氷銀の魔糸
約束の一週間が過ぎる頃、王宮の『白百合の間』には、奇跡のような光景が広がっていた。
出会った当初は寝台から起き上がることもままならなかったイザベラ王妃が、今では自らの足で立ち、柔らかな陽光が差し込む窓辺でアリアドネと談笑している。
アリアドネが加護を施した寝具、そして新しく仕立て直された室内着が、王妃の身体を優しく包み込んでいた。
「……信じられないわ。あんなに重く、苦しかった冬の空気が、今はこんなに愛おしく感じるなんて」
イザベラが自身の胸元をそっと押さえる。アリアドネが施した加護は、単なる「暖かさ」だけではなかった。
王妃自身の乱れがちだった魔力の波を穏やかに整え、衰えていた免疫力を静かに底上げする――それは、着る者の生命力そのものを守ろうとする、極めて高度な技術。
宮廷加護師たちが「力」で解決しようとした問題を、アリアドネは「寄り添う心」と針の祈りで解決してみせたのだ。
「お姉さん、ありがとう! 母様が……母様が笑ってる!」
「アリアドネさん、貴女は私の命の恩人よ。……いいえ、この国の救世主ね」
イザベラ王妃の慈愛に満ちた声が、柔らかな陽光の差し込む室内に響く。その言葉に、アリアドネは慎ましやかに微笑み、首を振った。
「そんな、滅相もございません。私はただ、王妃様がエシュリオン殿下と穏やかな日々を過ごせるよう、ほんの少し、お手伝いをさせていただいただけですわ」
「まぁ、最後までなんて素敵な女性なのかしら。……リゼットさんも、本当にありがとう。貴女が作ってくれた香りに、どれほど心を癒やされたことか」
「きょ、恐縮ですっ……!」
イザベラたっての希望で招かれたリゼットは、アリアドネの横で姿勢を正したまま、緊張のあまり微動だにしていない。だが、その瞳には憧れの王妃に認められた喜びが、隠しきれずに溢れていた。
「お姉さん、本当にありがとう……! 母様が、母様がこんなに元気になって……っ」
エシュリオン王子も、母親の回復に大粒の涙を浮かべ、アリアドネの手を握りしめた。
その幸福な光景を、部屋の入り口で見守っていたカリアンは、眼鏡の奥を熱くさせながらも、妹達の成し遂げた偉業に誇らしげに胸を張った。
この日を境に、シルフィード家の運命は劇的に塗り替えられた。
数日後、正式に王宮へ招待されたシルフィード一家。長年彼らを苦しめてきた「貧乏伯爵」という蔑称は過去のものとなった。王妃を救った功績、そして没落してもなお失われなかった高潔な姿勢が認められ、シルフィード家は侯爵へと昇叙されたのだ。
そして、王室から下賜された報奨金により、積年の借金もすべて完済。手の平を返したように擦り寄ってくる貴族たちを、カリアンが一蹴する横で、アリアドネはようやく重い荷を下ろしたような心地でいた。
* * *
やっと、『風待ちの針箱』に平穏な日々が戻ってきた。
アリアドネは馴染み深いカウンターに座り、溜まっていた依頼の加護を一つひとつ丁寧に縫い進める。その静かな空間に、カラン、と控えめなベルの音が響いた。
「アリアドネさんに会いに来ちゃった。氷竜の件もあるから、みんな僕を城から出さないように必死なんだ。だから、母様に頼んでこっそり来ちゃったよ。……へへっ」
そこにいたのは、愛らしい笑みを浮かべたエシュリオン王子だった。八歳の子どもらしい無邪気な仕草に、アリアドネの頬も自然と緩む。
「エシュリオン様……。お忍びは感心しませんが、お元気そうで安心いたしましたわ」
「ふふ、ねぇ。加護を縫っているところを見ていてもいいかな?」
「もちろんですわ」
アリアドネがそう言って針を動かし始めると、エシュリオンはカウンターの横にある小さな椅子を引き寄せ、ちょこんと腰を下ろした。
