不敵な年下くん3
窓から差し込む朝の光と、可愛らしい小鳥のさえずり。
ヴェントゥス公爵家の客室に用意された最高級の寝台は、まるで雲の上にいるような心地よさだった。
けれど、アリアドネの心はそれとは裏腹に、激しく動揺している。
「……おはようございます、アリアドネ様」
昨日、お風呂を手伝ってくれたメイドが、控えめにカーテンを開ける。
アリアドネは、まだ夢見心地の頭を抱えて上半身を起こした。シルクの寝衣がさらりと肌を滑る。
(私……昨夜は、テオドールくんが去った後に……)
セリアスが強引に自分をベットに運びで熱い視線を向けてきたことまでは覚えているが、ぷつりと途切れていた。
「アリアドネ! 入るぞ!」
急に、荒々しい声と共にドアがノックされる。
現れたのは、一睡もしていないのではないかと思わせるほど、瞳を鋭く光らせた兄のカリアンだった。
「カル兄様……!? どうしてここに……」
「どうして、ではない。夜会から帰らぬ妹を迎えに来ない兄がどこにいる!」
カリアンは部屋に入るなり、アリアドネを隅々まで点検し、それから彼女の首元や手首を恐ろしいほどの眼力で確認し始めた。
「……ヴェントゥス卿には、両親が今、一階でたっぷりと説明を求めているだろう。アリー、あいつに何か妙な真似はされていないだろうな?」
「妙な真似って……。あの、ヴェントゥス様は私を助けてくださっただけで」
「……ふん。あのアイス男め、隙あらば私からお前を奪おうとしているのが見え見えだ」
カリアンは鼻を鳴らすと、手元に持っていた分厚い書類をサイドテーブルに置いた。そこには『ガストン・ロッシュ侯爵 資産差し押さえ通知書』という不穏な表題が見える。
「安心しろ。アリーを傷つけようとした報いは、昨夜のうちにすべて済ませておいた。あやつはもう、二度と社交界に顔を出すことはできん」
「カル兄様……」
「ずっと準備はしていたからな、いつ明るみにするか考えていたところだった。……さぁ、話はここまでだ。着替えて両親の所へ向かおうか」
混乱する頭のまま、メイドの手を借りて身支度を整える。用意されていたのは、朝の光に透けるような淡いブルーのデイ・ドレス。最高級の生地に、繊細なレースが惜しみなく施されている。
「お兄様、準備ができました」
「……ふむ。そのドレス、アリーによく似合っているが、そんなものを持っていたか?」
カリアンが訝しげに目を細めた。アリアドネは首を横に振る。
「いいえ。……こちらで用意してくださったものなんです」
「何だと? あのアイス男、勝手に着替えまで用意して……」
カリアンの眉間の皺が深くなったその時、背後から涼やかな声が響いた。
「おやおや、義兄君。言葉が過ぎますね。それはボクからの、将来有望な加護師への『投資』ですよ」
振り返ると、そこには昨夜の無防備な姿が嘘のように、凛とした騎士服に身を包んだセリアスが立っていた。優雅な微笑みを浮かべているが、その瞳はアリアドネのドレス姿を満足げに見ている。
「投資、か。……代償に妹を要求するつもりなら、その投資は失敗に終わるぞ、ヴェントゥス卿」
「手厳しいな。さあ、皆さんがお待ちです。一階へ行きましょう」
セリアスに促され、アリアドネはカリアンと共に一階の応接室へと向かった。
扉が開かれると、そこにはヴェントゥス公爵夫妻と、それに向かい合って座るシルフィード伯爵夫妻――アリアドネの両親の姿があった。
昨夜のガストンの不祥事、そして愛娘がヴェントゥス公爵家に泊まったという事態に、両家の親同士がどのような落とし前をつけようとしているのか。アリアドネは、セリアスの背中越しに漂う、ただならぬ緊張感に息を呑んだ。
ヴェントゥス公爵が、その鋭い眼差しをアリアドネの両親に向け、重々しく口を開く。
「昨夜の騒動、そして我が息子がアリアドネ嬢をここへ連れ帰った責任……何より君の類まれなる『加護師』としての才を、我が家は高く評価している。……シルフィード伯爵。アリアドネ嬢を、正式に我が息子セリアスの婚約者として迎えたい」
その場の空気が凍りついた。アリアドネの両親が驚きに目を見開くなか、カリアンが反対の声を上げようと身を乗り出す。
だが、それよりも早く、涼やかな声が室内に響いた。
「父上。そのお話、ボクはお断りします」
セリアスだった。
穏やかで柔らかな微笑を浮かべたまま、彼はきっぱりと拒絶した。
「セリアス、どういうつもりだ。お前があれほど執着していた相手だろう」
父である公爵からの問いを、セリアスは優雅な微笑みでさらりとかわした。その瞳の奥にある真意は、誰にも、そして実の父にさえも読み取らせない。
アリアドネは、その光景を静かに見守りながら、胸の奥が微かに、けれど確かにチクリと痛むのを感じていた。
