第26話 試練
夏休みが始まってどれくらい経ったのだろうか。宿題は早めに終わらせ、響子への指導もできる限りの事はした筈だ。それでもまだ二週間は残って居る。
(久しぶりに颯真にでも会おうかな)
朝焼けを見るには早すぎる時間の中、窓を開けながら一人湊はコーヒーを入れていた。
静けさを忘れるための合図とばかりに、ピンポーンと事務所のチャイムが鳴った。
何か仕掛けられているのかも知れない。無闇に相手の姿を探ろうとはせずに、湊はインターホンに声を当てた。
「どうぞ」
「失礼する」
入ってきたのは、190cmは在りそうかと言うほどの大男。おろしたてのスーツにキッチリとセットされた前髪。胸のポケットには鳳凰の姿をあつらえたバッジを付けていた。
「単刀直入に言うが、響子を此方に引き渡して頂きたい」
「分かりました。しかし彼女はまだ眠っています。急を要するのであれば仕方在りませんが、なるべく彼女にはしっかりとした生活を送ってほしいもので」
「良いだろう」
湊には、男が少し顔を顰めた気がした。
「有り難うございます。話を弾ませるには何か美味しい物があればと思うのですが、何かお作り致しましょうか」
「構わん。その方が響子も早く起きると思うからな」
湊はキッチンへと向かって朝食を作り始めた。
時折、男の鼻にまで良い匂いが辺りに漂ってくる。
30分ほど経って、料理がテーブルに並べられた。
それぐらいしても、まだ日が昇るには早かったらしい。
明かりを付けて、男二人の朝食が始まった。
「なかなか上手いじゃ無いか。ウチのシェフに欲しいぐらいだ」
「光栄です」
彼の食べっぷりには、作る方としても大変作りがいのある物であった。
「失敬。少々食べ過ぎてしまったかな?」
「いえ、彼女の分はしっかりと残しておりますので」
そうか、と彼は口元をハンカチで拭いながら答えた。
「それで、君は我々の要求に対して断ることもできた筈だ。何故それをしない?」
「俺は彼女に伝えるべき事は全て伝えました。いつか別れの時が来ると思い、なるべく駆け足で行った次第です。彼女の事情にはあまり踏み込みはしません。俺は、彼女が自立できる足掛かりを作っただけです」
「ふむ。我々は少々君の事を見誤っていたのかもしれないね」
「それはどうでしょう。彼女が成長した。それ以外は全てどうでも良いことだ」
「そうだな。君がその姿勢を貫く限り、私達は君に手出しはしない」
「それは褒め言葉と受け取っても?」
「さあな。さて、娘の寝起き姿にあっても良いかな?」
「どうぞ。なかなか見られる機会は無いと思いますから」
彼女が寝ているドアの前まで案内する。
「このお人好しが」
その一言と共に、背後からの裏拳を首に食らった。だが、痛がったのは男のほうだった。
ポキ、と間抜けな音が鳴った。
「っっっ!!!」
「食材費は払って貰いますからね」
湊は予備動作も無しに結界で彼を包み込み、開いている窓目掛けてそれをそのまま外へと投げ捨てた。
正方形のカタチをした透明な物体が、向かい側へのビルへと叩き付けられる寸前、男が喚いた。
「こんなことをすれば、世間が黙っちゃ居ないぞ!!」
「ご冗談を」
何を言っているのかと男は、辺りを見回した。
人も、車も、雲すらも動いていない。
世界は止まっている。いや、性格に言えば世界は切り取られていた。その切り取った世界を自由自在に湊は操っているのだ。
どうしようも無く、彼が恐ろしい。何故、娘はこんな男の元に転がり込んだのか。
「クソッ」
苦し紛れに吐いた言葉は彼に伝わっていたのだろうか。
いつの間にか移動していた湊は男を結界ごと宙に蹴り上げた。空を飛ぶどころか宇宙へと出て行ってしまう。何処までも加速し、ついにはブラックホールに吸い込まれていった。
「あ?あああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!」
「全部まやかしだよ」
少しお灸が強すぎたみたいだった。
響子は、お客様用のソファの上でうなされている父親を見て苦笑いをしていた。
「もう終わりなんですね」
「誰も夏休みの最終日までやるとは言っていなかったからな」
別れるにしても、湊にとってどうしても解決しておきたい問題が一つあった。
「それにしても、あの血塗れの姿は一体何だったんだ?」
「あれは、…秘密ですっ!!」
この調子じゃあ、彼女はきっと誰にも話さないのだろう。
(俺は少し心配性でな)
湊は響子の記憶を覗き見ることにした。
湊と出会う数時間程前、しきたりの時間になったため、彼女は何も持たずに家から放り出された。
誰かのツテを探っても良いが、基本的に対価を求められる。代償無しになんて生温い話は何処にも転がっていなかった。
(この体を差し出せば…)
だが、そんな見え透いた事では相手も取り合ってはくれないだろう。他にも自分に有利な条件を付けてから事に及ぶはずだ。
