世界が新しくなる瞬間に君と
アリアドネは、手元の絹布に神経を集中させ、一針一針丁寧に銀の糸を滑らせていた。その様子を、王妃イザベラは寝台の上で身を乗り出すようにして、初めて見る玩具に胸を躍らせる子供のような、キラキラとした表情で見つめている。
「……王妃様、そのように見つめられては、手元が狂ってしまいそうになりますわ」
アリアドネが困ったように微笑むと、イザベラはくすくすと鈴の鳴るような声で笑う。彼女の柔らかな金髪がサラリと揺れた。
「ふふ、そう言いながらも、確実に刺し進めているのは誰かしら? あなたの針運びは、まるでお花が咲いていくのを見ているようで、片時も目が離せないのよ」
あの日から一週間ほどが経っただろうか。今日が年の瀬であることを忘れてしまうほど、アリアドネは正式に決まった王妃のための加護縫いに没頭していた。
王族に捧げる加護は城内の工房で制作するのが通例だが、今回はイザベラ本人の「話し相手になりながら、目の前で縫ってほしい」という願いにより、王妃の居室がアリアドネの仮の工房となった。
柔らかな陽光が差し込む天蓋付きのベッドの傍ら。そこにはアリアドネさえも癒されるものがあった。
「この香水はとても素晴らしいわ。……胸の奥がすうっと解けて、心が穏やかになっていくのよ」
アリアドネの妹、リゼットが希少な風花草から作り上げた芳香剤『蒼穹のしずく』。品のある薄瑠璃の容器から漂うその香りは、甘く、けれど冬の朝の空気のように清々しい。王妃はそれを宝物のようにベッド脇に置き、時折、愛おしそうに指先でその縁をなぞる。
「貴女も、妹さんも、本当に優秀だわ。シルフィードの血筋には、何か特別な力が流れているのかしら」
イザベラの慈しみ深い言葉に、アリアドネは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。王宮の居室という慣れない場ではあったが、妹が作った『蒼穹のしずく』の香りと、王妃の穏やかな眼差しのおかげで、驚くほど自然体で針を動かすことができている。
そして、王妃とのこの距離感は、職人として何よりの好機だった。
真に必要な加護が何であるか――唇のわずかな色の変化、浅い呼吸の揺らぎ。それらを間近で見極め、一針ごとに魔力の密度を細やかに調整していく。それは、相手の命の鼓動に耳を澄ませるような、繊細な作業だった。
勉強や訓練の合間には、エシュリオン王子も「お姉さん、母様!」とはしゃいだ声を上げて顔を出し、室内には明るい笑い声が絶えなかった。
やがて窓の外、王都の屋根が夕闇の琥珀色に沈み始め、日が大きく傾いてきた頃。
静寂を守っていた重厚な扉が、ノックも待たず、けれどこの上なく優雅な所作で開け放たれた。
「――邪魔をしてしまったかな?」
現れたのは、アリアドネが加護を施した、濃紺の外套を纏ったセリアスだった。彼が動くたび、襟元からは『静寂』の幾何学模様のスカーフがのぞき、夜の冷気と混ざり合って神秘的な光沢を放つ。
「ヴェントゥス様、お仕事は終わったのですか?」
アリアドネが針を休めて立ち上がると、セリアスは迷いなく彼女の傍らへ歩み寄り、その華奢な腰に手を添えた。
「終わらせてきたよ。……王妃様、申し訳ありませんが、そろそろ連れて帰らせていただきます。さすがに年が変わる今日は、早めに彼女を送り届けたい。……ボクの『加護師』が、過労で倒れてもらっては困りますから」
セリアスのトパーズ色の瞳が、独占欲を隠そうともせずにアリアドネを射抜く。
「私は貴方のものになった覚えはありませんが?」
