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9.正気の檻

ヴァリディギウスは、ただただ困惑していた。


ヴァリディギウスは己が破壊と終焉を宿した獣であり、世界の全てを蹂躙する力を与えられて産まれてきた存在であると認識している。


だがそんなヴァリディギウスの力を正面から受けてなお壊れなかった存在が一つ。


それこそが、今ヴァリディギウスの目の前でこの漆黒の空間を展開した灰色の髪の男───ノアだった。


「───お前は、エルナを喰い滅ぼした」


ノアの声が空間に響く。


その声色には、これまでと違って殺意が乗っていなかった。


「お前も、グリアノスに利用されたという点では被害者なのかもしれない……でも、それでも到底許せるものではない」


その殺意は、全てグリアノスへと向けられていたのだ。


ヴァリディギウスは更に混乱する。


人間の思考こそできずとも、ヴァリディギウスとて獣としての本能のようなものは持ち合わせている。


ノアにとってのエルナがどのような存在だったのか、それをヴァリディギウスは知らないが、殺意を抱くのは自然なことなのではないかとも思う。


故に、ノアが自身に殺意を向けないことに対してヴァリディギウスは不思議がっていた。


「───お前は、元々はデネスの持っていた権能の一部に過ぎない。グリアノスが無理やり簒奪しなければ、産まれることもなかった……だから、真の元凶はグリアノスだ」


そこでようやくヴァリディギウスの中で合点がいく。


実際に滅ぼしたのは己だとしても、その大前提の原因を作ったのはグリアノスなのだ。


だから、ノアはヴァリディギウスの今際の際に殺意を向けることはない。


例え、許すことなど不可能だったとしても。


「できるかは解らないが……可能なら苦しませずに殺してやる」


その時、ずっと黙っていたアスティリアが声を上げた。


【ノア……一体何を……?】


アスティリアからすればそもそもこの『裂殺侵空』すらも未知数な力だ。


殺意の権能のものとは解っていても、神域とはまた違ったこの術の知識など持ち合わせていない。


故に、今からノアが何をしようとしているのかも全く解っていなかった。


「───」


ノアはその問いに対し、あえて答えないという選択を取る。


その行動は、ヴァリディギウスという利用された生命に対しての侮辱だと感じたから。


白雪を鞘に仕舞い、ノアは両手を包み込むように広げる。


殺意でできた漆黒の領域は抵抗すらしないヴァリディギウスの影をゆっくりと飲み込んでいった。


「───『死は魂の救済(ネル・メルディ)』」


それは、確かに紛れもなく殺意だった。


だがグリアノスに向けたそれとはあまりにも違う。


善意と殺意は対極にあるようで、そうではない。


故に、それらは両立するのだ。


とはいえ、普通の空間でそれをやるのは難しい。


殺意からなる死をコントロールするには、自分の意志をプログラムとして認識することが絶対条件だからだ。


そうすると、殺意という意志が揺らいでしまう。


当然とも言えよう。


『許せない』『殺してやりたい』という感情こそが意志の権能の力の根源なのに、それをプログラムとして認識してしまえば弱まってしまうのは当たり前だ。


だからこそ、この空間───天殺領域、『裂殺侵空』が必要だったのだ。


