4.殺意の本質
「ふむ……まああの獣共ではそうなるか」
ヴァンデラの地下、霊域核が保管されていたあの場所で、グリアノスはその一部始終を見ていた。
グリアノスは己の狂気で支配した存在と視覚を共有できる。
数千もいた獣の内の一匹の視覚を通じてその戦闘を見ていたのだ。
「しかし、あの力は私も見たことがないな……神の持っていた権能とはまた違うようにも思えるが……」
グリアノスは意志の権能について何一つ知らない。
あくまでも視覚を共有して見ていただけで、その殺意を感じ取ることもできなかった。
つまり、殺意の権能がどのようなものなのかどころではなく、どうやって獣を殺したのかすらも理解不能なのだ。
「……これを使うつもりはなかったが、念には念を入れておくべきか」
グリアノスは右手を開き、それを見つめる。
そこにあったのは紛れもなく『封狂枷柩』だが、以前とは少し異なっていた。
内部に、何もないのだ。
二日前、エルナと戦った後に取り出していた『封狂枷柩』にはデネスから簒奪した権能の一部が封印されていたのだが、今グリアノスの所持しているものには何も封印されていなかったのだ。
「もう準備は全て整えてある……後は時が来るまで、邪魔者を寄せつけてはならない」
そうして、グリアノスは権能すら封印するその狂気の柩に一つの命令を下した。
「───征け。奴を取り込むがいい」
ノアに対する、新たな脅威が静かに迫っていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
ノアは周囲に振り撒く殺意をどうにか虚無で押し込む。
あの状態では移動するだけで一苦労だ。
戦闘中はあの状態でもいいかもしれないが、その場所へ向かうのが遅れてしまっては本末転倒である。
殺意による世界への影響を完全に消したノアは遂にヴァンデラに入ろうとする。
「この先に奴が……ん?」
その直前で、それを見つけた。
死体だ。
それも、三人分。
「……これは」
全員頭部に何かしらの損傷を負っているが、身体的特徴からして誰か解る。
首を完全に切断されているのはジェラルドだ。
他二人に比べると、ジェラルドは顔を見ればいいので解りやすい。
問題は後の二人である。
そのどちらもが頭部を完全に破壊されており、首から上の原型はどこにもなかった。
体型や服装、近くでジェラルドが死んでいたことからも、この二人がクレスとアルテマであることは間違いないだろう。
「……『青き命の冥光』」
ノアは蘇生魔法を発動させ、三人を蘇らせる。
以前は四人の蘇生で疲弊していたノアだが、八神の権能を全て取り込んだ今となってはこの程度で疲弊することはない。
二日が経った今でも魂は残っていたようなので、蘇生は容易い。
「……ぅ」
やはりというべきか、蘇生後、最初に目覚めたのはアルテマだった。
「私は……ッ!?エルナはッ!?」
「落ち着け、アルテマ」
「き、君は……ノア君か……」
理由は何であれ、アルテマもエルナのことをかなり心配しているようだった。
「そうか……私は、また死んで……」
すぐに状況を理解したのか、アルテマはノアにその事実を伝える。
「ノア君がグラエムを去ってすぐ、グリアノスが現れたんだ……ジェラルドとクレスは瞬殺され、私とエルナで応戦したが……」
勝ち目などなかった。
二人はこの世界では最強格の存在だが、グリアノスには遠く及ばない。
戦闘の後にアルテマは殺され、エルナは連れ去られたのだろう。
「ある程度は解った……後のことは全て俺に任せて休んで……」
休んでいろ……そう言おうとした瞬間に、それに気づく。
ノアとヴァンデラの丁度中間辺りに、指の先程度の立方体が浮いている状態で存在していることに。
「あれは……?」
少し遅れてアルテマもそれに気づき、謎の箱に眉を顰める。
「───アルテマ」
「なんだい?」
「二人を連れて下がっていろ」
ノアはその箱に対し、不吉な予感を感じていた。
少なくとも、先程までいた獣達とは比べ物にならないというレベルの脅威を。
(何だ……?あの箱……)
まるで本能が警鐘を鳴らす感覚。
ノアの持つ、虚無と殺意以外の権能……八神の権能が、あれには触れてはいけないと感じている。
(……早々に破壊すべきか)
数秒の後、そう判断したノアは右手を突き出して虚無を集中させた。
「……『空虚灰砲』」
その魔法は『空虚斬滅』の遠距離版と言っても差し支えないだろう。
