古の氷竜1
王宮の地下シェルターへと続く分厚い鉄の扉が、背後で重々しく閉ざされた。
外の猛烈な吹雪と地響きが嘘のように消え、代わりに押し寄せたのは、何千人もの避難民が発する熱気と、言葉にできないほど重苦しい不安の沈黙だった。
ここは王都に数箇所あるシェルターの中でも最も規模が大きく、避難しているのは着飾った貴族から、着の身着のまま逃げてきた平民まで様々だ。
中央の明かりが届く場所には身なりの良い貴族たちが集まり、その隅の影になる場所では、平民たちが肩を寄せ合い、遠慮がちに息を潜めている。
「……アリー、大丈夫か。怪我はないな?」
カリアンがアリアドネの肩を抱き寄せ、低く落ち着いた声で問いかけた。城の任務を一時的に離れ、一人の兄として妹を案じるその手の震えが、事態の深刻さを物語っている。
「はい、カル兄様。私は平気です。……お父様たちは……?」
「安心するといい。家の者たちは別のシェルターへ全員避難できていると報告があった。シルフィードの人間は、これしきの災厄では死なんよ」
カリアンの言葉に、アリアドネは短く息を吐いて胸をなでおろした。
けれど、ふと視線を落とした先に、冷たい石の床に直に座り込み、ガタガタと激しく身を震わせている小さな女の子がいた。
粗末な服の隙間からは、外の冷気に晒されたのか、霜焼けで赤黒くなった肌が覗いている。王都を覆う異様な冷気は、シェルターの厚い壁さえも突き抜けて、体力の乏しい子供たちの体温を無慈悲に奪っていた。
「……これ、使って」
アリアドネはカリアンの手をそっと離すと、店から持ち出した袋の中から、先ほどまで作業台にあった白銀の布を取り出した。それは、「防寒」の加護が込められた貴重な布だ。
「え……?」
驚いて顔を上げた女の子の肩に、アリアドネは優しくその布を被せた。
布が肌に触れた瞬間女の子を包む空気が春のような温もりに変わる。
「温かい……。お姉さん、魔法使いなの?」
「いいえ。私は『加護師』よ。もう大丈夫、すぐにあたたかくなるわ」
女の子の顔にわずかに赤みが戻るのを見て、アリアドネは微かに微笑んだ。
しかし、その脳裏をよぎるのは、このシェルターを震わせる冷気を放っている、北の戦場の光景だった。
(……この街は凍りつこうとしている。なら、その渦中にいるヴェントゥス様は、どれほどの寒さと戦っているの?)
アリアドネの中で、何かが音を立てて決まった。
「カル兄様。私……北の山にいきます」
カリアンが反対しようと口を開くより先に、アリアドネは迷わず針箱を開いた。
「何を言っている! あそこは今、地獄だぞ。非戦闘員の加護師が行ってどうなる!」
カリアンの怒声を無視し、アリアドネは手近にいた老人の、凍えで震える上着の袖を掴んだ。
アリアドネのスカイブルーの瞳は、まるで奥底で魔力が発火したかのように、透き通った銀色の鮮やかな輝きを放ち始める。
「……っ、アリー、その目は」
カリアンが息を呑む。
万物の魔力の流れを視る「真眼」。それが、彼女の感情の高ぶりに呼応して目覚めていた。
アリアドネの指先が、目にも止まらぬ速さで動く。白銀の糸が空を舞い、老人の上着に複雑な幾何学模様を刻んでいく。一瞬にして、老人の顔に赤みが差し、震えが止まった。
「次の方、こちらへ!」
彼女が針を動かすたび、冷え切ったシェルターの一角に、春の陽溜まりのような温かさが広がっていく。一人、また一人と、絶望に沈んでいた平民たちの瞳に光が戻り、加護を求める列ができ始めた。
だが、その奇跡を嘲笑うように、シェルターに異変が起きた。
――バリ、バリバリッ!