「この死で以て───お前の魂を救ってやる」


死は魂の救済(ネル・メルディ)』の漆黒は天殺領域のそれよりもなお黒く、まるで闇に吸い込まれるよう。


その暗さはノアの殺意であり、哀しみであり、慈悲だ。


「心配するな。この魔法で殺されても、苦しむことはない」


あくまでも、これは救済の為の魔法だ。


苦しみを与える殺意の魔法は別にある。


しかし、ノアはそれをヴァリディギウスにぶつけるつもりは毛頭なかった。


「ゆっくりと、呑まれていけばいい───安らかに、死ね」


慈悲を宿した殺意の結晶であるその闇は、やがてヴァリディギウスを完全に呑み込む。


与えられるのは永劫の死。だがそこに苦しみはない。


魂が滅びるよりもなお、その命は安らかに死にゆく。


「───」


やがてヴァリディギウスの破壊と終焉……そしてそれを象徴する影が完全に消え去り、同時に『裂殺侵空』もパラパラと崩壊していった。


「なに、が───」


天殺領域内では時間などの概念もその中の空間ごと殺される。


故に内部で時間が経過することは一切ない。


外にいたグリアノスからしてみれば、一瞬の出来事であった。


「───さて、どう殺そうか」


ノアの瞳からは一瞬で慈悲が消え、静かな殺意と侮蔑の意志が宿る。


グリアノスに向けられたその視線は、路肩の石を眺めるそれよりも酷いものだ。


まるで塵を見るような……否、その程度では表現すらできない程の、他に類を見ない視線。


「っ……」


グリアノスは魂が根本から狂っているとはいえ、生物であるという大前提は揺るがない。


だからだろうか、その視線に恐怖すら抱いていた。


(う、ぐ、うぅ……ッ!)


先刻感じていた、ノアの力への恐怖とは完全に別種。


生物の本能がその視線を恐れている。


生物としての尊厳が穢されているような、そんな感覚。


だがグリアノスはそれに文句を言うことも、内心で反発することすらもできないでいた。


───圧倒的な恐怖を前にして。


「───ああそうだ。ははは、一つ思いついたよ」


ノアは不気味に笑う。


ただ笑うのではなく、グリアノスのこれまでと現在、そしてこれからの未来の全てを嘲笑うように。


「な、に……?」


グリアノスは最早恐怖のままに聞き返すことしかできない。


槍などとっくに取り落としており、もうこの精神状態では狂気すらも練られないだろう。


───そう、狂気を操るグリアノスが、だ。


狂気を支配できるはずの存在が、狂気と恐怖に支配されてしまっているのだ。


一万年以上生きたグリアノスも、こんな状況になるとは想定できていなかっただろう。


そんな状態のグリアノスにノアは近づきながら笑いかける。


「簡単だ───殺意は割と何でもできてな。お前への揺るぎない殺意を考えれば、実現できそうな事象がある」


グリアノスは近づいてくるノアから距離を取ることすらもままならず、腰が抜けて後ろ向きに倒れ込んだ。


「ぐ、ぅ……っ」


どうにか上体を起こすが、ノアはもう目の前にまで迫ってきている。


「ひっ───」


顔を近づけ、まるで耳元で囁くようにその言葉を吐いた。


「───お前の本質は狂気。精神崩壊を起こして狂うことも、やろうと思えば意識的にできるだろう。だから、()()()()()()()()()()()()()……()()()()()()()。正気のまま、お前は地獄を味わうんだ」


