3.狂気の番犬
エルナがグリアノスに捕われてから二日程経った頃。
オルテア山脈を木っ端微塵にして、ノアが地底世界から瞬時に地上へと戻る。
その速度は現状のノアが出せるトップスピードであり、光速を超えていた。
グラエムまで数秒もかからずに到達し、グラエムを覆っている結界も虚無であるノアは素通りするかのようにすり抜ける。
力こそ戻っていないが、虚無の権能の使い方は記憶の戻った今のノアなら熟知していると言っても過言ではない。
だからこそ、あの時できなかった結界の素通りが今ならできてしまうのだ。
「っ……」
グラエムに入ったその瞬間、ノアは気づく。
ヴァンデラ付近の街が焼失してしまっていることに。
「もう動いたのか……?」
少なくとも四王に渡していた石と分身からは何の情報もなかった。
ここまでの状況になっていて、あの四人がまだ行動に移していないというのは考え難い。
それはつまり、連絡する余裕もなくやられてしまっているということ。
「もう……始まっている」
ノアの危惧していた出来事が全てもう起こり始めている。
間に合うかどうかは今のノアには解らない。
可能な限りヴァンデラへ急ごうとして……ノアは直感で横に飛んでいた。
「ッ!?」
先程までノアのいた場所が、まるで空間ごと抉れるようにして破裂した。
「今のは……」
殺気を感じ取る。
殺意の権能に目覚めた今のノアは、それ以前よりも敵の放つ『殺意』や『殺気』に敏感だ。
このグラエムにおいて、ヴァンデラの次に高い建築物……その頂上に、それはいた。
「───」
獣だ。
人間よりも少し大きい程度の、紫色の体毛をした獣。
特徴はグリアノスがエルナと戦った際に召喚していた魔法によって構築された『害過の狂獣』に酷似している。
だがあれはグリアノスの魔法によって一時的に魔力を変質させ、顕現させていたに過ぎない。
つまりあれは生命体ではなく、魔法なのだ。
それなのに、今ノアを見つめているその獣は明確な命の鼓動があった。
「……今の攻撃はお前か」
獣は身体を動かすことなく、まるで影に溶け込むようにして瞬時にノアの目の前へと現れる。
(……なるほど。ある程度予測はしていたが、グリアノスの属性は間違いなく『狂気』だ。その狂気によって普通の獣を変貌させたのが、今目の前にいるこいつなんだろうな)
特徴から考えて、この獣も最初は普通の犬や狼だったのだろう。
このような姿になり、狂気をある程度操る……それは全てグリアノスが元凶であるというのは間違いない。
少なくともこの獣は反転の試練の後にノアが戦ったグリアノスの幻影よりは力を持っている。
つまりグリアノス本人は最低でもこの獣の数倍は強いはずだ。
ノアはグリアノスの実力を八神一人分程度だと考えていたが、どうやらその認識を改める必要があるらしい。
(グリアノスは……かなり強い。擬似神装、神域、深層羅神を使ったとしても、ヴェレイドでも勝てるかどうかというレベルか)
つまり、八神が複数人いなければ最早勝負にすらならない。
今のノアはヴェレイドよりも多少強いとはいえ、それはグリアノスもまた同じだろう。
ノアと戦った際のヴェレイドは『終焉彩色』という新たな手札を使っていたという点はあるが……そもそも彩色は相手の神域が展開されていなければ話にならない。
偶然ノアが生み出した、対神域用の手札だ。
神ではないが故に神域は使えないであろうグリアノス相手では無意味に等しい。
「───!」
獣が遠吠えをする。
その行動により、内包する狂気が数倍単位で膨れ上がった。
その魔力も何かを介して供給を受けているのか、まるで底が見えない。
(……グリアノスから魔力と狂気の供給を受けている……と見るべきだな。とはいってもグリアノスにも底はあるはず。見えないのは一度別のものを経由しているからか?)
