25、水の中と鏡面と
「おはようございます、風精霊さん。逃げた男とは誰のことですか?」
エズメがそう尋ねると、風精霊がすぐ目の前に姿を現した。彼は、くすりと悪戯っぽく微笑んだ。
「あの鳶色の髪の男だよ。昨夜は肉体を捨てて逃げたけれど、奴の霊は鏡や水面を通じて、ここのご令嬢に近付けるようになったみたいなんだ。さっき廊下の鏡や窓に映っている奴の姿が見えたから間違いない」
「……貴方、案外と私たちの側にいらしたのね?」
オシアンの近くにいると魔力共鳴を起こすのであまり側にはいられないのではなかったか、とエズメは尋ねたが、風精霊は笑みを崩さなかった。
「風精霊は目と耳が良いからね。遠くに離れていても視えるし、聞こえるんだ」
その言い分は少々疑わしい気もしたが、追及している暇はなかった。オシアンが硬い声でこう言ったからだ。
「これは、いささか良くない事態になってしまったな。ピットヴァイパー男爵の霊をどうにかせねば、アデレード嬢は鏡どころか水に近付くことも出来ないだろう。だが、人間は水を飲めなければ数日のうちに死亡する」
守護者の資格だけではなく医師の資格も持つマグナスが肯いた。
「仰る通りです、閣下」
二人の声を聞きながら、エズメはとある昔話の結末を思い出した。水妖の報復を恐れて水に近付くことが出来なくなった不実な男が、渇きに耐えきれずに正気を失い、井戸の前で水妖に殺されるというものだ。
もっとまずいことに、ピットヴァイパー男爵の霊は鏡面も移動することが出来る。つまり、磨き上げたガラスの窓や金属製のカトラリーも侵入路になり得るということだ。
「……アデレード嬢から離れた場所で、水の中や鏡面から相手を引きずり出して、二度と戻れないようにしなければならないわね」
エズメが眉間に皺を寄せると、その顔を風精霊が面白そうに覗き込んだ。
「僕さ、眉間に縦皺のあるご婦人も嫌いではないんだよね」
エズメは風精霊の頬を平手打ちしたい、さもなければその両頬を両手で掴んで引っ張りたいという衝動に駆られたが、どうにか抑え込んだ。
風精霊の頬や額を叩いたり、指で弾いたり抓ったりすることは、彼らの世界では求婚、それも相当強引な部類に当たる、と昨日ミュリエルからこっそり注意されたので。
エズメは二回ほど深呼吸した。
「申し訳ないのだけれど、今は貴方と遊んでいる暇はないの」
それを聞いた風精霊が、勝ち誇った笑みを浮かべた。
「せっかく君に、鏡から悪霊を釣り上げる遊びを教えてあげようと思ったのにね」
エズメは風精霊の目を見据えた。
「ねぇ。一刻も早くそのやり方を教えてくださらない?」
自分でも随分と低い声が出てしまった、という自覚があったほどだ。風精霊の顔が引きつったのは言うまでもない。
* *
薄暗い寝室。ヒルダは怯えて震えるアデレード嬢を抱きしめ、背中をそっと撫でながら、優しく言い聞かせた。
「アデレード嬢、どうかゆっくりと息を吐いてください。私が参りましたから、もう大丈夫ですよ」
令嬢が素直に従うと、ヒルダは更に言い聞かせた。
「心を強く持ってください。貴女は強くて賢い方だ。死してなお卑怯な者に負けることなど、決してありません」
「……はい」
か細い声で返事をするアデレード嬢に、年配の侍女が温かい紅茶を差し出した。
「それは私が」
ヒルダはさっと茶碗を取り、さり気なく破魔の力を流し込んだ。そして水面に映った男の影が苦しげに消えたのを確かめ、改めてアデレード嬢に紅茶を差し出した。
風精霊の求婚の作法はどうなっているのでしょうね。




