第7話:(前編)壊れた蛇口と、甘すぎる目覚め
意識が覚醒へと向かう中、まず感じたのは心地よい重みと、鼻腔をくすぐる複数の甘い香りだった。
昨夜、僕は人生で初めて、誰かに守られているという安心感の中で眠りについた。その余韻がまだ胸の奥に残っていて、瞼を開けるのが少しだけ名残惜しい。
(……あ、そうか。僕はもう、一人じゃないんだ……)
そんな感慨に浸りながら、ゆっくりと目を開けた。
視界がクリアになった瞬間――そこには、僕の顔を数センチの至近距離で覗き込む、聖女クラリス様の顔があった。
「あ……。お、おはようございます、アルト様。……よく、眠れましたか?」
彼女の顔は、朝焼けよりも赤く染まっていた。
昨夜の僕の「ありがとう」という一言が、彼女の中でどのような爆発を起こしたのか。その答えは、僕が返事をするよりも早く、頭蓋骨を直接揺さぶるような『絶量』となって叩きつけられた。
((((((起きたああああ! 天使が起きたああああ!! おはようって言いたい! でも声が出ない! 昨夜の『ありがとう』を思い出して、私、もう一晩中一睡もできなかったわよおおおお!! これはもうプロポーズ! 実質的な初夜! 責任取って! 今すぐ指輪をはめてええええ!!))))))
ドォォォォン!!
宿の窓ガラスが振動でビりビりと悲鳴を上げる。
……爆音だ。昨夜までの騒音が可愛く思えるほどの、過去最大の音圧。理性の蛇口が完全に壊れたかのような、制御不能な愛の奔流。
そして、案の定、僕の耳に届く彼女の言葉は、恐ろしい呪詛へと変換されていた。
「……死ね。……今すぐ、魂を捧げろ。……逃がさぬ。……私の肉になれ……」
(ひ、ひぃぃぃっ!? やっぱり、やっぱり食べられるんだぁぁぁ!)
和らぎかけていた僕の心臓が、再び絶望のビートを刻み始める。
彼女は感動で震えているだけなのだが、僕にはそれが、獲物を前にして食欲を抑えきれない捕食者の武者震いにしか見えなかった。
「ちょっと、聖女様。朝からダーリンを怯えさせてどうするのよ」
反対側から、リリスが僕の腕を抱きかかえるようにして割り込んできた。
彼女は僕の肩に顎を乗せ、耳元で妖艶に囁く。
「おはよう、ダーリン。昨夜はよく眠れたみたいね。……でも、私の腕の中の方がもっとぐっすり眠れるわよ? 今日は馬車の中で、じっくり『可愛がって』あげるから」
リリスの瞳には、獲物を追い詰めた肉食獣のような、どす黒い独占欲が宿っていた。
さらに、僕の背中には、服の裾をぎゅっと掴んだまま離さないフェリスが張り付いている。
「……アルト。……あったかい。……離さない」
三方向からの過剰なまでの密着。
昨夜感じた「守られている安心感」は、朝の光と共に「逃げ場のない包囲網」へと姿を変えていた。
「さあ、アルト様! 朝食の時間です! 私が聖なる祈りを込めて作った、特製の『祝福』のスープを召し上がってください!」
クラリス様が、もはや隠しきれない殺気(愛)をまといながら、湯気の立つボウルを差し出す。
((((((私の手料理! 私の胃袋を掴む作戦! これを食べたらアルト様は一生私のもの! 逃がさないわよおおお!!))))))
「……飲め。……飲み干せ。……逃げれば、喉の奥まで……流し込んでやる……」
「……あ、あはは……。いただきます……」
僕は震える手でスプーンを握った。
スープは驚くほど美味しかった。けれど、一口飲むたびに背後から、横から、正面から注がれる三人の視線が痛い。
彼女たちの「好き」という感情が大きすぎて、物理的な熱量となって僕の肌を焼いているかのようだった。
「……ごちそうさまでした。……あの、二人とも、顔が近いです……」
僕が消え入るような声で指摘すると、クラリス様とリリスが同時に一歩、顔を近づけてきた。
「「嫌?」」
ハモった。
最強の聖女と最強の魔族。二人の美女に挟まれ、僕は朝から「ああ、やっぱり僕、今日こそ食べられるんだ……」と、遺書の第4章を頭の中で書き始めるのだった。