この時点でのノアはまだ知らないが、『封狂枷柩』による権能の封印は、封印している間は永遠に魔力を消費し続けることとなる。
更にいえば効率も悪く、ただ流しているだけでは無駄に大量の魔力を吸われてしまうのだ。
グリアノスがこの欠点に気づいていないはずもなく、無駄に吸われた魔力を流用してこの獣に流しているというのが真実だ。
つまり、この獣は『封狂枷柩』を介してグリアノスから魔力の供給を受けているのである。
「……まあ何でもいい」
ノアは新たに得た殺意の権能の力を高める。
次の瞬間には光速で獣に接近し、その腹部に強烈な打撃を与えた。
そう───殺意の権能で、触れたのだ。
殺意の権能は存在を『殺す』ことに特化している。
その先にあるのは『死』だ。
魂の『滅び』ではない。
『死』と『滅び』は似ているようで全くの別物。
死とはあくまでも肉体の生命活動が停止することであり、魂については一切関与していない。
だからこそ、ただ死んだだけなら魔法によって蘇生することが可能なのだ。
逆に、滅びこそがその存在の真の意味での終わりを意味する。
蘇生魔法における魂とは情報の塊であり、魂に刻まれている情報を読み取って肉体を再生させるのである。
それがどういう意味なのかは明白だろう。
魂が滅びてしまえば蘇生するための素となるその生命の情報源が消失するのだ。
情報もなしに生命を蘇らせることは不可能。
創造の権能なら新たに創り出すことは可能かもしれないが、それは他人が滅びた存在に寄せて創っただけの全くの別人である。
更に言うなら、その方法では記憶を引き継ぐことができない。
追憶の権能と創造の権能を同時に使えるノアであるならば記憶はどうにかなるかもしれないが、本人しか知らない魂の根幹部分はどの権能であったとしても、どうしても再現することが困難なのだ。
つまり、その存在を確実に消し去る為には魂を根底から滅ぼすことが重要なのである。
だが───殺意の権能であるならば話は別だ。
この権能に殺された場合、その存在は永久的に殺される。
それが意味するのは───
「───死ね」
次の瞬間、ノアが触れた部分に小さな斬撃が発生する。
それによって刻まれた傷は精々皮膚を切り裂く程度であり、普通ならば命に届くはずもない。
───あくまでも、普通ならば。
「───」
突如として、獣が地に伏す。
その生命活動は当然の如く停止しており、蘇る気配すらもなかった。
「これが───俺の殺意だ」
殺意の権能の本当の力。
それは敵に蘇る隙すらも与えずに『殺す』というもの。
この力の前では、最早生きている、死んでいるという状態すら意味を為さない。
この権能が与えるのは紛れもなく『死』だが、その影響は力を叩きつけられた存在どころか、この世界……ひいてはあらゆる世界にも及ぶ。
そもそもとして『意志の権能』という力の形態がこの世界に存在していなかったのだ。
この力の真価に、全ての事象の対応が追いついていない。
つまり、ノアの操るこの殺意は───その存在そのものの死を確定させる。
例え、それが初めから生きていなくとも。
生きていようが死んでいようが、物質だろうが概念だろうが……その全てを殺せる。
その力の影響は虚無の権能を除き、あらゆる世界で優先される。
「……」
死した獣をノアは無感情の瞳で見つめる。
「……まだ、いたのか」
直後に現れる大量の殺気。
力の総量からして、死んだ獣と同等の獣が潜んでいる。
その数は数千はくだらないだろう。
それだけの数の獣がノアを取り囲むようにして視線を向けていた。
「───良いだろう。全部、俺が殺してやる」
圧倒的な殺意の蹂躙が、この瞬間に始まった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
大量にいる獣の中の数匹がノアへと向かって特攻する。
その速度は音速を遥かに超えており、周囲に甚大な影響を及ぼしていた。
「はぁ……衝撃波ぐらい消して動けよ」
街が容赦なく破壊されていることに対してノアは顔を顰める。
基本的に速く動く存在は周囲への影響を考えて、その速度によって発生する衝撃波を各々の能力で消すのが基本だ。
ノアも例に漏れず、虚無によって衝撃をそもそも発さないという選択を取っていた。
だが今回のノアは一歩も動く様子がない。
数匹の獣が徐々に迫るが、避ける必要などないと言わんばかりにその攻撃を待っている。