抵抗もしないただの物質如きでは粒子一粒とて残ることはなく無に帰す。
その灰色の砲撃を受け、その箱は───
「ッ!?」
『空虚灰砲』を───吸収した。
「……何故だ?」
虚無すらも吸収できるというのだろうか、あの箱は。
(これは……まずいな)
あの箱を消し去る為には相応の力を出さなければならないだろう。
ただ、そうすればノアの背後にいる三人も巻き込んでしまう。
少しずつ離れているとはいえ、アルテマもたった今蘇生されたばかりだ。もうしばらく時間はかかる。
あの箱相手には八神の権能は通用しないと見ていい。
ならば使えるのは虚無と殺意だが……
「……最低限のリスクで……可能な限り巻き込まずに使うか。『無の混沌』」
本来身体に纏う防御の魔法を一点集中して攻撃に転用。
空間そのものが神格を持っていた地底世界の外殻すらも抵抗なく消滅したものだが……
「これでも、無傷……」
これ以上の強さの魔法で遠距離攻撃が可能なのはアルテマ達でさえ巻き込む。
残るは近接で使える魔法や『光の剣戟』、殺意の権能ぐらいだが……
「───いや、違うな」
ノアは何を思ったのか、何の魔法も展開せずにその箱へと近づいていく。
ノアはそれがどういう存在かを知らないが、危険であることは権能が教えてくれている。
それでもなお、歩みを止めることはない。
「───何が最低限のリスクだ。周囲への影響を与えない方法ならいくらでもあるだろう」
ノアの根幹は虚無。
であるならば全ての影響を無に帰させることなど容易くできるはずだ。
実際、前世はそれを行っていたのだから。
「……『混沌災禍』」
そうしてノアは自身の周囲に灰色の渦を展開。
この渦に触れたものはその一切が存在の根底を乱され、実質的に無条件で滅び去る。
当然許容できる限界もあるわけだが、これまでこの魔法でも対処できない存在はまずなかった。
唯一無理だと解っているのは『壊滅の源弾』程度だ。
それを使用するのはアルファルドであり、グリアノスはアルファルドよりも確実に弱い。
そのグリアノスによって造られたものならば、きっと今のノアでも対処することは可能のはず。
「さあ───お前は何だ」
箱と渦が接触する。
渦はまるでヤスリのように箱を含めた周囲の地形を抉り取っていき、削れた箱からは有り得ないほどの狂気がどっと溢れかえった。
「っ……凄まじいな」
狂気の総量はノアの想定を超える。
現状溢れている分から推定できる限りでも『混沌災禍』の八割近いだろう。
しかし力の種類が異なる為か、狂気は『混沌災禍』と完全に相殺されることはなく、余波が全方位へと拡散した。
「チッ……!」
ノアは『混沌災禍』の対象を自身からその箱そのものへと変更。
渦の力の向きも逆にし、箱を全方向から圧縮するように無を放った。
だが、そこでノアの想定外の事態が起きる。
「ッ!?」
対象を切り替える瞬間……その刹那にも満たない一瞬の隙に、箱がその場から消えたのだ。
『混沌災禍』の渦は何もない空間を攻撃し、すり抜けた箱はノアの目の前へ。
咄嗟にノアは対処しようとするが、それすらも僅かに間に合わない。
箱はノアが動く前に光速以上の速度でノアへと突進し、その心臓付近に突き刺さった。
「しまっ───」
箱から狂気が爆発し、ノアの魂を完全に覆う。
魔法を発動させる余裕もない。
その箱は権能を封印する為にグリアノスによって造られた『封狂枷柩』。
その封印の効果が───今、発動する。
「くッ───!?」
ノアの身体が軋み始め、その直後に手足が有り得ない方向へと曲がる。
周囲に血飛沫が舞い、ノアの肉体が死ぬ。
ノアの身体は神すらも傷つけるのが難しい程頑丈であり、それを容易く壊す『封狂枷柩』の力はあまりにも異質だった。
やがて身体は原型をなくし、そこに残ったのはただの肉塊だった。
更にそれすらも圧縮されるように押し潰され、最終的にノアの身体は完全に消滅する。
残ったのは周囲に舞った大量の血飛沫とノアの魂が幽閉された『封狂枷柩』のみだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
(チッ……不覚を取ったか……)
狂気で充満する闇の中、ノアは魂だけの状態で存在していた。
『封狂枷柩』の力はあくまでも『権能をはじめとした力の封印』だ。
故に身体はなくなっても魂にまで干渉はされていなかった。