(……情が移ってしまったのかしら。いいえ、そんなはずは)
アリアドネは無意識に、トク、トクと早まる鼓動を鎮めるように胸元を抑える。
(そうよ、私は包容力のある年上の男性が好きなんだから。生意気で、何を考えているかわからない年下くんに振り回されるのは、もうお腹いっぱいだわ)
セリアスが一瞬だけ彼女を横目で捉えていたことを、彼女はまだ気づいていなかった。
「ただ、ボクは……」
セリアスがそう言いかけた、その時だった。
静寂を切り裂くように、切羽詰まった足音と共に伝令が飛び込んできた。
「報告します! 北の竜が覚醒しました! 早急に身を整え、討伐の準備を!」
室内の空気が一変する。
「――話はここまでです。父上、ボクのいない間に勝手に話を進めないでほしい」
セリアスは不敵な笑みを浮かべたまま、有無を言わせぬ声を響かせた。彼の周囲には氷のように鋭い魔力が渦巻き始める。
足早に部屋を後にするセリアスの背中を見て、アリアドネは突き動かされるように駆け出した。
「――ヴェントゥス様!」
セリアスが足を止める。振り返った彼の瞳には、戦場へ向かう険しさが垣間見えた。
「……どうしたんだい? そんなに慌てて」
「あの……昨夜は、ありがとうございました。助けていただいたこと、お礼を言えていなかったので」
息を切らしながら頭を下げるアリアドネに、セリアスは一瞬だけ呆れたような顔を見せ、それからわざとらしく深い溜息をついた。
「……君は本当に、仕事以外は……いや、仕事に関しても天然すぎるね。あんな状況で、まず出てくる言葉がそれかい?」
「なっ……! 」
セリアスの軽口に、アリアドネはカッと頬を赤くする。
「そんなこと、年下のヴェントゥス様に言われる筋合いはありません! 」
「……へえ。またそれだ。ボクが命がけで竜を狩りに行くって時に、 いい度胸だね」
セリアスの声から、温度が完全に消えた。
彼が一歩踏み出した瞬間、アリアドネは逃げる間もなく手首を掴まれ、そのまま力ずくで壁に押し付けられた。
「キャッ……!?」
背中に冷たい衝撃が走る。
壁と彼の身体の間に挟まれたアリアドネは、手首を掴む彼の、驚くほど強くて熱い力に息を呑んだ。いくら振り払おうとしても、びくともしない。
「……ほら、年下くんに力でねじ伏せられて、何もできない気分はどうだい?」
セリアスが顔を近づける。逃げ場のない至近距離で、彼のトパーズ色の瞳が、獲物を威圧する光を放っていた。
「昨日、オレがどれだけ自分の感情を殺したか……君は知らないんだろう」
低く、地を這うような掠れた声。セリアスはそう囁くと、抗う間もなくアリアドネの耳たぶに熱く、鋭く噛みついた。
「ひっ……!?」
熱い痛みと、背筋を突き抜けるような衝撃にアリアドネの身体が跳ねる。耳元で聞こえる彼の荒い呼吸が、昨夜彼が押し殺していた「熱」の正体を現しているようだ。
「……っ!!ヴェントゥス様なんて、嫌いだわ!」
叫んだアリアドネの瞳には、屈辱と動揺で涙が浮かんでいる。
セリアスは一瞬だけ虚を突かれたように目を見開いた後、切なげな微笑を浮かべた。
「嫌い、か……」
セリアスはその言葉を噛みしめるように呟くと、ゆっくりとアリアドネを拘束していた腕を解いた。
「……そうだね。ボクも、今の自分は嫌いだよ」
彼は自嘲気味に微笑むと、一度も目を合わせないままアリアドネに背を向けた。その背中は、公爵家の長男としての重責と、戦場へ向かう孤独を背負って、昨日までよりもずっと遠くに見えた。
「待っ……!」
アリアドネが何かを言いかけるより早く、セリアスは吹雪を巻き起こし姿を消してしまう。
静まり返った廊下に、アリアドネだけが取り残された。
彼を拒絶してしまった後悔と、あんなに寂しそうな顔をさせてしまった胸の痛みは、それ以上に鋭く彼女の心をえぐる。
「……バカ。……大嫌い」
誰にも届かない小さな声を絞り出し、アリアドネはその場にへなへなと座り込む。
耳たぶには、彼に噛まれた熱い痛みがまだ脈打っている。
ふと窓の外を見ると、皮肉なほどに空は青く、どこまでも綺麗に晴れ渡っていた。
* * *
氷竜の目覚めから、数日が過ぎた。
アリアドネは「風待ちの針箱」に戻り、ひたすら針を動かしていた。けれど、ふとした瞬間に耳元に残る熱い痛みを思い出し、彼に投げつけた「大嫌い」という言葉が、鋭い針のように胸をチクチクと刺してくる。
そんなある日の午後、店のベルが力なくカラン……と鳴った。
「お姉さん……」
入ってきたのは、弱々しく声のエシュリオン王子だった。
「いらっしゃいませ、エシュリオン様。また護衛も付けずにいらしたのですか?」
少し困ったような笑顔でアリアドネが尋ねると、彼はうつむいたまま、消え入りそうな声で答えた。
