表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
13/20

氷銀の魔糸

 約束の一週間が過ぎる頃、王宮の『白百合の間』には、奇跡のような光景が広がっていた。

 出会った当初は寝台から起き上がることもままならなかったイザベラ王妃が、今では自らの足で立ち、柔らかな陽光が差し込む窓辺でアリアドネと談笑している。

 アリアドネが加護を施した寝具、そして新しく仕立て直された室内着が、王妃の身体を優しく包み込んでいた。


「……信じられないわ。あんなに重く、苦しかった冬の空気が、今はこんなに愛おしく感じるなんて」


 イザベラが自身の胸元をそっと押さえる。アリアドネが施した加護は、単なる「暖かさ」だけではなかった。

 王妃自身の乱れがちだった魔力の波を穏やかに整え、衰えていた免疫力を静かに底上げする――それは、着る者の生命力そのものを守ろうとする、極めて高度な技術。

 宮廷加護師たちが「力」で解決しようとした問題を、アリアドネは「寄り添う心」と針の祈りで解決してみせたのだ。


「お姉さん、ありがとう! 母様が……母様が笑ってる!」


「アリアドネさん、貴女は私の命の恩人よ。……いいえ、この国の救世主ね」


 イザベラ王妃の慈愛に満ちた声が、柔らかな陽光の差し込む室内に響く。その言葉に、アリアドネは慎ましやかに微笑み、首を振った。


「そんな、滅相もございません。私はただ、王妃様がエシュリオン殿下と穏やかな日々を過ごせるよう、ほんの少し、お手伝いをさせていただいただけですわ」


「まぁ、最後までなんて素敵な女性なのかしら。……リゼットさんも、本当にありがとう。貴女が作ってくれた香りに、どれほど心を癒やされたことか」


「きょ、恐縮ですっ……!」


 イザベラたっての希望で招かれたリゼットは、アリアドネの横で姿勢を正したまま、緊張のあまり微動だにしていない。だが、その瞳には憧れの王妃に認められた喜びが、隠しきれずに溢れていた。


「お姉さん、本当にありがとう……! 母様が、母様がこんなに元気になって……っ」


 エシュリオン王子も、母親の回復に大粒の涙を浮かべ、アリアドネの手を握りしめた。

 その幸福な光景を、部屋の入り口で見守っていたカリアンは、眼鏡の奥を熱くさせながらも、妹達の成し遂げた偉業に誇らしげに胸を張った。


 この日を境に、シルフィード家の運命は劇的に塗り替えられた。

 数日後、正式に王宮へ招待されたシルフィード一家。長年彼らを苦しめてきた「貧乏伯爵」という蔑称は過去のものとなった。王妃を救った功績、そして没落してもなお失われなかった高潔な姿勢が認められ、シルフィード家は侯爵へと昇叙されたのだ。


 そして、王室から下賜された報奨金により、積年の借金もすべて完済。手の平を返したように擦り寄ってくる貴族たちを、カリアンが一蹴する横で、アリアドネはようやく重い荷を下ろしたような心地でいた。




* * *



 