幼い頃に見た父の体は、背中に大きな傷を負っていた。その頃から、自分は傷無しには生きられない事を子供ながらに分かっていたのかも知れない。
(せめて、付ける傷は自分で選んでやる)
時代錯誤だと言われようとも、鳳凰院家はこれからもこのしきたりを続けていくのだろう。
現に、それ以外については特に不自由は無かった。ただ、少しの歪さがあるだけ。
人生で一番の失意を経験してしまえば、残りの辛さは辛くない。消えもしない傷が、心に残り続けるから…。
取り敢えず、人が行き来している大通りに狙いを定めた。
手当たり次第に声を掛けてみる。多くの人に新手のナンパかと言われた。ただ、性別や顔、スタイルに関係なくいった為、次第に来る人は来るようになった。
私は、路地裏で出会った正気を失った様な人を選ぶことにした。
「ええっ!?良いのかい!?」
目の奥の濁りを隠すような無邪気な振る舞い。長い髪も相まって、その本心の残酷さを彼女は見誤っていた。
(もう、これ以上の怖いことは無いんだから)
ワンピースの裾を強く握って、響子は男の後ろについて行った。
その時はまだ昼だというのに、路地裏に届く光は異様な程に少なくなっていた。
初めて通る道。光が届きにくい場所は初めてという事もあって、心臓はやけにうるさかった。
「いひ。いひひひひひひひひひひひひひひひひひひひっっっ!!!」
結構進んだと思った矢先、その時はやって来た。
取り出されたのは、全長30cm程の果物ナイフ。
「貞操の方を心配してた?残念でした~。最近、そちらの方ばかり警戒する人が多くてね、こっち側の存在を忘れている人が多いんだよ。性の喜びなんて要らない。そんなものは、無くても生きていける。でも、命の喜びは必要だよ。君のような、世間知らずは特にねぇっ!!!」
目の前から男の姿が消えた。私が彼を認識する前に、体は建物に打ち付けられていた。
震える頭で必死に脳を働かせる。それも空しく、最悪は私を追い越した。
ぶすりと、ナイフが腹を貫いた。
「あ…?」
白い存在が赤色へと変わっていく。血に濡れた感触は思ったよりも、呆気なかった。
そのまま、ナイフを引いたり刺したりを繰り返される。たまに傷口をえぐられるような真似をされた。
脳が悲鳴の信号をあげている。
「ぁああああああああああああああああっっっ!!!」
男は、その光景を五月蠅く思わず、むしろ作品の一部のようにその姿に見入っていた。
「抜こうかな?抜かないかなっ?どっちかな!?」
甲高い声が脳を揺らす。
じわじわと、死が此方へ向かってくる。ただ殺されるだけでは、自分に魅力が無いのかとそんな事が頭をよぎる。
「屈辱だよね。生物としての役目も果たせないんだから!!!」
腹が立った。それはもう、猛烈に。
自分の意思でそれを選んだわけでは無いのに、そんな事を言われるのは納得がいかなかった。
(私は、誰も恨まない。だから、ただこの悪夢が過ぎ去るまでは…)
だら、だら、だら。赤色はまだ足りないと行った感じでアスファルトをいたぶり続けている。
玩具は1.5リットル程の血を抜かれた後も、辛うじて意識を保っていた。
「ぅ…、あ…」
「凄いっ!!凄いよ!!君がそこまでして命の素晴らしさを知ろうとしたとは思わなかった!!さあ、後は誰かが来るまでの辛抱だ。僕はもう行くけど、君が生きていたらその時は潔く死んであげるよ。お大事にーっ!!!」
そのまま男は何処かへと行ってしまう。次に必要な事は助けを求める事であった。
助けを求めるには、助けが必要という努力をしなければならない。
「…す、け」
声を出す、気力はもう無かった。少し、涙が零れてくる。ただ、路地裏に囲まれたこの現状では、涙の価値はゼロに等しかった。
幸か不幸か、この路地は大通りに近かった。変な奴だと先程の件で店先の人に顔を覚えられたかも知れない。鳳凰院家の跡取りとして相応しくない行動だったのかもしれない。
(それでも、私は生きたいと…)
そうして彼女は湊に助け出された。
一連の流れを知った湊は、響子の父親が目覚めるまでは誰とも話さなかった。
「では、またのお越しをお待ちしております」
気付けば、二人を見送る時間になっていた。
これが転機になるのかどうかは彼女しだい、か…。
少し、ポケットの中のスマホを気に掛ける。
(俺が気にするのもな…。)
ましてや彼女の父親の前でだ。娘に近づく悪い虫扱いをされて、絶交されるのがオチだろう。
「どうしたものかな」
「どうしました?」
響子の父親が話しかけてくる。
「いえ、此方の事情なのでお気になさらず。ああ、それと彼女にプレゼントを渡して置くべきでした」
「「プレゼント?」」
そうして目の前に持ってこられたのは、響子が着たいと言っていたメイド服や着物達であった。
「採寸などは、私の友人の女性が行っているので問題はございません。品質も、申し分の無いものを選ばせて頂きました。どうぞ、文化祭にお使いくださいませ」
あんぐりと開いた口が塞がらない二人を横目に、湊はしてやったりと一人笑顔を浮かべるのであった。