――それからしばらくの間、室内には規則正しい「プツリ、プツリ」という布を貫く音だけが響いた。
エシュリオンは、まるで宝物を見るような丸い緑の瞳で、アリアドネの指先をじっと見つめている。銀縁メガネの奥で鋭く、けれど優しく光る彼女の瞳。一針ごとに魔法の粒子が布に溶け込んでいく神秘的な光景。
王子は退屈そうにするどころか、瞬きさえ忘れたように魅了されていた。
やがて、作業がひと段落した時、静寂を溶かすような、柔らかな声が落ちた。
「……ねぇ。お姉さんは、セリアスが好きなの?」
唐突すぎる問いに、アリアドネは思わず瞬きを繰り返した。
「え? ……いえ、ヴェントゥス様とは、あくまで仕事上のお付き合いですが……?」
アリアドネが困ったように首を傾げると、エシュリオンは椅子から身を乗り出し、彼女の空いた手を自分の小さな両手で包み込んだ。
「じゃあさ、僕と結婚してくれる?」
その瞬間、アリアドネは指先に持っていた、命の次に大事な銀の針をポロリと落とした。
「エ、エシュリオン様! ご冗談がすぎますわ!」
「冗談じゃない、僕は本気さ。早く大人になるから、待っていてくれる?」
小さな手を精一杯伸ばし、アリアドネに懇願するように見上げる王子。その真っ直ぐな瞳に毒気を抜かれかけた、その時だった。背後から、凍てつくような、けれど地響きのように低い声が響く。
「――エシュリオン様。そろそろ、お帰りの時間です」
「セ、セリアス! いつの間に……っ」
音もなく背後に立っていたセリアスの放つ威圧感に、エシュリオンはびくりと肩を揺らした。
「うぅ、こうなったら……」
敵わないと悟ったエシュリオンは、最後の手に出る。隣の椅子にぴょんと飛び乗ると、呆然とするアリアドネの頬に、ちゅっ、と音を立ててキスをした。
「先約したのは僕だよ! あかんべー!」
「……エシュリオン様。後でたっぷりと、礼儀作法の勉強をいたしましょうね?」
セリアスが地獄の底から響くような低い声で告げると、控えていた護衛騎士に王子をひょいと手渡した。ジタバタと暴れる王子を城へと連行させ、静まり返った店内に二人きりの時間が流れる。
セリアスは、アリアドネの落とした針を静かに拾い上げると、彼女の指先に返した。その指が、かすかに触れ合う。
「……やれやれ。あんな顔をしておきながら、会議の席では大人を黙らせるほど冷徹な正論を吐くのだから、手に負えない」
嵐のようなエシュリオン王子が連行され、店内に静寂が戻る。セリアスは苦笑しながらも、その瞳から余裕の光を消し、真剣な面持ちでアリアドネを見つめた。
「……アリアドネさん。先日の件、正式に依頼させてもらってもいいかな?」
セリアスは懐から、一通の依頼書と、最高級の丈夫な魔革を取り出した。
「この革に、最大限の防寒と身体強化の加護を施してほしいんだ。……君の腕なら、これ以上ない一着になるだろう」
その依頼内容を目にした瞬間、アリアドネのスカイブルーの瞳に鋭い火が灯った。彼女は手渡された魔革をカウンターに置くと、メガネを指でクイと押し上げ言い放つ。
「……ヴェントゥス様。貴方は、私が『女だから』と手加減をなさっているのですか?」
「……え?」
「相手は氷竜。この程度の魔革に施せる加護では、竜の吐息に触れた瞬間に粉々に砕け散りますわ。貴方が本当に命を預けようとしているのは、これではないはずです」
アリアドネは一歩踏み出し、セリアスのトパーズ色の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「出してください。貴方が本当に頼みたかった、その『奥の手』を。職人を馬鹿になさらないで」
その凛とした佇まいに、セリアスは雷に打たれたような衝撃を受けた。彼は自らの過ちを悟ったように、長く、深い吐息をつく。