 やっと、『風待ちの針箱』に平穏な日々が戻ってきた。

 アリアドネは馴染み深いカウンターに座り、溜まっていた依頼の加護を一つひとつ丁寧に縫い進める。その静かな空間に、カラン、と控えめなベルの音が響いた。


「やぁ、お姉さん」


「あら、エシュリオン様。お城から出ても大丈夫なのですか?」


「氷竜の件もあるから、母様に頼んでこっそり来ちゃったよ。……へへっ」


 そこにいたのは、愛らしい笑みを浮かべたエシュリオン王子だった。八歳の子どもらしい無邪気な仕草に、アリアドネの頬も自然と緩む。


「……お忍びは感心しませんが、お元気そうで安心いたしました」


「ふふ、ねぇ。加護を縫っているところを見ていてもいいかな?」


「お時間がよろしければ、どうぞ。こちらに、お座りください」


 アリアドネがそう言って針を動かし始めると、エシュリオンはカウンターの横にある小さな椅子を引き寄せ、ちょこんと腰を下ろした。


――それからしばらくの間、室内には規則正しい「プツリ、プツリ」という布を貫く音だけが響いていた。


 エシュリオンは、まるで宝物を見るような丸い緑の瞳で、アリアドネの指先をじっと見つめている。銀縁眼鏡の奥で鋭く、けれど優しく光る彼女の瞳。

 一針ごとに魔法の粒子が布に溶け込んでいく神秘的な光景に、王子は退屈そうにするどころか、瞬きさえ忘れたように魅了されていた。

 やがて、作業がひと段落した時、柔らかな声が落ちた。


「……ねぇ。お姉さんは、伝説の加護師って知ってる?」


「ええ、もちろんですわ。この国で知らない人はいませんもの。幼い頃、私も絵本で何度も読みました」


 アリアドネは針を動かす手を止め、銀縁眼鏡のブリッジをそっと押し上げながら微笑んだ。


「災厄から国を護るため、たった一針で城壁をも包み込む大結界を縫い上げたという、偉大な加護師様のことでしょう?」


「うん! 僕の家のご先祖様を助けてくれた、とってもかっこいい人なんだ」


 エシュリオンは自分のことのように誇らしげに胸を張ると、またすぐにアリアドネの作業台へと視線を戻した。

 そこでは、まだ淡く光を放つ魔力の粒子が、白銀の糸に絡みつきながら布地へと吸い込まれていく。


「これは多分、一部の人間しか知らない秘密なんだけど……その加護師はね、加護縫いをする時に、瞳の色が変わるらしいんだ」


 エシュリオンはどこか探るような視線を送るが、縫う手元に集中しているアリアドネはその視線に気づかない。


「まぁ。それは存じ上げませんでしたわ」


「そっか!」


 アリアドネの無頓着な反応に、エシュリオンは笑みを浮かべた。だが次の瞬間、彼はいたずらっぽく目を輝かせ、とんでもない角度から言葉を放つ。


「ところで……。お姉さんは、セリアスが好きなの?」


 唐突すぎる問いに、アリアドネは思わずパチパチと瞬きを繰り返した。 


「え? ……い、いえ、ヴェントゥス様とは、あくまで仕事上のお付き合いですが……?」


 アリアドネが困惑して首を傾げると、エシュリオンは椅子から身を乗り出し、彼女の空いた手を自分の小さな両手でぎゅっと包み込んだ。


「じゃあさ、僕と結婚してくれる?」


 その瞬間、アリアドネは指先に持っていた、加護師にとって命の次に大事な銀の針をポロリと床に落とした。


「エ、エシュリオン様……っ!? ご、ご冗談がすぎますわ!」


「冗談じゃないよ、僕はいつでも本気さ。すぐに大きくなって、お姉さんを守れる立派な男になるから。……だから、僕が大人になるまで待っていてくれる?」


 小さな手を精一杯伸ばし、懇願するようにアリアドネを見上げる王子。その真っ直ぐで純粋な瞳に毒気を抜かれかけた――その時だった。


 開け放たれたドアの隙間から、部屋の温度を一瞬で氷点下まで叩き落とすような、地響きのような低い声が響いた。


「――エシュリオン様。そろそろ、お帰りの時間ですよ」


「セ、セリアス! いつの間に……っ」


 音もなく背後に立っていたセリアスの放つ威圧感に、エシュリオンはびくりと肩を揺らした。


「うぅ、こうなったら……」


 敵わないと悟ったエシュリオンは、最後の手に出る。隣の椅子にぴょんと飛び乗ると、呆然とするアリアドネの頬に、ちゅっ、と音を立ててキスをした。


「先約したのは僕だよ! あかんべー!」


「……エシュリオン様。後でたっぷりと、礼儀作法の勉強をいたしましょうね?」


 セリアスが黒い笑みを浮かべると、控えていた護衛騎士に王子をひょいと手渡した。ジタバタと暴れる王子を城へと連行させ、静まり返った店内に二人きりの時間が流れる。


 セリアスは、アリアドネの落とした針を静かに拾い上げると、彼女の指先に返した。その指が、かすかに触れ合う。


「……やれやれ。あんな顔をしておきながら、会議の席では大人を黙らせるほど冷徹な正論を吐くのだから、手に負えない」


 セリアスは苦笑しながらも、真剣な面持ちでアリアドネを見つめた。


「……アリアドネさん。先日の件、正式に依頼させてもらってもいいかな?」


 セリアスは懐から、一通の依頼書と、最高級の魔革を取り出した。


「この革に、最大限の防寒と身体強化の加護を施してほしいんだ。……君の腕なら、これ以上ない一着になると確信しているよ」


 その依頼内容を目にした瞬間、アリアドネのスカイブルーの瞳に鋭い火が灯った。彼女は手渡された魔革をカウンターに置くと、眼鏡を指でクイと押し上げ言い放つ。


「……ヴェントゥス様。貴方は、私が『女だから』と手加減をなさっているのですか?」


「……え?」


「相手は氷竜。この程度の魔革に施せる加護では、竜の吐息(ブレス)に触れた瞬間に粉々に砕け散りますわ。貴方が本当に命を預けようとしているのは、これではないはずです」


 アリアドネは一歩踏み出し、セリアスのトパーズ色の瞳を真っ直ぐに射抜いた。


「出してください。貴方が本当に頼みたかった、本物を。職人を馬鹿になさらないで」


 その凛とした佇まいに、セリアスは雷に打たれたような衝撃を受けた。彼は自らの過ちを悟ったように、長く、深い吐息をつく。


「……参ったな。君には、ボクの虚勢も、甘い配慮もすべてお見通しというわけか」


 セリアスは苦笑し、懐のさらに奥、厳重な封印が施された小箱を取り出した。蓋を開けた瞬間、店内の温度が氷点下まで急降下し、カウンターが白く凍りつく。

 そこにあったのは、鈍い銀色の光を放つ「氷晶の蜘蛛糸」だった。触れるだけで指を凍傷にさせるほどの魔力を秘めた、禁忌の素材。


「これを扱えば、君の指が無事では済まないかもしれない。だから……」


 アリアドネは、刺すような冷気を放つ銀糸を恐れることなく、愛おしむように指先でなぞった。


「……確かに、これは希少で強力すぎます。一着の外套を縫うには量が足りませんが、ヴェントゥス様が最も魔力を放出する『剣の柄』に編み込めば、竜の冷気さえ貴方の力に変える力になるはずです」