心臓を掴むような嫌な音が響く。
見れば、先ほど閉ざされたはずの重厚な鉄の扉が、内側からみるみるうちに白く染まっていく。外から侵食してきた冷気が、ついにこの「最後の安全圏」さえも氷漬けにしようとしていた。
「扉が凍り始めた!? これでは閉じ込められる、いや、全員凍死するぞ!」
騎士たちが叫び、貴族たちが悲鳴を上げる。
アリアドネは、銀色に輝く瞳で扉を見つめた。そこから流れ込むのは、北の竜が放つ、憎しみと絶望に満ちた絶対零度の魔力。
「……ダメだわ。ここを暖めるだけじゃ、間に合わない。大元を……竜を黙らせないと、国中の加護が食い破られてしまう」
アリアドネはカリアンの腕を強く掴み返した。その瞳の銀色の輝きは、もはや誰にも止められない意志の強さを物語っている。
「お兄様、セリアス様は今、この冷気と戦っているのよ。彼が倒れたら、このシェルターも、王都も、一瞬で氷の彫刻になってしまう」
「だが、お前が行って何ができる!」
「私が彼の『盾』になります。今の私なら、竜の吐息さえも防ぐ、最高の防寒具を彼のその場で縫い上げられる!」
針箱を抱え、凍りつく扉へとまっすぐに歩み出そうとしたアリアドネの身体が、強い力によって後ろから引き戻された。
「――行くな!!」
叫びと共に、カリアンの両腕がアリアドネの身体を背後から硬く抱きしめる。
「行くな、アリー……頼むから、行かないでくれ……!」
抱きしめるカリアンの腕に、骨がきしむほどの力が込められる。その全身が、恐怖で激しく震えていた。
いつも完璧で、どんな時も冷静だった兄の、生まれて初めて見せる姿だった。
「カル兄様……っ、離してください! 今行かなければ、みんな死んでしまう……!」
アリアドネはもがき、彼の腕を振り払おうとする。しかし、カリアンは頑なに拒み、彼女を自分の胸へと強く押し包んだ。耳元に、彼の熱く、ひっ迫した呼吸が吹き付けられる。
「離せるわけがないだろう……! お前が命を懸ける必要などない! なぜそこまでしなければならないんだ!」
「それは、私が加護師だからです! 私の針なら、守れるかも知れないんです」
「違う!!」
カリアンの悲痛な怒号が、避難民たちのざわめきをかき消して響き渡った。
アリアドネの動きが、その気迫に一瞬だけ止まる。
カリアンはアリアドネの肩を掴んで強引に自分の方へと向かせると、その銀色に輝く彼女の瞳を、血の滲むような目で見つめ返した。
「加護師だからじゃない、お前があいつに囚われているからだ! 私を置いていくな……。お前が想っているのがあいつだとしても、私の前から消えることなど許さない!」
「カル、兄様……?」
その瞳に宿る、兄妹としての情愛を遥かに越えた「熱」に、アリアドネは息を呑んだ。
「気づいていなかったのか……? 私がどれだけ、アリーを他の男から遠ざけようとしてきたか。夜会でお前が傷つけられた時、どれほど世界を憎んだか……! お前を誰にも渡したくなかった。妹としてではない、一人の女としてだ!」
カリアンはアリアドネの青白く染まった頬を、震える手で包み込んだ。
「好きなんだ、アリー……。お前を愛している。だから頼む、私のそばにいてくれ。あそこへ行けば、お前は二度と戻れなくなる……!」
予期せぬあまりにも重い告白に、アリアドネの思考は完全に停止した。
外から迫る絶対零度の冷気と、目の前で自分を焦がすような兄の情熱。アリアドネの脳裏には、やはりあの吹雪の向こうで戦うセリアスの姿が離れずにいた。
「カル兄様……」
アリアドネは、頬を包み込むカリアンの手の温もりをそっと受け止めながら、けれど真っ直ぐに彼の瞳を見つめ返した。その銀色に輝く瞳からは、一片の迷いも消え去っていた。
「カル兄様のことは、愛しています。……けれど、それは家族への愛です。お兄様の想いには、応えられません」
カリアンの目に見える絶望の表情が、アリアドネの胸を締め付ける。けれど、ここで曖昧な態度をとるわけにはいかなかった。
「ごめんなさい、カル兄様。……でも、私を信じて。絶対に、必ず生きて帰ってくるわ!」
そう告げると同時に、アリアドネはカリアンの手を力強く振り払い、凍りつき始めた扉へと駆け出した。
「大好きよ、お兄様!」
「アリーーーっ!!」
背後でカリアンの引き裂かれるような叫び声が響く。騎士たちが止める間もなく、アリアドネは内側から凍りついていた重厚な鉄の扉を全力で押し開けた。
――凄まじい衝撃。
扉を開けた瞬間、シェルターの内部とは比較にならないほどの強烈な寒さと暴風が、アリアドネの身体を激しく打ちつけた。
視界のすべてが白一色の極寒の世界。呼吸をするだけで肺が凍りつきそうな激痛が走る中、アリアドネは針箱を強く抱きしめ、前へと一歩踏み出す。
アリアドネは、多重の加護縫いを施したコートを引き上げ、口元をしっかりと覆った。さらに深くフードを被ると、凍えかけていた身体にじんわりと優しい暖かさが戻ってくる。
「さすが、セリアス様からいただいた糸だわ……。この極限の寒さのなかでも、私の加護をちゃんと守ってくれている」
彼がくれた糸の中に、彼の魔力が込められたものがあった。それを使ってコートに加護を縫い付けたのだ。
アリアドネは銀色に輝く真眼を開き、周囲を渦巻く風の魔力の流れを捉える。そして、吹き付ける暴風に逆らうように、その身体をふわりと宙に浮かび上がらせた。
重力を振り払い、猛烈な吹雪の真っ只中へと勢いよく飛び立つ。
「あっちの方角だわ!」
加護に守られたアリアドネはスピードを落とさない。
やがて、荒れ狂う白銀の向こうに、あまりにも巨大で、禍々しい影が浮かび上がった。
「――いた!」
アリアドネは息を呑んだ。
天を覆う巨体に、周囲の空間そのものを凍結させる青白い鱗。王都を絶望の淵に叩き落とす元凶――古の氷竜が、そこにいた。