(無事なのはいいが、問題はここから出る方法か……)
封印する為に造られたものの中から自力で脱出するのは難しい。
それが『封狂枷柩』のような、権能を封じるものであったなら尚更だ。
少なくとも八神の権能ではどうすることもできないだろう。
となればここから脱出する鍵となるのは虚無か殺意。
このどちらか、あるいはどちらもを上手く使えば出られる可能性は十分にあると言える。
(……殺意、か)
ノアが覚醒させたその権能は、ノアにすら真価が解らない。
力を押し付けられた存在がほぼ無条件に死ぬということは解るが、そこに至るまでの理屈に関しては現状では誰も知らないのだ。
何を以て『死』と定義するのか、何故存在そのものが『死』を迎えるのか。
現状、ノアは計算式が解らないのに答えだけを知っている状態だ。
そんな状態では力を上手く使えるはずもなければ、応用を利かせることもできない。
それどころか理由も知らぬまま扱い方を間違え、権能の矛先が自身に向かう可能性すらある。
この力をこのまま使い続けるのは危険極まりないのだ。
(時間はかけるな。なるべく早く、殺意の権能……その真価を見つけ出す……)
それができなければここから出ることも難しいのだから。
虚無でも対抗できないわけではない。
ただ、虚無はノアが生来から持つ権能。
完全に扱える状態ではないとはいえ、現状持つ力で『封狂枷柩』に対抗できるかというのは察することぐらいは可能だ。
今のノアでは八割がた不可能だろう。
正確には、脱出そのものは可能でも、脱出後も荒れ狂う虚無を抑えきれずにグラエムそのものが吹き飛んでしまいかねない。
そうなればエルナを救うどころの話ではなく、ノア自身の力でエルナを滅ぼしてしまう。
神域や深層羅神を使用できるのなら話はまた変わるかもしれないが……あれらは条件を満たさなければ使えない。
その条件こそが静滅銀刀の顕現だ。
だが───
(だが、静滅銀刀は今は使えない)
───それにすら条件がある。
それも当然だ。
根源神装を扱うには理力が必須。
そして今のノアは根源神装を介さなければ理力を扱うことができない。
ここが噛み合わないのだ。
故にノアは普通の状態では静滅銀刀を顕現させることすらできない。
方法がないわけではないのだが、それをするには時間を含めた何もかもが足りていなかった。
つまり簡潔に言うと、今の状況では虚無の権能やそれからなる力は使えないのである。
頼れるのは殺意の権能のみ。
しかし殺意の権能の力を引き出す術を、ノアはまだ見つけられていなかった。
(殺意の権能からなる魔法はこれまでの概念系統の権能とは根本から異なることは理解できている。それはいいんだ。問題となるのはそれを探る時間がないこと。俺の虚無は時間を無にすることはできても、引き伸ばすことはできない)
虚無と無限は真逆の概念だ。
ノアが今欲しているのは無限による力。
虚無を持つノアはそれを得ることはできない。
であるならば可能な限り短時間で殺意の権能をより深化させ、その魔法を開発することが第一優先だ。
(殺す、か……今この状況から考えて、最も殺さなければならないものは何だ。対象を選定し、その上でより力を深化させるには……)
通常の権能の深化ならノアであれば簡単にできる。
実際これまではそうだった。
だが殺意の権能の類する『意志の権能』はまた違う。
その方法を見つけるのがあまりにも難しいのである。
(……『意志の権能』と、殺意……意志であるなら、まさか……?)
ノアは一つだけ方法を考えつく。
殺意の権能は意志の権能という枠組みに含まれる。
虚無の権能が世界の根幹に多大な影響を与える概念の権能という枠組みであるように、殺意の権能は絶大な意志が力を持ったものなのだ。
虚無を含めた通常の権能は世界への影響がより大きい程、その力を増す。
虚無からなる矛盾が他の追随を許さないレベルのものであると考えると解りやすいだろう。
(意志が世界に影響を与える……それ自体は間違いではなさそうだが、力をより深化させるとなれば話は別か……?)
殺意は意志の一つでしかない。
であるならば、一つの仮説が立てられるはずだ。
(───もし仮に、権能の強さが意志の強さと比例するなら?)
意志が強くなればなる程、その権能の力も増していくのだとするならば。
(そうだったなら、より強く殺意を抱くことが重要になる──?)
