度のブレスが放たれるた。
「ハァッ!!」
同時に、セリアスもまた、持てる全ての魔力を込めた氷魔法を解き放った。竜のブレスに勝るとも劣らない、極大の氷の刃が正面から迎え撃つ。
――ドォォォォォンッ!!!
二つの圧倒的な冷気が衝突し、世界が真っ白に爆ぜた。凄まじい衝撃波がアリアドネの身体を吹き飛ばそうとするが、彼女は雪に指を突き立てて必死に耐える。
しかし、相手は古の時代から生きる氷の化身。冷気の純度も魔力量も、あまりにも規格外だった。
「――くっ、あ……!」
セリアスの苦悶の声が漏れる。
竜の放つ絶望的な冷気が、セリアスの魔法を喰い破り、彼の足元を凍りつかせていた。
「ヴェントゥス様……っ!!」
バリバリバリッと、不吉極まりない凍結音が響き渡る。
セリアスが踏み締めていた雪原が、一瞬で禍々しい黒氷へと変わり、彼のブーツを、そして脛を、容赦なく凍らせ始めた。
アリアドネが施した最高峰の防寒の加護を以てしても、竜の呪いに近い冷気は、セリアスの自由を奪っていく。
足元を完全に氷床に縫い止められ、セリアスの動きがピタリと止まった。その間にも、氷は彼の太腿へと這い上がろうとしていた。
氷竜は最後のとどめを刺そうと、セリアスに向け再度顎を開く。
「させません!」
アリアドネの決意に満ちた声が雪原に響き渡る。
その声の主を氷竜は横目に捕らえる。
「ヴェントゥス様。王家から賜った糸には、別の名前もあるのをご存知ですか?」
「っ……! 今はそんなことを話している場合じゃない! 逃げるんだ、アリアドネさん!!」
足元から這い上がる氷の激痛に耐えながら、セリアスが必死に叫ぶ。氷はすでに彼の腰近くにまで達しようとしており、その表情にはかつてない焦りが浮かんでいた。
しかし、アリアドネはただ静かに微笑むだけだ。
「『極光の魔糸』は……『縫刻の魔糸』とも呼ばれているのですよ」
「何を……!?」
セリアスが息を呑むより早く、アリアドネはふわりと身体を宙に浮かばせた。多重の加護に守られた彼女の身体は、猛烈な吹雪を突き抜けて真っ直ぐに氷竜へと向う。
「駄目だ!今すぐ戻るんだ!」
竜の関心は、完全に足止めされ、あと一歩で完全に凍りつく目の前のセリアスをどうしてくれようかと、その冷酷な二つの巨眼をギョロつかせている。
好機は、今。
アリアドネは一切の躊躇なく、氷竜の広大な背のうえに、吸い込まれるようにそっと降り立った。
「氷竜の刻を縫うわよ!」
足元から伝わる、圧倒的な魔力と冷気。
それを自身の加護でねじ伏せながら、アリアドネは懐から、一筋のまばゆい光を放つ銀の針をキィンと高く構えた。その指先には、虹色の尾を引く「極光の魔糸」が握られている。
(視える……。この竜の時間と、魔力の結び目が!)
アリアドネは銀色の瞳を限界まで見開き、巨大な竜の背へと針を突き立てるべく振り下ろした。