それは絶望の宣告だった。


「な、ぁッ……!?」


ノアはグリアノスの胸ぐらを掴み、持ち上げる。


それによって一切の力が入らないグリアノスの脚はいとも容易く浮いた。


闇を宿したような紫色の双眸がグリアノスの恐怖に歪んだ顔を直視する。


「お前には何も与えない。殺意も、滅びも、死すらも───永劫の無の中で狂うことも崩壊することすらも許されず、苦しみ続けるがいい」


ノアは殺意を局所的に解放し、グリアノスではなくその狂気のみを殺していく。


数秒もしない内に全ての狂気が死に絶え、グリアノスを守る障壁も完全に消えた。


「───『狂気の剥奪(ネスト・グレム)』」


そこで発動されたのがノアの魔法。


狂気を操るグリアノスからすれば、時間さえあればやがて狂気をまた放出するだろう。


だからこそ、その前にグリアノスから狂気という武器を完全に剥奪する。


その上でグリアノスから『狂う』という未来や事象を殺してしまえば、もうどうすることもできない。


「ぁ───狂気、が───」


この瞬間、グリアノスは遂に完全に無力な存在へと成り果てたのだ。


それをしっかりと確認したノアは最後に言葉を投げかけた。


「───お前には、俺の魂の内部に存在し続けてもらう。滅ぼしも、殺しもしない。気が狂う程の無を、狂うことのできない状態で永遠に味わえ」


ノアの魂は虚無だ。


その底はノアの知る限りでもアルファルドなどよりも遥かに深い。


そこへとグリアノスを幽閉するのである。


狂うことを封じた状態で。


それに何よりも、無とは生物にとって根源的な恐怖の対象だ。


完全な無音の空間に数時間入るだけで耐えきれなくなる程、人間の精神構造は脆いのだ。


当然、グリアノスを含めた人智を超えた力を操る存在ならばそれよりも長くは持つだろうし、無音程度ではどうもならないかもしれない。


だが、ノアの虚無はその比ではない。


五感の全てがシャットアウトされるのは当然のこと、その魂の内部ではあらゆる概念が無に帰す。


───そう、時間すらも。


「お前に許すのは思考のみ。狂うこともできず、尽きることのない時間を与えてやる」


いっそのこと死んだ方がましであろう地獄。


「い、やだ……殺せ……その方が、早いだろう……?」


グリアノスはまるで懇願でもするかのようにノアに言葉を投げかける。


だがそんな言葉で行動を変える程、ノアは優柔不断ではない。


その懇願をノアは冷たく一蹴する。


「確かにお前を滅ぼすことも、殺し続けることも簡単だ。だがそれは最高の苦しみにはならない。ゆっくりと己の精神が崩壊するのを感じながら、それでも完全には壊れることのできない地獄……それがお前に与える、俺の最大限の殺意だ」


魂そのものから狂気を封印されたグリアノスはそれを操ることはおろか、触れることすらもできない。


狂えなくなったグリアノスの絶望はこれまでにない程加速し続ける。


「───『魂魄操爪(フォルト)』」


ノアは右手に属性という概念を消した魔力を纏う。


その魔力はいわゆる無属性。


虚無ではなく、何の属性も持たない本来であれば無力なもの。


だが、無力だからこそ魂を傷つけずに直接触れるという芸当ができる。


「───」


魂に直接触れる『魂魄操爪(フォルト)』がグリアノスの心臓部分を貫き、拳程度の大きさの魔力の塊を取り出す。


「ぐ、がぁっ……」

「……これが、か」


目視はできないが、そこには確かに狂気を失い、無力となったグリアノスの魂が存在した。


「───さて、もう一つの準備が必要だな。アスティリア」

【……は、はい。何でしょうか?】


『裂殺侵空』以降のノアの行動に戸惑っているのか、アスティリアの返答が僅かに遅れる。


「ヴァリディギウスは完全に消滅し、俺の殺意も今は世界に影響が及ぶ程ではないはずだ。虚無と殺意ではやりにくいことがあってな。界律の権能を貸してくれると助かる」

【ああ、そういうことですか。解りました】


次の瞬間にはアスティリアは界律の権能の使用権限をほぼ全てノアに譲渡し、ノアは以前同様界律の権能内に統合された八神の権能を使えるようになった。


「よし……」


それを確認したノアは小さく頷き、左手にも魔力を集中させる。


それは右手の『魂魄操爪(フォルト)』とは全くの別物だ。


「……そういえば、この魔法も久しぶりな気がするな」


ノアは左手に『崩壊神撃(ガル・アヴェナ)』を纏っていた。


一瞬だけ記憶に耽っていたノアだったが、次の瞬間にはその手を自身の胸に突き刺していた。


【の、ノア!?】


ノアの身体は容赦なく破壊され、鮮血が地に飛び散る。


どうやら界律の権能に統合されたことにより、破壊の権能として使っていた時よりも威力などが大幅に底上げされているようだった。


(威力が上がって……いや、どちらかと言えば今の状態が本物なわけだ)


まあノアからすればその辺りのことは今はどうでもいい。


崩壊神撃(ガル・アヴェナ)』によって虚無の魂の一部を世界に露出させる。


『封狂枷柩』から出た時にも同じような状況になっていたが、今回は世界に影響が出ることはない。


ノアが意識的に無の暴走を無に帰させているからだ。


【ノア、何をやっているのですか!自分の魂に穴を開けるような真似を……!】

「心配はいらない。こいつに与える地獄の中でも最も苦しくなる方法を選んだ……その為に、これは必要なことだ」

【し、しかし……!】


アスティリアから声がかかるが、ノアは必要だと言って聞かない。


実際、ノアの取ろうとしている方法は魂を傷つけなければできないものだった。


「───ふっ」


ノアはもう一度『崩壊神撃(ガル・アヴェナ)』を魂に突き立て、穴を開ける。


そして、右手に持っていたグリアノスの魂をその内部に叩き入れ、挑発的に呟いた。


「地獄へようこそ───愚かな狂王」


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


(───ここは、何処だ……?私はあれからどうなった……?)