「───遅い」
光速で動く戦闘が当たり前になっているノアにとって、獣達の動きは途轍もなく遅く感じられる。
待つのすら面倒だと感じたのか、ノアはゆっくりと右手を横に振った。
その瞬間、獣達の前に現れたのは不可視でありながらもどこか黒いように感じられる謎の斬撃だ。
その斬撃は獣達の皮膚を浅く抉り、そのまま殺した。
これが魔法を使わない、殺意の権能の基本的な使い方だ。
殺意の権能はノアが新たに開発した意志の権能の形態であるため、これまで通りの魔法の使い方では上手くいかない。
故に、今ノアが使えるのはこの権能による小さな斬撃のみだった。
だがそれですらも目の前の獣達には強すぎる力だ。
当たれば即死かつ蘇生は不可能。
どこか黒いと認識はできるが、それは視覚情報ではない感覚によるものであるため躱すことも困難だ。
否、それどころか獣達に躱せる代物なのか……
斬撃は獣達のいる場所に発生した。
斬撃を飛ばしたわけでも、設置されていたわけでもない。
その場所に現れたのだ。
まるで、獣達の命そのものを照準にしたかのように。
「命を奪う必殺の斬撃、か……」
ノアはどのようにして魔法を開発するかを少しだけ考えて───その思考を放棄した。
「───そんな暇はないな。早く来い、獣共。お前らの命を蹂躙し尽くしてやる」
その言葉と共に発せられた殺意は、ノアに近づこうとしていた百匹以上の獣を問答無用で死に追いやる。
そこには斬撃すらなく、ただの殺意のみで命を奪ったのだ。
(残りは……大体3000体程度か。どうにでもなるな)
これ以上殺意の及ぶ範囲を広げてしまうとまだ生きているグラエムの住人すら殺しかねないので、殺意の放出で殺すことは控える。
代わりに、自身の周囲に大量の浅い斬撃を発生させ、街を細かく切り刻んだ。
「強いが……扱いは難しいな。アスティリアがいなければこれが暴走していたと……恐ろしい話だ」
殺意の権能は例え生命を宿していない存在だろうと関係なく殺す。
それは当然、建物のような非生物であろうとも同じだ。
だからこそ、ノアは発生させた斬撃の中でも獣を切り裂かなかったものは殺意から除外する。
これは虚無によって殺意をある程度制御できるようになって初めて成功するやり方であり、アスティリアがそのように虚無を改変していなければそれすらも不可能だった。
「───」
「───」
「───」
まるで斬撃が周囲を探査するかのように街中に迸り、秒間に数十匹という数の獣が殺されていく。
「───」
「───」
「───」
斬撃に触れてしまった獣はただ一つの例外もなく、瞬時にその命を永久に落としていく。
「───」
「───」
「───」
そんな状態が数十秒続き、やがて獣はグラエムから完全に淘汰された。
周囲の建物は破壊されてもいなければ、権能で『殺され』てもいない。
表面に無数の傷はできているが、たったそれだけである。
「……この獣達も、奴の狂気によって歪められたのだろうか」
直接命を奪ったのはノアだ。
しかしそうするしかなかった状況を作ったのはグリアノスである。
「───どちらが悪いかという話をするつもりはない。お前達はただ、死の先にある覚めることのない夢を、永遠に見ているといい」
ノアは死んだ獣達を一瞥し、再度歩を進める。
その一歩一歩には殺意が込められており、ノアの周囲数メートル以内の存在を無差別に傷つけた。
(まだ、制御が完璧じゃない……どうにか方法を見つけなければ、最終的には世界を殺してしまいかねない)
第一目標は四王……特にエルナを守ることだが、これに関してはもう遅い。
ノアもそれは理解している。
ならばこの状況で最優先にすべきなのはエルナの救出だ。
神の権能を宿した獣など、被害はエルナだけに留まるはずがない。
最低でもグラエムは完全に滅びると考えていい。
ノアにとってエルナは家族のような存在でもあり、身内を特に大切に想うノアからすれば第一の理由はそれだ。
そして同時に、グラエムの住人のことも死なせてはならないと考えている。
「───グリアノス」
エルナを救う為にグリアノスのことだけは確実にこの殺意で以て殺さなくてはならない。
その感情が大きくなると同時に、ノアの纏う殺意の斬撃がより細かく、激しくなってく。
それはまるで、ノアの怒りと殺意を世界に証明するかのように。
ノアが示す、殺意の証明───