「……ううん。今日はちゃんと、ドアの前で控えてさせているよ」
以前「僕一人でも大丈夫だよ!」と胸を張っていた王子が、目に見えて元気がない。アリアドネは胸騒ぎを覚え、作業していた手を止めて彼の前に膝をついた。
「どうしたのですか? そんなに悲しい顔をして」
「あのね、お姉さん……。北の戦いが、すごく長引いているって聞いたんだ。セリアスはずっと前線で戦ってる」
エシュリオンは、小さな手でギュッと服の裾を握りしめた。
その言葉を聞いた瞬間、アリアドネの指先から体温が引いていくのを感じた。
脳裏に蘇るのは、吹雪の中に消えていったあの寂しそうな後ろ姿。喧嘩別れのまま凍りついている、あの日の記憶。
「……大丈夫ですわ。あの方は、とてもお強いのですよね。竜の一匹や二匹、すぐに片付けて帰ってこられます」
自分に言い聞かせるように絞り出した声に、エシュリオンは力なく首を振った。
「本当にそうかな……?」
「なぜ、そのように弱気なことをおっしゃるのですか?」
「……だってカリアン、出発する前にボクの頭を撫でて、『あとのことは任せました』って……すごく静かに笑っていたんだ」
幼い王子の純粋な瞳に見つめられ、アリアドネは絶句した。
あの日、彼が浮かべた切なげな微笑みの意味。
命を懸けた戦場へ向かう男に、あろうことか「嫌いだ」と呪いのような言葉をぶつけてしまった。
彼が死を覚悟してまで守ろうとしている世界で、自分はただ意地を張り、ここで震えているだけでいいのか。
その時だった。
「エシュリオン様!」
静寂を切り裂くように、外に控えていた護衛の騎士の一人が血相を変えて店内に駆け込んできた。
「北の山から、竜の咆哮が聞こえます! ここまで響くとなると、すでに王都へ侵入している可能性があります。一刻の猶予もありません」
その言葉と同時に、ガタガタと窓枠が小刻みに震え始めた。地響きのような、重く低い鳴き声が空気を震わせて押し寄せてくる。
「っ……!」
アリアドネが窓の外に目を向けると、信じられない光景が広がっていた。
つい先ほどまで晴れ渡っていた青空が、北の空から侵食されるように白く濁り、凍りつき始めている。
「そんな……。王都まで冷気が届くなんて」
「お姉さん、見て……窓が!」
エシュリオンが震える指で差した窓ガラスには、幾何学模様の美しい、けれど恐ろしい霜の花が急速に広がっていた。
アリアドネは、震える膝に力を込めて立ち上がる。
「エシュリオン様、これを! 極寒の中でも数日耐えられます。身に付けていれば、体温を奪われることはありません!」
アリアドネは、作業台に置いてあった作りかけの「防寒の魔石」が埋め込まれた貴重な布地を、震える王子の小さな手に力強く押し付けた。
その時、店の扉が勢いよく蹴破られるようにして開いた。
「アリー! アリー、いるか! 今すぐここを離れるんだ。……エシュリオン王子! 貴方様も、今すぐお逃げください!」
駆け込んできたのは、兄のカリアンだった。いつもは完璧に着こなしている制服も、今は襟元が乱れ、その額には冷や汗が滲んでいる。彼はアリアドネの姿を確認するなり、その肩を強く掴んだ。
「カル兄様……! 一体何が起きているのですか?」
「北の防衛線が完全に崩壊した! 竜が目覚めただけじゃない、奴は王都に向けて冷気の嵐を放っている!騎士団の安否も定かでないんだ、頼むから早く!」
カリアンの言葉に、アリアドネの頭の中が真っ白になる。安否が確認できない。それは、生意気で、けれど誰よりも強かったはずの彼が、今この瞬間にも命を落としているかもしれないということ。
「立ち止まっている暇はない。アリー、王宮の地下シェルターへ向かうぞ!」
カリアンの叫びに弾かれたように、アリアドネは動き出した。
エシュリオン王子は、先ほど駆け込んできた護衛騎士の腕に抱えられ、既に店から連れ出された後だった。外からは避難を急ぐ人々の怒号と、氷の粒が建物に打ち付けられる不気味な音が聞こえてくる。
アリアドネは、震える手で愛用の針箱を掴んだ。そして、棚にあった最高級の防寒布や魔力を通しやすい白銀の糸、ありったけの資材を大きな袋に手当たり次第に詰め込む。
「早くしろ! 建物の凍結が始まっている!」
カリアンに背中を押され、店を飛び出そうとした瞬間、アリアドネは足を止めた。
「あっ、忘れてた眼鏡……!」
「もう間に合わない!命の方が大事だ!」
見れば、店内の壁に霜が這い上がり、作業台さえも白く閉ざそうとしていた。今戻れば、冷気の檻に閉じ込められてしまう。
「……っ!」
アリアドネは、眼鏡をその場に残し、袋を抱えて駆け出す。
背後で、店のドアが凍りつき、完全に閉ざされる鈍い音が響いていた。