それが正しいのだとすれば───
(───だったら)
ノアはエルナと共に過ごした年月を改めて思い起こす。
そしてその後、今エルナが置かれている状況を考えた。
(っ───)
湧いて出るのは怒りと殺意。
それをしっかりと確かめたノアは、意志の権能について完全に理解する。
(そうか……そういうことなのか)
それを理解した瞬間、ノアは権能を深化させる方法を含め、考えることを放棄する。
思考を捨て、何も考えず、ただ殺意に溺れる───
(───殺す)
殺意の権能の本質は『存在の拒絶』。
元からある生死に関係なく、ノアが『殺したい』と考えたその存在を否定する。
否定……それはすなわち、拒絶。
拒絶された存在はどんな状態であろうとも一方的な『死』を押し付けられるのだ。
そしてその状況を作り出す為に必要なのは───性質さえも塗り替える殺意。
ノアの根本的な性質は基本的には善性だ。
そんな状態では殺意の権能を上手く扱えるはずがない。
善意と殺意は正反対というわけではないが、対極に近い位置関係にある。
ノアが己の善性を捨てない限り、殺意の権能の本質に触れることはできない。
だからこそノアは世界の救済などという、少なくとも今は無駄となる思考を殺意で埋め尽くす。
グリアノスへの憎悪で気が狂いそうになる程、ノアの殺意は高まっていた。
(殺す───お前だけは、俺が絶対に殺し尽くしてやる)
爆発的な殺意がノアの思考を塗り替え、その先に一つの終着点が見えた。
ノアは頭ではなく、魂でそれを理解する。
そして、それに突き動かされるまま───それを発動した。
(───『絶殺』)
これが、殺意の権能の原点───
黒い靄のようなものがノアの魂を覆い、その外側の狂気で埋め尽くされた空間をノアは拒絶する。
その存在を許さない……存在している限り、必ず殺してやると言わんばかりに。
黒い斬撃が周囲に迸る。
それは先程大量殺戮した獣達に与えた斬撃とは比べ物にならない程の効果を誇り、文字通り空間そのものを殺した。
黒い殺意に当てられた狂気の空間は次第に崩壊していき、罅割れた箇所からは白い光が差した。
(───『死ね』)
そうして───空間が完全に崩壊した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
ヴァンデラからそう離れていない焼けた地に浮いていた『封狂枷柩』。
それが内側から破壊され───否、殺される。
ノアの封印を近くで見ていたアルテマは、ノアが封印を圧倒したであろうと安堵し───そして凍りついた。
ただ近くにいるだけで、喉元に刃を突きつけられているような感覚。
そう錯覚する程の殺意。
(あれは、一体───?)
『封狂枷柩』が完全に殺され、不可視の球体が中から現れる。
それは虚無で構成されたノアの魂だ。
そして、それを殺意が覆っている。
アルテマの目には何も見えていない。
虚無は存在しないものと同義であるが故に見えない。それはこれまで通りだ。
だが、殺意は───
(見えはしないけれど……黒、い……?)
殺意は虚無と同じく、不可視だ。
意志など人の眼に見えるはずがないのだからそれは当然とも言えよう。
だがこの殺意は普通ではない。
不可視でありながら、どこか黒く感じる───そう、錯覚するのだ。
(───)
ノアの魂は何も言葉を発さない。
そして───ノアの魂が空間に解き放たれたことで、世界に異常が起き始めた。
「ッ!?何が!?」
我に返ったアルテマが周囲を見渡す。
界滅爪が世界から抜かれた時と同じように……世界そのものが震えていたのだ。
ノアの魂は虚無そのものであり、完全に世界に露出している状態だと『存在しているのに存在していない』という矛盾で世界そのものを滅ぼしてしまいかねない。
その影響が世界に出てしまっている。
(───『殺せ』)
だが、ノアが持ち得るのは虚無だけではない。
増幅されたノアの殺意は、虚無からなる矛盾すらも殺す。
ノアの意志一つで矛盾による世界の崩壊が止まり、正常を取り戻した。
当然虚無を押し殺す殺意にも上限はある。
殺意は虚無ではない。無とは違い、上限は確実に存在している。
だが、それはまだこのレベルではなかった。
ノアですら知り得ない程、上限が高すぎるのだ。
(───『死せ』)
ノアの身体が『封狂枷柩』に潰された時とはまるで逆再生のように元に戻っていく。
何もないところから骨や臓器が現れ、それらが繋ぎ合わされていく。
その光景は最早悍ましいとまで言えるだろう。
実際、それを見ていたアルテマは顔を青ざめていた。
「───」
