第8話:(後編)臨界点の突破と、閉じられた安息
馬車の屋根がないことで、吹き付ける風は刻一刻と冷たさを増していた。王都の加護を離れ、荒野へと続く街道は、遮るもののない孤独な静寂に包まれている。
だが、車内の熱量だけは、異常なまでの上昇を続けていた。
「……アルト。……寒い。……中、入れて」
膝の上で丸まっていたフェリスが、微かに身震いをした。
次の瞬間、彼女はあろうことか僕の外套の隙間に潜り込み、僕の胸元にその小さな体をすっぽりと収めてしまったのだ。
「ふ、フェリスちゃん!? そこは流石に……!」
「……ここ、一番あったかい。……心臓の音、聞こえる……。好き」
ゴロゴロと、服の中から喉を鳴らす音が直接体に響く。
温かくて、柔らかい。
本来なら、それは僕にとってこの上ない安らぎになるはずだった。しかし、その甘い時間は、左右から放たれた「絶望的な魔圧」によって粉々に打ち砕かれる。
「……あ。あぁ、あぁぁ…………ッ!!」
右隣で、クラリス様の喉から、ひゅっ、という掠れた音が漏れた。
彼女の顔はもはや赤を通り越して、どす黒いほどの熱を帯びている。彼女が纏う神聖なオーラが、嫉妬という猛毒に侵され、どす黒い紫色の放電となって馬車の座席を焼き焦がし始めた。
((((((中に入ったあああああああ!! アルト様の懐に入り込んだわあああああ!! 私の、私が一生をかけても辿り着けないはずの聖域に! あの猫、あの猫だけは、絶対に、絶対に許さないいいいいいいい!!))))))
バキッ、という嫌な音がした。
彼女が握りしめていた座席の手すりが、魔圧に耐えきれず粉々に砕け散ったのだ。
さらに、彼女の背後から噴き出した神聖魔力が、行き場を失って馬車の床板をバリバリと引き剥がしていく。
「……殺す。……今ここで。……その獣ごと、ミンチにして……地獄の果てまで、叩き落としてやる……!」
変換された彼女の言葉は、もはや人間のそれとは思えないほど憎悪に満ちていた。
左隣のリリスもまた、不敵な笑みを完全に消し、指先からどす黒い魔力を爪のように伸ばしている。
「……そうね。私も、これ以上は見ていられないわ。……ダーリン、その猫を今すぐ差し出しなさい。……じゃないと、貴方の体ごと、抉り取ることになるわよ?」
「ひ、ひぃぃぃぃっ! 二人とも、やめて! フェリスちゃんを殺さないで!」
僕は震える手で、服の中に隠れるフェリスを必死に抱きしめた。
だが、僕が彼女を庇えば庇うほど、二人の殺気(愛)は臨界点を突破していく。
ドォォォォォン!!
ついに、馬車の床が真っ二つに割れた。
クラリス様の放った『爆音内心』の衝撃波が、物理的な破壊となって車内を蹂躙したのだ。
飛び散る木片。悲鳴を上げる御者の聖騎士さん。
僕は反対側の座席に叩きつけられ、背中に鋭い衝撃が走る。
「((((((アルト様あああああ! 怪我はない!? 大丈夫!? ごめんなさい! 私が、私が馬鹿だったわ! 貴方以外のすべてを消し去れば、こんなことにはならなかったのにいいいい!!))))))
クラリス様が涙を流しながら、僕に手を伸ばす。
だが、僕の耳に届いたのは、絶望のトドメとなる言葉だった。
「……死ね。……二度と、触れるな。……穢らわしい。……お前の隣にいるものは、すべて……私が、この手で、消滅させてやる……」
ドゴォォォォォン!!
あまりの音圧に、ついに馬車の車輪が一つ、物理的な衝撃で外れてどこかへ転がっていった。
屋根も床もバキバキに壊れ、もはや「走る粗大ゴミ」と化した馬車の中で、僕は涙目で空を仰ぎ見た。
般若のような形相で「死ね」と連呼する聖女様。そして、その横で「あらあら」と他人事のように笑いながら、僕を品定めするように眺める魔族のリリス。
(僕がフェリスちゃんを可愛がったから、聖女様は怒ってるんだ。僕がほんの一瞬でも安らぎを感じることさえ、彼女にとっては『不浄』で『処刑対象』なんだ……!)
クラリス様が真っ赤な顔で、壊れた床板を乗り越えて僕に手を伸ばしてくる。
「((((((アルト様あああああ! 怪我はない!? 大丈夫!? 今すぐ抱きしめて、折れるほど抱きしめて、私の体温で温めてあげたいのにいいいい!!))))))
ドガシャアアアン!!
必死すぎる想いが漏れ出し、馬車の側面が内側から爆発した。
だが、僕の耳に届くのは、慈悲なき「お掃除」の宣告だ。
「……死ね。……二度と、触れるな。……穢らわしい。……お前の隣にいるものは、すべて……私が、この手で、消滅させてやる……」
「……ひっ! ごめんなさい! フェリスちゃんは悪くないんです! もう可愛がりませんから、命だけはぁぁ!」
僕はフェリスを放り出す勢いで(実際は守るために)座席の隅へ転がり、ガタガタと震えながら土下座した。
もはや「守られている」なんて微かな希望は、粉々になった馬車の屋根と一緒にどこかへ飛んでいった。
(僕に関わるものは、みんな聖女様に消されちゃうんだ……。僕が生きているだけで、周りが壊れていくんだ……!)
月明かりの下、車輪が外れて傾いた馬車は、火花を散らしながら、絶望に沈む少年と「いい気味ね」と微笑む魔族を乗せ、夜の街道をガタガタと進んでいくのだった。




