縫い合わされた刻2
「ヴェントゥス団長、書類の確認をお願いします」
騎士団長室の重厚な扉を開け、若い騎士が緊張した面持ちで入ってきた。その手には、報告書の束がある。
「あぁ、そこに置いておいて」
「は、はい!」
青年騎士は弾かれたように返事をし、言われた通りに事務机の端へ書類を置いた。
セリアスは、手元の資料から一切視線を動かさなかった。
腰下まで伸びたシルバーブルーの長い髪がわずかに机に零れ、その横顔は彫刻のように美しく無表情だった。
青年はそれ以上話しかける勇気も出ず、そそくさと退室し、パタンと扉が閉まった。
「おいおい。せめて顔くらい見てやれよ、セリアス。さっきのやつは、お前に憧れて入団してきた熱心な新兵だぞ?」
部屋の隅のソファから、やれやれと肩をすくめるような渋い声が響いた。
騎士団の礼服に身を包んだ、体躯のいい年配の男だ。白髪の混じり始めた髪と、歴戦の猛者らしい深い皺。彼は、前騎士団長であるダグラスだ。
「そうしてあげたいですが、あいにく、今のボクはそれ所ではないですから」
セリアスは視線を変えないまま、淡々と次の書類に目を通す。
「そうだよな! 今や帝国最強、泣く子も黙る騎士団長様だもんなぁ!!」
ハハハ、と豪快に笑う元団長を横目に、セリアスは流れるような動作で書類に次々と団長の判を押していく。その横顔には、一切の驕りも油断もない。
「……あなたが引退したからですよ。あの戦場で、ボクを庇って大怪我を負ったせいで……」
セリアスの声に、微かな苦味が混じる。
あの日、氷竜との戦いでセリアスを命がけで庇ったのが、当時第三騎士団長ダグラスだった。
「それがなければ今だって……」
瀕死の重傷だったが、アリアドネの治癒の加護と、駆けつけた治癒師たちの懸命な治療によって、どうにか一命を取り留めた。それでも、彼の身体には後遺症が残ってしまった。
それでも、彼のこれまでの功績と圧倒的な実力は色褪せることはなく、騎士団長として周囲に称えられ、団を率い続けてきた。
その彼が、惜しまれつつも現役を退任したのは、つい先日のことだ。だからこそ、跡を継いだばかりのセリアスは今、目が回るほどの激務に追われている。
「まさか、それだけじゃないに決まっているだろう。気にするなと言っている」
ダグラスは笑いを収め、自身の左腕を静かにさすった。そのトパーズのように鋭い眼差しが、どこか遠くを見るように細められる。
「俺は感謝しているんだぜ、セリアス。お前がその後、死に物狂いで剣を振るって俺たちの時間を稼ぎ……そして、あの嬢ちゃんがいてくれなかったら。……第三騎士団は全滅だった」
あの凄惨な猛吹雪。世界が裂けるかのような咆哮。
そして、命を削りながら世界の「刻」を縫い合わせ、全員の命を繋ぎ止めた、シルフィード侯爵家のアリアドネ。
「嬢ちゃんは……アリアドネ嬢は、まだ眠ったままか?」
ダグラスの静かな問いに、セリアスが書類をめくる手が、ほんの一瞬だけピタリと止まった。
「……ええ。彼女の枕元へ、毎日花を届けさせているんです。自分の魔力を込めた、特別な花を。彼女が起きれば、その瞬間にボクへと伝わります」
「ほぉ?」
ダグラスが白髪交じりの眉をわずかに持ち上げる。セリアスは手元で書類を綺麗に揃えながら、淡々とした口調を崩さない。
「どうしてそう言い切れる? 嬢ちゃんがその花に触れるか分からないだろう」
「彼女が好んで糸の染料にしそうな、鮮やかな色彩の花ばかりです。目覚めて視界に入れば、必ず触れようとするでしょう」
フッとセリアスの口元が緩む。
「……実は昨夜、その花を通じて、一瞬だけ彼女の魔力を感じたような気がしたんです」
「なるほどな。……だからか、お前の様子がどこかおかしいのは」
ダグラスの言葉に、セリアスは判を押す手をぴたりと止めた。トパーズの瞳が、ゆっくりとソファの上の前団長へと向けられる。
「何故、そうお思いで?」
「隠せているつもりか? いつも完璧なお前が――」
ダグラスはふっと苦笑すると、セリアスの手元を顎でしゃくった。
「さっきから、同じ書類の同じ行を何度も読み返している。おまけに、いつもなら寸分の狂いもない判の角度が、さっきから僅かに傾いているぞ」
「……」
「会いに行けば良いじゃないか」
図星を突かれたセリアスは、手にしていた万年筆をそっと机の上に置いた。
ゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐにダグラスを見つめる。その目元には、うっすらと影ができていた。
「各地方の魔物の増加に伴う警戒配備、それにエシュリオン様の成人の儀も近いですから。今のボクが、私情で動くわけにはいきません」
「もっと周りに頼つてくれたって良いんだ。お前一人で全てを背負い込む必要はねえ」
ダグラスの、父親のような温かい言葉。
セリアスは自嘲気味に微かに目を伏せた。腰下まで伸びた美しいシルバーブルーの髪が、ハラリと肩から零れ落ちる。