やがてノアの身体が完全に元に戻る。
ノアは今、再生の権能をはじめとした八神の権能は何一つ使っていない。
では、どうやって身体を蘇らせたのか───
答えは簡単だ。
殺意の権能の本質が存在の拒絶であることを踏まえると、答えは自ずと出てくる。
そう、死という概念を拒絶したのだ。
殺意の権能は、文字通り死すらも殺すのだから。
「ノア、君……?」
アルテマが恐る恐るノアへと近づく。
ノアが封印されていた時間は数分程度。
まだクレスとジェラルドは目覚めていなかった。
ノアとアルテマの視線が交わる。
「───」
「ひっ───」
ノアの眼を見たアルテマの喉からは恐怖で怯えた言葉にもならない声が出る。
ノアの瞳はまるで死者のように澱んでいたのだ。
『封狂枷柩』の中で殺意に溺れたのが原因だろう。
「───ああ、アルテマか。どうした?」
意思疎通は正常にできている。
だがアルテマの恐怖は消えない。
声色は変わらず、抑揚もおかしい所は何もない。
それなのに、命を脅かされているような……そんな恐怖がずっと消えなかった。
それが何故かは明白だ。
アルテマはグリアノスのものとはまた違った狂気をノアから感じたのだ。
それはまるで、殺意によって狂ってしまったかのよう。
言動を間違えればその瞬間に殺されるような、そんな恐怖がアルテマを支配していた。
「ほ、本当にノア君……なんだね……?」
封印される前の段階ですら以前会った時とどこか違うとはアルテマも思っていた。
だが、今のノアは数分前とも比べ物にならない程変貌してしまっている。
(彼の優しい部分が、消えてしまったような……)
ノアの意志の本質は善意だった。
それが殺意で塗り替えられたのだから、当然ではあるのだろう。
「俺は俺だ───まあ、今はちょっと特殊な状態になってはいるが、そこが揺るぐことはない。だから安心していい」
「……だったら、安心できるようにしてくれないかい……?今私は君に恐怖している……理由は解るだろう?」
「ああ、そういう……少し待ってろ」
アルテマはどうにか恐怖を誤魔化しながら会話を続ける。
ノアは今、自身がどういう状態なのかを理解し、飽和して溢れていた殺意を抑えていく。
それを数秒するだけで周囲への影響がない程度には抑えることができていた。
(元に戻ったわけではないけれど……少しはマシになったかな?)
アルテマの恐怖も大部分か和らぐ。
完全に消えたわけではないが、この程度なら会話に支障は出ないだろう。
「……うん、これなら怯えずに話せるよ」
「悪かったな、殺意が溢れすぎていたみたいだ」
アルテマはエルナとノアの関係を大まかにではあるが把握している。
ヴァンデラにノアが現れるよりも前にエルナから話を聞いていたのだ。
故にノアの言う殺意というところに納得していた。
「君とエルナの関係は師弟や親子に近いそれだったらしいね……君の抱く殺意も理解できるよ」
「……そう言ってもらえると助かる」
相変わらずノアの瞳に光はなく、殺意で濁っている。
だが、その本質まではそう大きく変化しているわけでは内容だった。
大部分が殺意に支配されているものの、善性が消えたわけではないというのがアルテマにも解ったのだから。
「君はこれからエルナのところに行くのだろう?」
「ああ……そして、奴との決着をつけてくる」
「っ───!?」
グリアノスのことを考えた瞬間、殺意が増幅する。
一瞬だったとはいえ、アルテマは確かにそれを感じ取った。
その一瞬だけでアルテマの恐怖が戻り、大量の冷や汗をかいていた。
「……悪い、まだ完全に制御しきることはできないみたいだ」
「い、いや……大丈夫だよ……ここにいる存在で意識があるのは私だけだから、他に影響はないだろうし」
焼け野原のようになったこの周囲に人気はない。
局所的に開放された殺意はそう遠くまで影響を与えているわけではないだろう。
「そ、それよりも……勝ち目はあるのかい?」
アルテマは冷静になり、再度問いを投げかける。
「……グリアノスだけならほぼ間違いなく勝てる。だが、奴の目的が達成されてしまったら……解らない」
「そう、か……」
アルテマはグリアノスの目的を知らない。
だが、その問答をしている時間まではないであろうことは予測できていた。
「……私が行ってもきっと無力だ。だから、君にお願いするよ……エルナを、絶対に連れ戻してほしい」
それは霊王としてではなく、エルナの友人であるアルテマ個人としての願い。
だからこそ、ノアは───
「ああ、必ず」
それだけを残して、ヴァンデラへと向かった。
善性を塗り替える殺意───