「……参ったな。君には、ボクの虚勢も、甘い配慮もすべてお見通しというわけか」
セリアスは苦笑し、懐のさらに奥、厳重な封印が施された小箱を取り出した。蓋を開けた瞬間、店内の温度が氷点下まで急降下し、カウンターが白く凍りつく。
そこにあったのは、鈍い銀色の光を放つ「氷晶の蜘蛛糸」だった。触れるだけで指を凍傷にさせるほどの魔力を秘めた、禁忌の素材。
「……これを扱えば、君の指が無事では済まないかもしれない。だから躊躇ったんだ」
アリアドネは、刺すような冷気を放つ銀糸を恐れることなく、愛おしむように指先でなぞった。
「……確かに、これは希少で強力すぎます。一着の外套を縫うには量が足りませんが、ヴェントゥス様が最も魔力を放出する『剣の柄』に編み込めば、竜の冷気さえ貴方の力に変える力になるはずです」
「なるほど。ボクの剣そのものを竜に抗う牙に変えようというのか。……やはり、君に頼んで正解だった」
セリアスが声をもらす。アリアドネは「氷晶の蜘蛛糸」を慎重に小箱へ戻すと、真っ直ぐに彼を見つめた。
「ヴェントゥス様。この糸と貴方の愛剣をお預かりします。……三日、時間をください。一気に縫い上げますわ」
「三日か。分かった。……くれぐれも、無理はしないでほしい。君の指に傷がつくのは、ボクの本意ではないからね」
セリアスの言葉に、アリアドネは職人の強い瞳で深く頷いた。
――そして三日後。
セリアスははやる心を抑えてアリアドネの作業部屋へと向かった。扉の前まで来た時、中からアリアドネと、手伝いに来ていた妹リゼットの話し声が漏れ聞こえてくる。
「助かったわ、リゼット。貴女の安定剤のおかげで、指を凍らせずに済んだわ」
「アリー姉さんのためだもの! ねぇ、それよりもセリアス様とはどうなの? 実際、付き合っているんでしょう?」
リゼットの直球な問いに、セリアスは思わずドアノブにかけた手を止めた。鼓動が耳障りなほど速くなる。期待に胸を膨らませた彼に、非情な言葉が突き刺さった。
「……何言っているのよ。 あの年下くんと、そんなわけないでしょう」
部屋の中から聞こえてきたのは、心底意外そうな、そして無慈悲なまでの呆れ声だった。セリアスの心臓が、氷竜のブレスを浴びたように凍りつく。
「前にも言ったけれど、私の好みは落ち着いた年上の男性なの。それも、長い髪を優雅に束ねているような方が……ああ、想像するだけでたまらないわ」
「もう、アリー姉さんったら。いつもセリアス様には喧嘩腰よね? あんなに偉大な公爵様に、あんな態度をとるの姉様くらいよ?」
「そうは言っても、向こうも仕事仲間としての信頼しかないでしょう? お互い様よ」
仕事仲間。年下。理想の外。
セリアスは、自分が良かれと思って清潔に整えている短い髪を無意識に触り、愕然と立ち尽くした。これまでどんな敵にも怯まなかった鉄の公爵の背中が、目に見えて小さく丸まっていく。
だが、そのまま立ち去るわけにもいかない。セリアスは精一杯のプライドをかき集め、仮面のような冷ややかな微笑を張り付かせて、扉をゆっくりと開いた。
「――やぁ。仕事仲間の『年下くん』が、依頼品の受け取りに来たよ」
室内が、一瞬にして凍りついた。アリアドネは、手に持っていた剣を落としそうになりながら、真っ青な顔で振り返る。
「ヴェ、ヴェントゥス様!? いつの間に……」
「つい先ほど。君の、実に興味深い『殿方の好み』について、詳しく解説が始まったあたりかな」
セリアスは、アリアドネが心血を注いで完成させた剣の柄をチラリとも見ず、トパーズ色の瞳で彼女をじっと射抜いた。
「髪が短くて落ち着きのない年下で、すまないね。……さあ、その『仕事仲間』に、加護の結果を見せてくれるかな? 」