「……そうしていないと、自分が自分でなくなりそうで怖いんです」
ぽつりと溢れたのは、掠れた本音だった。
激務に身を置いていなければ、自分という存在を保つことができない。目の前の膨大な仕事は、彼にとって責任であると同時に、理性を繋ぎ止めるための鎖なのだ。
「はぁ……」
ダグラスはやれやれと深く首を振ると、ソファからその大きな体を重々しく立ち上げた。
「行け。酷い顔してるぞ、セリアス。そんな書類、元団長の俺でも処理できる」
ダグラスはセリアスの肩を大きな手で強引に叩くと、机の上にうずたかく積まれていた書類の束を、容赦なく自分の手元へと引き寄せた。
「いいから、アリアドネ嬢ちゃんの顔を見てこい! これは『上司命令』だからな。断ることは許さんぞ」
悪戯っぽく不敵に笑うダグラスに、セリアスは降参したように小さく肩をすくめた。その表情には、先ほどまでの冷たい硬さは消え、柔らかな笑みが浮かんでいる。
「……そこまで言われては、従うほかありませんね。恩に着ます、ダグラスさん」
セリアスは椅子に掛けられていた年季の入った濃紺のコートを流れるような動作で羽織ると、団長室を後にした。
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「さてと。公式に先触れは出したが……」
シルフィード候爵家の荘厳な正門前に立ち、セリアスは静かに息を吐き出した。外気に触れた息が、白く濁ってゆらゆらと消えていく。
もう12月だ。遠くに見える浮島や山々に雪が目立ち始め、この肌を刺すような冷気は、嫌でもあの日を思い出す。
猛吹雪の中、王国を恐怖に陥れた氷竜の咆哮。そして、自分の目の前で命を削りながら「刻」を縫い合わせ、そのまま深い眠りに落ちてしまった、アリアドネの姿を。
門番が慌てて門を開けようとした、その時だった。
重厚な扉が内側から勢いよく開かれ、ドレスの裾を翻して、一人の女性が飛び出すように姿を現した。
「セリアス様……!」
アリアドネの妹であるリゼットだ。
八年という歳月は、少女を美しく大人の女性へと変貌させていた。今では二児の母親であり、そしていずれは候爵夫人となる女性だ。
かつての無邪気な面影を残しつつも、その立ち振る舞いには凛とした気品が満ちていた。
「お久しぶりですわ」
彼女は今や社交界でその名を知らぬ者のいない調香師でもあった。
八年前、彼女がまだ学生の頃に作り上げた香水『蒼穹の雫』。
その香りは今もなお、人々に広く愛され続けている。
それだけでなく、彼女が次々と生み出す新作の香水や化粧品は、どれも瑞々しい感性に溢れ、貴族の女性たちを虜にしていた。
「突然どうされたのですか?」
問いかけるリゼットのスカイブルーの瞳が、不安げに揺れる。
アリアドネと全く同じ、吸い込まれそうなほど美しいその瞳の色を、セリアスは懐かしげに見つめ、そして、ふと我に返る。
「アリアドネさんの魔力を、一瞬だけ感じた気がしたのですが……」
「そう、でしたか。ですが、まだ姉様が目覚めることは……」
リゼットは視線をわずかに逸らしながら、必死に言葉を紡ごうとする。
その時だった。邸宅の奥からパタパタと、二つの小さくて小気味よい足音がこちらに向かって近づいてきた。
「あ、セリアスにーにだぁ!」
「にーに、あそんでー!」
扉の隙間から元気よく飛び出してきたのは、リゼットの双子の子どもたちだった。この八年間、アリアドネに会うために頻繁にこの屋敷を訪れていたセリアスに、子どもたちはすっかり懐いていた。
セリアスはトパーズの瞳を柔らかく和ませると、子どもたちの目線に合わせてしゃがみ込んだ。
「あぁ、そうしたい所なんだけれど……アリアドネさんに会ってからでも良いかな?」
「アリーお姉ちゃんに?」
「うん、そうだよ」
「いいよ! そしたら後でいっしょに遊ぼうね。さっきアリーお姉ちゃんも、いっしょにかくれんぼしてくれたんだぁ!」
「エル! いつの間に……っ!?」
リゼットが血相を変えて叫び、ハッとして慌てて口を紡いだが、もう遅かった。
子どもの無邪気な暴露によって、秘密が明かされてしまった。
「……かくれんぼ、ですか」
セリアスはゆっくりと立ち上がった。
「うん、うん。でね、2人して転んで泣いちゃったの。そしたら……」
双子はそれぞれ自分の服をつまみ、その一片をセリアスに見せる。その瞬間、彼の心拍が速くなった。
「これは……」
セリアスの声が震える。懐かしい縫い目、憧れさえした魔力の波動。
「「うん!アリーお姉ちゃんに縫ってもらったの!」」
自慢げに話す双子の話を、リゼットは口元をおおい涙を流す。
「リゼット、案内してもらえるかな?」
「……はい」
消え入るような声でそう答えたリゼットに導かれ、セリアスは長い廊下を進んだ。
一歩進むごとに、セリアスの胸の鼓動は早鐘を打つ。双子の服に残された、あの懐かしくも愛おしい魔力の波動。
長い間、ピクリとも動かなかった世界の時間が、いま猛烈な勢いで動き出そうとしていた。




