第9話:(前編)吹き曝しの聖域と、過剰な「聖域」
王都を出発して数日。僕たちの旅は、街道のど真ん中で立ち往生するという最悪の局面を迎えていた。
原因は、僕の膝の上で安眠を貪るフェリスの着弾衝撃、そしてそれに激昂したクラリス様の魔力暴走によって、僕たちの移動手段であった豪華馬車が「物理的に粉砕」されたことにある。
車輪は外れ、屋根は吹き飛び、床板までバキバキに割れた馬車は、もはや走る粗大ゴミ以外の何物でもない。王都のギルドで「無能」と笑われていた僕には、こんな高価な乗り物を直す術などあるはずもなかった。幸い、御者の聖騎士さんが予備の部品を求めて近くの宿場まで走ってくれたが、修理には少なくとも一晩の時間を要するとのことで、僕たちは人家のない不気味な森の境界線で、強制的に野宿をすることになった。
「アルト様、安心してください。……この私が、羽虫一匹、あなたの指先に触れさせはしませんから。今夜は、この『聖域』の中で、泥のように眠りなさい……」
クラリス様が真っ赤な顔で、しかし瞳の奥に凄まじい執念を宿して宣言した。
彼女が聖なる杖を力強く地面に突き立てると同時に、周囲の街道を支配していた濃密な闇を切り裂くような、巨大な『神聖結界』が僕たちを包み込んだ。それは防御魔法というよりは、漆黒の夜空に向かって「最高級の獲物はここだ!」と大声で叫んでいる巨大なサーチライトのようだった。
「ひ、ひぃっ……! あ、あの、聖女様? そんなに煌々と照らしたら、逆に森の魔物に見つかりませんか?」
「((((((見つかってもいいのよ! 誰が来ようと私が全員、跡形もなく消し飛ばすから! 今はただ、このスポットライトの下で、アルト様と私の二人だけのステージを……!!))))))
ドォォォォン!!
爆音だ。彼女の内心の昂ぶりと共に、結界の魔力出力がさらに跳ね上がり、周囲の木々が光の圧力でミシミシと悲鳴を上げる。
けれど、僕の耳に届くのは、慈悲なき「火刑」の宣告だった。
「……逃がさぬ。……ここで、焼き尽くす。……光の中に、溶けて消えろ……」
(あ、あはは……。やっぱりそうだ。逃げ場のない外に僕を連れ出して、ライトアップして、逃げ出さないように炙り焼きにする準備なんだ……!)
僕は豪華な毛布に包まりながら、焚き火の火に怯えていた。
この光り輝く結界は、僕を守るための盾などではなく、僕を逃がさないための檻にしか見えなかった。暗闇の中に浮かび上がる黄金のドームは、まるで巨大な調理器具の蓋のようにも思えて、僕は自分の体温が恐怖でじわじわと吸い取られていくのを感じた。
周囲の森は、吸い込まれるような深い闇に沈んでいるのに、僕たちの周りだけは真昼よりも明るい。その異常なコントラストが、かえって僕の孤独と絶望を際立たせる。王都の大神殿にいた時のような、人々を包み込む温かな光じゃない。これは、獲物を一秒たりとも見逃さないための、冷徹な監視の光だ。パチパチと爆ぜる焚き火の音さえ、僕を調理するための準備音にしか聞こえず、僕は震えながら空を仰いだ。屋根のないこの場所では、星空さえも僕を嘲笑っているように見えた。
「ちょっと聖女様。ダーリンを怖がらせてどうするのよ。……ほら、ダーリン。夜風が冷たいわ。私の隣に来れば、もっと情熱的に温めてあげられるわよ?」
リリスが僕の右腕をぐいっと引き寄せ、自分の体に密着させる。
王都の加護――大神殿が誇る巨大な防臭結界がなくなったこの場所では、僕の体から溢れ出す『十年の熟成を経た魅力』が、遮るものなく夜風に乗って周囲へ拡散していた。その影響は、隣にいる彼女たちの理性を、ガラスが割れるような音を立てて焼き切ろうとしていた。
リリスの吐息は驚くほど熱い。彼女の瞳が、暗闇の中で空腹の猛獣のように妖しく赤く光っているのを間近で見て、僕は喉の奥が引き攣るのを感じた。
「……ふぅ。アルト、なんていい匂いかしら。……ねぇ、もう我慢の限界だわ。一口だけ、ほんの一口だけ、味見をしてもいいかしら?」
「ひっ!? だ、誰の味をですか!? 僕、魔力も出せないし、全然美味しくないですよ!?」
さらに、追い打ちをかけるようにフェリスが僕の服の中に潜り込み、胸元でスリスリと無邪気に甘え始める。
魔界の頂点に君臨する魔族と、気まぐれな猫耳の亜神。二人に左右から挟まれ、僕は心臓の鼓動が耳元でうるさいほど早まるのを感じた。それは決して、美少女に囲まれたことによる「ときめき」などではない。捕食者の懐に自ら飛び込んでしまった小動物の、絶望的な逃避本能が鳴らす警鐘だ。彼女たちの体温が服越しに伝わるたび、僕の理性がじわじわと侵食されていくようで、僕は必死に意識を保とうと自分の指を強く噛んだ。
「((((((なあああああああああああああああああああああああにあの二人いいいいいいい!! 野宿! 野宿という最高のハネムーン・シチュエーションを汚してええええ!! 万死! 今すぐ爆発して消えてえええええ!!))))))