イザベラはそれを見て、楽しげにエシュリオンと同じ緑の目を細めた。
「まあ、セリアス。あなた、そんなに怖い顔をしなくても、アリアドネさんは逃げたりしないわよ。……でもそうね、今日は特別な日。アリアドネさん、続きはまた来年。今夜はゆっくりお休みになって」
「はい。……王妃様、良いお年を。エシュリオン殿下も」
アリアドネが丁寧に一礼すると、セリアスは彼女の肩を抱き寄せ、エシュリオン王子の「ずるいぞ、セリアス!」という抗議を背中で受け流す。
彼は出口の扉へ向かうのではなく、迷いのない足取りで夜気を含んだ風が吹き込むテラスへと歩みを進める。
「ヴェントゥス様……? あちらは出口では……」
「今日は特別な日だ。誰に会うか分からない混み合う廊下を、わざわざ通る必要はないだろう?」
セリアスは不敵に微笑むと、驚きに目を見開くアリアドネをひょいとお姫様抱きで抱え上げた。
「――では王妃様、エシュリオン王子。良いお年を」
言い終えるが早いか、セリアスはテラスの縁を蹴り、迷いなく夜空へと身を投げ出した。
背後でイザベラとエシュリオンが「あ……っ!」と言葉を失い、身を乗り出すのが見える。だが、落下する衝撃は来なかった。セリアスの濃紺の外套が翼のように大きく翻り、見えない風を捉えてふわりと浮き上がったのだ。
「……っ! ヴェントゥス様、やりすぎですわ!」
アリアドネは必死で彼の首にしがみつく。眼下に広がる王宮の庭園がみるみる小さくなっていく。
「はは、やりすぎかな? 早く君に見せたかったんだ。飛び方もだいぶ様になっただろう?」
セリアスは空中で軽やかに旋回してみせた。星空に溶け込むような滑らかな飛行。
「……少しだけ、寄り道をしようか」
セリアスが降下したのは、王宮の喧騒から離れた、城下町の一角だった。
年の瀬の祝いに沸く街は、色とりどりの提灯で飾られ、屋台からは香ばしい匂いが立ち上っている。賑やかな笑い声と音楽が溢れるその場所に、二人は静かに舞い降りた。
セリアスは自分の豪華な外套を裏返し、地味なクロークへと早変わりさせると、アリアドネの銀縁メガネをそっと指で直した。
「……ですが、帰りが遅くなると家族が心配しますので」
アリアドネが困ったように眉を下げると、セリアスはどこか勝ち誇ったような、少年じみた笑みを浮かべた。
「もちろん、君の父上には了承済みさ。新年の挨拶が終わるまでは、ボクが責任を持って預かるとね」
「……っ、ヴェントゥス様! 根回しが早すぎますわ……。イザベラ様の前では『早く送り届けたい』なんて仰っていましたのに。全く……」
アリアドネは呆れたように深くため息をつくと、観念したように指を動かした。鼻筋にかかった銀縁のメガネを外し、さらに髪をきつく束ねていた細いゴムをそっと引き抜く。
ハラリ、と。
冬の夜風に煽られ、柔らかなハニーブラウンの髪がアリアドネの肩を滑り落ち、月光を反射して淡く輝いた。彼女のスカイブルーの瞳は、吸い込まれるほどに深い。
その豹変ぶりに、セリアスは思わず息を呑んだ。
仕事に打ち込む彼女の横顔も、メガネ越しに理知的に光る瞳も見てきた。けれど、こうして髪を下ろし、無防備な素顔をさらした彼女を見るのは初めてだった。
「……君は」
セリアスの声が、先ほどまでの余裕を失い、低く掠れる。
「まぁ。せっかくなので、楽しみましょうか? ヴェントゥス様」
メガネをドレスの隠しポケットに仕舞い込むと、アリアドネは悪戯っぽく微笑んで、一歩前へと歩みを進めた。重い責任も、家の負債も、王宮での緊張も。すべてを冬の夜空に放り出したような、羽が生えたかのように軽やかな足取り。