グリアノスの意識が覚醒し、周囲の状況を確認しようとする。


その時に気づく。


自身の身体が存在せず、魂だけになっているということに。


(死んだ……?いや、だが……)


とりあえずは状況確認が先決だと考えたグリアノスは、魂だけの状態で周囲を探ろうとする。


だが───


(何も……ない……?)


そこには永遠に無が広がっているだけ。


どれだけ遠くを見ても、そこには無しかない。


否、そもそも遠くや近くといった距離の概念すら存在していないのだろう。


文字通り、そこには()()()()()()


(何も見えない、何も聞こえない、何も触れれない……何も、感じない……)


最早自身が今この場に存在しているのかどうかさえ不確定に思えてくる。


そんな、何もない空間が広がっている。


(───私は、生きているのか?)


それにさえ疑問を持ち始め、グリアノスは己の存在すら疑う。


自分は何故この場に存在しているのか。


自分は何故この場で何もできないのか。


自分は何故思考だけを許されているのか。


自分は何故あのような化け物に喧嘩を売ってしまったのか。


自分は何故殺されなかったのか。


自分は何故滅ぼされなかったのか。


自分は何故───


自分は何故───


何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故─────


常人ならこの段階ですでに精神崩壊を起こしている。


グリアノスとて、いつもの状態ならばこの時点で廃人になっているだろう。


だが、今回はそうはいかない。


(く……くぅッ……!)


崩壊しかけた精神が強制的に繋ぎ止められ、正気へと引き戻される。


たった数秒で……否、ここには時間すらもないので、グリアノスの思考速度的に、少し考えただけで魂が根本から狂ってしまうようなこんな場所で、正気でいることを強制される。


(奴は……なんという地獄を……)


正気とは檻だ。


人間は誰しもが正気という名の檻の中にその精神を置いている。


檻の大きさや強度はその人物の記憶や精神強度から構成されるので、人によって正気を保っていられるキャパシティは異なる。


共通しているのは、そのキャパシティを超えた時、檻は破られて精神が狂気に逃げ出すということ。


つまり、狂気に走るということは逃げなのだ。


これは精神や意思を持つ存在ならば人間であろうが神であろうが変わりはない。


当然、グリアノスもそうだ。


グリアノスも例外なく、経験などで正気の檻を形成していた。


問題となるのは、その檻にノアが殺意で以て干渉したということ。


ノアの殺意は狂うという事象を殺し、正気の檻を不可壊のものとした。


その上での、ノアの魂内部の絶対的な無───


グリアノスどころか、あらゆる存在が例外なく狂気に陥る……そんな空間だ。


そんな場所にいるのに、グリアノスは狂気に逃げることを許されない。


正気でいることを強要される。


(はは、ははははは)


まるで狂ったように笑うグリアノスだったが、それは本当に狂ったわけではなく、そう見えるだけの演技に過ぎない。


自分の魂は狂ってしまったのだと、そう考えなければならない気がしていたから。


(ははははははははは、あぁッ!?)


───だが、ノアの殺意はそれすらも許さなかった。


狂ったように見せかける演技をすることで、正気から逃げている───


そんな些細な狂気も、見逃すことはなかった。


(は、あ、あぁ、が、ら、あが、え───)


まともな思考を保つことなどできない。


そんな空間なのに、思考を放棄することを許されないという地獄。


(ぐ、がぁ……は、ははは)


グリアノスはこれから、永劫の時をこの地獄で過ごすこととなるのであった。


正気という名の地獄へ───

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