ドガシャアアアン!!
ついに、かろうじて残っていた馬車の残骸が、爆音の振動に耐えきれず、完全に粉砕されて薪へと変わった。
クラリス様は真っ赤な顔でガタガタと震え、手にした聖剣の柄をギリギリと鳴らしている。その切っ先が、焚き火の光を反射して不気味にギラリと、僕の首元を狙うように光った。彼女の瞳は潤んでいるが、その奥にあるのは、慈悲など一滴も含まれていない、底なしの独占欲だ。
「……死ね……死ね。……今すぐに。……塵も残さず、この世から消去してやる……!」
(ひ、ひぃぃぃ! ごめんなさい! 僕が、僕がここにいるせいで、みんながイライラして壊れていくんだぁぁ!)
僕は自分の存在そのものが、彼女たちを狂わせ、破滅へと導く「猛毒」であることを痛いほどに再確認し、深い絶望に打ちひしがれた。
焚き火の火がパチパチと不規則に爆ぜる。その音さえ、僕には処刑開始のカウントダウンにしか聞こえない。薪が燃える独特の匂いが、まるで自分自身の未来が灰になる様を暗示しているようで、鼻の奥がツンと痛み、視界が涙で滲んだ。
ふと、僕は結界の外側、深い闇が広がる森の境界線に目を向けた。
王都を離れ、神聖な加護を失った僕の「匂い」は、今この瞬間も、風に乗って魔界の深淵まで届く勢いで広がっている。
それは目に見えない強固な鎖のように、森の奥深く、あるいは異次元に潜む『強大な何か』に僕の存在を刻み込んでいる気がしてならなかった。僕が吐き出す何気ない吐息ひとつ、頬を伝う汗一滴が、この世界のどこかにいる飢えた怪物たちに、僕という「最高級の餌」の居場所を正確に教えている。
右には、今にも僕を神聖な炎で焼き払おうとする光の壁(聖女)。
左には、僕を一生の捕食対象として離さない冷徹な死神(魔族)。
そして、このサーチライトのような結界の光に誘われて、闇の向こう側からは、僕の「匂い」を嗅ぎつけた未知の何かが、確実に、そして一歩ずつこちらへ向かってきている。
(……あ。あそこに、誰かいる……?)
一瞬、光が届かない森の影に、二つの紅い点が浮かんだ気がした。それは野犬の目なのか、それとも僕を狙う新たな刺客の眼光なのか。
周囲の空気の密度が、物理的に変化したように感じた。ざわめいていた風が止まり、森の虫たちの音さえピタリと消え失せる。ただ、僕自身のうるさすぎる心臓の音だけが、静寂の中でドクドクと不気味に響き続けている。
「……前も後ろも、そして闇の中までも。……世界中が、僕を食べに来ようとしている……」
三重、あるいはそれ以上に張り巡らされた絶望の包囲網。
逃げ場のない完全な詰みを確信し、僕は一睡もできないまま、処刑の朝が来るのを待つことになるのだった。