賑わう広場の中央では、新年の訪れを祝う民衆たちが手を取り合い、陽気な調べに合わせてダンスの輪を作っていた。
「ヴェントゥス様、あちらを見て!」
アリアドネはドレスの裾を軽く持ち上げ、弾むようなステップで輪の中へと彼を誘った。貴族の儀礼的なダンスではない、民衆の生命力が爆発するような素朴な踊り。
「……ふふ、ステップがめちゃくちゃですわ」
「ボクもこれほど奔放な踊りは初めてだ。だが、悪くない」
セリアスは彼女の小さな手を離さず、共に笑い、屋台で買った熱々の林檎飴をかじりながら、束の間の「ただのアリアドネとセリアス」としての時間を過ごしていた。
やがて、夜空の星が天頂に達しようとしたその時。
王城の巨大な大鐘が、重厚な音色で深夜の静寂を震わせた。
ゴーン――。ゴーン――。
一年の終わりと、始まりを告げる合図。周囲の民衆たちが歓声を上げ、恋人たちが抱き合う中、セリアスはアリアドネの耳元に口元を寄せる。
「やっぱり、このスカーフをしていると素直になりすぎてしまうな」
「え?……なんて」
アリアドネの言葉を遮るように、セリアスは言葉を紡いだ。
「新しい世界が始まる瞬間に君といられて、ボクは嬉しいよ」
「……あ、ありがとうございます、ヴェントゥス様。私も、こんなに温かな年越しは初めてです」
アリアドネが上気した頬を染めて見上げると、セリアスの瞳にふと、静かに影が落ちる。
「……王妃様の加護は、あとどのくらいで完成するのかな?」
セリアスの言葉にアリアドネは背筋を伸ばし、職人の顔に戻る。
「そうですね……細部の調整を含め、大きく見積もってもあと七日あれば、完璧な状態で献上できるかと」
「そうか。……なら、その後に、加護を頼みたいな。……非常に強力で、危険な加護なんだ。……もちろん、断ってもらっても構わないよ」
セリアスの端正な表情が、かつてないほど沈痛に曇る。いつもの傲慢なまでの自信は影を潜め、トパーズ色の瞳にはアリアドネの身を案じる切実な光が宿っていた。
「……北にそびえる霊峰の頂で、氷竜の巣が見つかった。古の魔力を宿すその竜が完全に目覚めれば、この国は一夜にして氷土に変わるだろう。一ヶ月後、討伐隊が発つ……。全員が生きて帰れる保証のない、過酷な戦いになるはずだ」
「そうですか。ヴェントゥス様も向かわれるのですね」
アリアドネの言葉にセリアスがゆっくりと頷く。
遠征があるとは聞いていたが、相手が伝説に語られる『竜』、それも氷竜だとは。氷の魔力を司る公爵家にとって同属性の竜との戦いは、分が悪いものであることを、戦いを知らないアリアドネでも理解できた。
セリアスは、震えるアリアドネの細い指先を、壊れ物を扱うようにそっと握りしめる。
「その加護。断るなんて、絶対にいたしませんわ!」
食い気味に放たれたアリアドネの毅然とした声が、新年の喧騒を切り裂いた。セリアスは毒気を抜かれたように面食らった顔をし、氷の公爵ともあろう男が呆然と目を丸くする。
やがて、こらえきれないといった様子で、ふわりと、春の陽だまりのような笑みをこぼした。
「……はは、やはり君には敵わないな。ボクの覚悟より先に、君の指先が戦う決意を固めてしまったようだ」
優しい笑顔を向けられ、トクン、と。
アリアドネの胸が、これまで感じたことのないほど大きく、熱く跳ねた。
この鼓動の正体が、恋という名の熱なのか、大切な人を守りたいという職人の意地なのか、今の彼女にはまだ分からなかった。
けれど、ただ一つ。この男を、北の霊峰に消えさせたくないと。それだけを、強く、強く願った。




