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第8話:(前編)膝の上の聖域と、爆ぜる二人の嫉妬

 宿場町での一晩を経て、僕たちの旅はさらに人跡稀な辺境へと差し掛かっていた。

 屋根が吹き飛び、無惨な姿となった豪華馬車は、街道を走るたびに風を切る音を立てている。王都を包んでいた大神殿の加護――僕から漏れ出す『魅力』を中和してくれていた守護結界からは、もう随分と遠ざかってしまった。


 そのせいだろうか。僕の膝の上で丸まっている、猫耳の亜神フェリスの様子が、今朝からおかしい。


「……ん。アルト、……ここ、あったかい。……最高」


 フェリスは、僕の太ももを自分の定位置だと完全に決め込んでいる。ぴょこんと動く三角形の耳が僕の顎をくすぐり、しなやかな尻尾が、まるで僕を誰にも渡さないと主張するように腕に幾重にも巻き付いている。スースーという規則正しい寝息が服越しに伝わってきて、その小さくて温かい鼓動を感じるたび、僕の胸には微かな安らぎが宿っていた。

 ……けれど、その安らぎは、左右から突き刺さる「物理的な殺気」によって、瞬時に消し飛ぶことになる。


「……ねぇ、フェリス。いい加減に、そこをどいたらどうかしら?」


 左隣から、リリスの低く、地を這うような声が響いた。

 彼女は妖艶な笑みを浮かべてはいるが、その瞳の奥には、今にもフェリスを魔界の最果てまで蹴り飛ばしかねない、どす黒い独占欲が渦巻いている。リリスの指先が、怒りで座席の革をギリギリと引き裂いていた。


「ダーリンの膝は、この地上で最も価値のある『玉座』なのよ。そんな風に、ただの昼寝場所にされるなんて……私のプライドが、そして女としての本能が許さないわ。……代わりなさい。今すぐ。さもなくば、その毛皮を剥いでやるわよ?」


 そして右隣。そこには、もはや言葉を失い、全身を激しく震わせている聖女クラリス様がいた。

 王都の結界から離れるほどに、彼女の放つ魔法的な衝撃波――いわゆる『爆音の内心』は、遮るものなく周囲へと放射されるようになっている。彼女の周囲だけ、局所的なポルターガイスト現象が発生し、馬車の床板がミシミシと悲鳴を上げ、魔法の灯火がバチバチと火花を散らしていた。


((((((なあああああああああああああああああああにあの猫おおおおお!! 宿での添い寝だけじゃ飽き足らず、馬車の中でもずっと独占してええええ!! アルト様の膝! 私が一生をかけて守り抜こうと決めた聖域を、あんな無防備に独占してええええ!! 万死! 爆発しろおおお!!))))))


 ドォォォォン!!

 爆音だ。もはや馬車の車体そのものが衝撃波で浮き上がるほどの音圧。

 けれど、僕の耳に届く彼女の言葉は、相変わらず冷酷な「死の宣告」へと変換されていた。


「……死ね。……今すぐ。……爆ぜろ。……その獣ごと、塵も残さず、この世から消し飛ばしてやる……」

「ひ、ひぃぃぃっ!? ごめんなさい! フェリスちゃん、悪気はないんです! ただ眠いだけなんです、許してください!」


 僕は恐怖で身を竦ませ、必死にフェリスを庇うように抱きしめた。

 宿を出る際、彼女たちに「守ってくれてありがとう」なんて言ったから、余計に期待させてしまったのだろうか。そんな僕の自己犠牲的な行動が、さらに彼女たちの怒りに、特大の油を注ぐ結果となった。


「……アルト。……もっと、ぎゅっとして。……離しちゃ、だめ」


 寝ぼけたフェリスが、あろうことか僕の胸元に顔を深く埋めてスリスリと甘え始めた。

 さらに、彼女の小さな手が僕の指を捉え、無自覚に口元へ運び――「……はむ」と、赤子のように甘噛みしたのだ。


「((((((指をおおおおお! 指を噛んだわああああ!! 不潔! 不浄! 羨ましい! 代われ! 代われよその役割えええええ!! 今すぐ私の指も噛みなさあああい!!))))))

「……チッ。あの猫、あとで本気で毛を毟って、魔界の煮込み料理の具にしてあげる。……いえ、骨まで砕いて肥料にしてやるわ」


 聖女様の過去最大の絶叫内心と、リリスの具体的な殺害予告。

 二人のあまりの気迫に、街道の上空をのんびり飛んでいた小鳥たちが、ショック死したかのように次々と墜落していく。

 御者の聖騎士さんは、もはや何も見ていないような虚ろな目で前を見据え、「私は壁だ、私は景色だ……」と念仏のように唱え続けていた。


「……あ、あはは。二人とも、落ち着いて……。ほら、街道の景色でも見て……。ね?」


 僕が震える声で場を宥めようとした、その時。


「「落ち着けるわけないでしょう(でしょうが)!!」」


 ハモった。

 最強の魔族と最強の聖女。二人の美女が同時に僕を睨みつけ、その視線のレーザーが僕の全身を焼き焦がすような錯覚を覚える。

 

「……アルト。……うるさい。……追い出していい?」


 膝の上のフェリスが、眠たげな目を半分だけ開けて、左右の二人を「邪魔者」として切り捨てた。

 

「「……なんですって(ですって)!?」」


 空気が、物理的にひび割れる音がした。

 王都を出てから、僕の周囲の平和は加速度的に失われている。

 膝の上には、究極の癒やしにして最大の火種。

 左右には、僕を奪い合う死神と処刑人。

 

「……神様、助けて。僕、ただ静かに、平和に旅がしたいだけなのに……」


 僕はフェリスを抱えたまま、馬車の片隅で胎児のように丸まった。

 この閉鎖空間で、いつ二人の『殺意』が臨界点を突破し、大爆発を起こすのか。

 恐怖と戦慄の中、屋根のない馬車はさらなる混迷を乗せて、辺境への道を猛スピードで走り続けるのだった。


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