第6話:(後編)一室か三室か、それとも「添い寝」か
宿場町で一番大きな宿『黄金の蹄亭』のロビーは、僕たちが一歩足を踏み入れた瞬間に、時が止まったような静寂に包まれた。
「……あ、あ、ああ……」
カウンターの奥にいた宿の主人が、僕を見た瞬間に持っていた帳簿を落とした。
僕から漏れ出す『十年の熟成を経た魅力』が、王都よりも魔力密度の薄いこの宿場町では、まるで作物に降り注ぐ恵みの雨のように感じられたのだろう。主人は感極まった表情で膝をつき、祈るように手を合わせた。
「か、神様……。こんな場末の宿に、これほど尊いお方がお越しくださるとは……! 代金などいりません! 最上階の、王侯貴族専用の続き部屋を……どうか、どうかお使いください!」
主人の瞳は、もはや狂信的なまでの羨望に満ちていた。
僕はそれを見て、思わず一歩後ずさる。
(ひ、ひぃっ……! やっぱり、僕の処刑を歓迎してるんだ……! 『最後の晩餐』を豪華にして、僕を油断させるつもりなんだ……!)
かつての僕なら、こんな贅沢な申し出に舞い上がっていただろう。けれど今の僕は、背後に控える二人の「殺気」に近い執着を知っている。豪華な部屋は、僕にとって逃げ場のない檻にしか見えなかった。
「……当然の対応ですね。アルト様をこのような不浄な場所に長く留まらせるわけにはいきません。……部屋は一つで構いません。我々が、不眠不休で警護――もとい、管理(お世話)いたしますので」
クラリス様が氷のような微笑を浮かべ、主人の差し出した鍵を奪い取った。
((((((やったあああ! スイートルーム! 実質的な同棲! 今夜こそ、今夜こそアルト様の寝顔をゼロ距離で拝んで、ついでに指先くらい触れてもバチは当たらないわよねえええ!!))))))
ドォォォォン!!
宿のシャンデリアが爆音の振動で激しく揺れる。
相変わらずの絶叫内心。けれど、僕は彼女の真っ赤になった耳たぶを見て、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ淡い希望を抱き始めていた。
いや、でもさっきの「……逃がさぬ。……今夜こそ、その身を……浄化(解体)してやる……」という呟きを聞く限り、やっぱり油断は禁物だ。
◇
案内された最上階の部屋は、信じられないほど豪華だった。
大きな天蓋付きのベッドが一台、そして続き部屋には予備の寝椅子。
部屋に入った瞬間、リリスが流れるような動作で僕の首筋に顔を寄せた。
「ふふ、いい部屋じゃない。ダーリン、旅の疲れを癒やしてあげるわ。……まずは、一緒に汗を流すところから始めましょうか?」
「なっ……不潔です! アルト様を誘惑する不浄な魔族は、私がこの聖なる結界で焼き払って……あ、いえ、遠ざけて差し上げます!」
クラリス様が激昂し、部屋の四隅に目も眩むような光の魔法を設置し始めた。
それは『聖域結界』と呼ばれる最高位の守護魔法らしいが、僕の目には、獲物を逃がさないための強力な監視用サーチライトにしか見えなかった。眩しすぎて、これじゃ一睡もできない。
「……うるさい。……喧嘩、だめ」
二人が火花を散らしている間に、フェリスがててて、とベッドへ歩み寄った。
彼女は、猫のような身軽さでシーツの上に飛び乗ると、枕の真ん中を占拠して丸くなった。
「……ここ、私の場所。……アルト、こっち」
フェリスは、僕の腕をクイッと引いた。
驚く僕を余所に、彼女は僕の胸元に潜り込み、そのままゴロゴロと喉を鳴らして目を閉じる。
「……あ」
一瞬、思考が停止した。
フェリスの体温が、服越しに伝わってくる。
小さくて、温かくて、微かにミルクのような甘い匂いがした。
王都で一人ぼっちだった十年間、僕はこんな風に誰かの体温を感じたことなんて一度もなかった。
(……温かい。なんだろう、すごく、安心する……)
僕は知らず知らずのうちに、彼女の背中にそっと手を添えていた。
魔族のリリスも、聖女のクラリス様も、確かに怖い。言動は物騒だし、内心の音圧は耳が痛い。でも、彼女たちは一度だって、僕に直接的な危害を加えたことはなかった。
むしろ、ゼノンの時も、街の動物たちの時も、彼女たちは全力で僕を「守って」くれていたのではないだろうか。
「((((((なあああああああにあの猫おおお! 先制添い寝!? 私の、私の夢のシチュエーションを軽々とこなしてええええ!!))))))
「……フェリス。貴女、後で本気で毛を毟ってあげるわよ……!」
背後で聞こえる爆音の嫉妬と、魔族の殺気。
けれど、腕の中の小さな温もりが、僕にほんの少しの勇気をくれた。
「あ、あの、二人とも……。今日は疲れちゃったから、もう寝てもいいかな? ……守ってくれて、ありがとう」
僕が消え入るような声でそう告げると、部屋の中の時間が再び止まった。
リリスは目を見開き、クラリス様は顔を真っ赤にして口をパクパクさせている。
((((((あ、あ、あああ、あ、アルト様が……お礼を!? 守ってくれてって言った!? 自覚あったの!? 死ぬ! 可愛すぎて私が今すぐ召天しちゃうううう!!))))))
ドゴォォォォォン!!
ついに宿の床にヒビが入った気がしたが、僕はあえて聞こえないふりをした。
僕はフェリスを抱えたまま、人生で初めて「誰かに守られている」という奇妙な安心感に包まれながら、ゆっくりと瞼を閉じたのだった。