「なるほど。ボクの剣そのものを竜に抗う牙に変えようというのか。……やはり、君に頼んで正解だった」


 セリアスが声をもらす。アリアドネは「氷晶の蜘蛛糸」を慎重に小箱へ戻すと、真っ直ぐに彼を見つめた。


「ヴェントゥス様。この糸と貴方の愛剣をお預かりします。……三日、時間をください。一気に縫い上げますわ」


 凛としたアリアドネの声が工房に響く。

 セリアスはそれを聞くと、真剣な面持ちのまま、彼女を見つめる。


「三日か。分かった。……くれぐれも、無理はしないでほしい。君の指に傷がつくのは、ボクの本意ではないからね」


 低く心地よい声で言うと、セリアスは急にアリアドネとの距離を詰めた。

 あまりの近さにアリアドネが小さく肩を強張らせるのも構わず、彼は白い指先を彼女の耳元へとそっと寄せた。


「このピアス、つけてくれているんだね」


 セリアスの指先が、優しく滑り落ちる。

 なぞられたのは、彼女の耳元で密やかに冷たい光を放つ、深い蒼の氷晶石のピアス。


 「せっかく良いものをもらったのだから」と何気なく身に付けていたことを、彼女は今更ながらに思い出す。


「外さずに、付けておいて。ボクの魔力が君を助けてくれるはずだ」


 セリアスの言葉に反応するように、その瞬間、耳元のピアスから魔力がふわりと溢れ出る。

 彼は今、言葉と共に自らの魔力を惜しみなくピアスに注ぎ込んだのだ。

 込められた魔力を肌で感じ取り、アリアドネは1人の職人として、しっかりと深く頷いた。


「本当に君は、生粋の加護師だね」


 目の前の「仕事」や「魔力」に意識を向け、職人の顔になってしまう彼女への、切ないつ呟き。

 しかし、アリアドネはそれを最高の賛辞だと受け取り、純粋に「褒められた」のだと勘違いする。


「ええ、お任せください。ヴェントゥス様の期待に応える、最高の仕上がりになるよう努力いたしますわ!」


 ふふ、と嬉しそうに胸を張って微笑むアリアドネ。そんな彼女の無防備な愛らしさに、セリアスはそれ以上何も言えず、ただ苦笑するしかなかった。



.

.

.




 三日後。


 セリアスははやる心を抑えてアリアドネの作業部屋へと向かった。扉の前まで来た時、中からアリアドネと、手伝いに来ていた妹リゼットの話し声が漏れ聞こえてくる。


「助かったわ、リゼット。貴女の安定剤のおかげで、指を凍らせずに済んだわ」


「アリー姉さんのためだもの! ねぇ、それよりもセリアス様とはどうなの? 実際、付き合っているんでしょう?」


 リゼットの直球な問いに、セリアスは思わずドアノブにかけた手を止めた。鼓動が耳障りなほど速くなる。期待に胸を膨らませた彼に、非情な言葉が突き刺さった。


「……何言っているのよ。 あの年下くんと、そんなわけないでしょう」


 部屋の中から聞こえてきたのは、心底意外そうな、そして無慈悲なまでの呆れ声だった。セリアスの心臓が、氷竜のブレスを浴びたように凍りつく。


「前にも言ったけれど、私の好みは落ち着いた年上の男性なの。それも、長い髪を優雅に束ねているような方が……ああ、想像するだけでたまらないわ」


「もう、アリー姉さんったら。本当にいつもセリアス様には喧嘩腰よね? 偉大な公爵様に、あんな態度をとるの姉様くらいよ?」


「そうは言っても、向こうも仕事仲間としての信頼しかないでしょう? お互い様よ」


 仕事仲間。年下。理想の外。

 セリアスは、自分が良かれと思って清潔に整えている短い髪を無意識に触り、愕然と立ち尽くした。これまでどんな敵にも怯まなかった鉄の公爵の背中が、目に見えて小さく丸まっていく。

 だが、そのまま立ち去るわけにもいかない。セリアスは精一杯のプライドをかき集め、仮面のような冷ややかな微笑を張り付かせて、扉をゆっくりと開いた。


「――やぁ。仕事仲間の『年下くん』が、依頼品の受け取りに来たよ」


 室内が、一瞬にして凍りついた。アリアドネは、手に持っていた剣を落としそうになりながら、真っ青な顔で振り返る。


「ヴェ、ヴェントゥス様!? いつの間に……」


「つい先ほど。君の、実に興味深い『殿方の好み』について、詳しく解説が始まったあたりかな」


 セリアスは、アリアドネが心血を注いで完成させた剣の柄をチラリとも見ず、トパーズ色の瞳で彼女をじっと射抜いた。


「髪が短くて落ち着きのない年下で、すまないね。……さあ、その『仕事仲間』に、加護の結果を見せてくれるかな? 」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