34、すれ違いを説く?
◆すれ違いは説けて
── 20歳になったセレンは、誤解から帝都から逃げ出した ──
ある秋の午後、ぼろぼろの旅装束に身を包んだ1人の男が農場を訪れた。
風雨に晒された服装だが、その佇まいにはどこか気高さが残っている。
髪は空色、瞳は碧。長旅に疲れた様子だが、その背筋はしゃんと伸びていた。その瞳は鋭く農場を見渡した。
「すみません、水を1杯いただけませんか、それと、もしできたら一夜の宿を……」
コバルトが家の前で対応に出た。
「それと……ついでといっては何ですが……この辺りで若い女性を見かけませんでしたか?」
旅人はコバルトに尋ねた。
「黒髪に赤い瞳で、動物に好かれると言われているのですが……」
ふと、男の視線が畑でタンタルと一緒に野菜の種をまいていた女性の背中に釘付けになった。
シルバーは、言葉を失って彼女を見つめた。髪色こそ明るい茶色だが汗で首筋に貼りつき、膨らんだ腹を支えるように腰に手を当てて立ち上がるその姿 ──
「……セレン?」
声が震えた。
セレンはその声を聞いた瞬間、凍りついた。半年間聞かなかった、しかし忘れられない声。
まさか?
鍬を握る手を止めたセレンは、ゆっくりと顔を上げた瞬間、時間が止まったように感じた。
目の前に立つのは、確かにあの皇帝、シルバーだ。しかしかつての威厳ある姿からは想像もできないほど憔悴し、服は擦り切れ、靴は泥にまみれていた。
くすんで土埃に塗れているが空色の髪。
碧い瞳。
「どうして……ここまで」
彼女は急いで隠れようとしたが、時すでに遅かった。マーキュリーが警戒してぐるると低く唸った。
痩せた頬。それでも美しく輝く赤い瞳。
皇帝シルバーは、泥だらけの靴のまま、セレンに向かって歩き出していた。
セレンは思わず後ずさりしたが、重い身体が思うように動かない。
「逃げるな」
マーキュリーが低く唸ると、シルバーの前に立ちはだかった。
「マーキュリー、下がれ」
シルバーの声は静かだが、威厳に満ちていた。黒豹は一瞬ためらったが、やがてきゅんきゅんと鳴きながら道を開けた。
「セレンを探して」
シルバーの声はかすれていた。
「この半年、帝国中を、そして周辺国境まで……それでも、セレンのいない世界など考えられなかった」
「どうやって……?」
「動物の病気をいち早く見つけ、黒豹を常に連れた女性の噂は、山の麓の街まで広がっていた」
シルバーは疲れ切った笑みを浮かべた。
「宰相が『皇妃は離宮で静養中』と国民に説明してくれたおかげで、表向きは問題ない。だが、私は半年間、帝国中を探し回っていた」
「シルバー様……でも、なぜ?……」
シルバーの声は震えていた。
「セレンこそ、なぜ逃げたのだ?」
タンタルとコバルトは、状況が理解できずにいた。セレンが「リン」ではなく、何者かであることを感じ取り、そっと家の中へ退がった。
「陛下こそ、なぜですか……」
「なぜか?」
シルバーの声に初めて感情の波が走った。
「なぜだと思う? 私の妻が、私の子どもを身ごもっていたとは知らなかったが、何の説明もなく消えたのだぞ」
セレンは震える声で言った。
「約束でした」
セレンは俯いた。
「3年で別れるという ──」
「違う!」
シルバーは1歩踏み出した。
「あの時点で白い結婚は成立していました。だから、離縁は正当な……」
「セレン、君は完全に誤解している!」
シルバーの叫びに、セレンははっとした。
「セレン、聞いてくれ。帝国の法律では、20歳未満で結ばれた婚姻には、無効猶予期間がある。20歳になる前に、双方が望めば婚姻を解消できたのだ」
シルバーはさらに1歩近づき、少し汚れて荒れた手でセレンの頬に触れた。
「だが、20歳未満での婚姻解消には、特別な条件が必要なんだ。不貞、虐待、賭け事……そういった明確な理由がなければ、離縁は認められなかった。
だから、本当ならセレンをあの小屋に追いやっていた時点でも、品質維持費が届いてない横領でも、充分離縁できる理由はあったのだから」
セレンは目を見開いた。
「……え?」
「本来の白い結婚の条件とは、20歳以上になって初めて、本当の夫婦としての関係が始まるのだから。それ以降の2年以上の期間のことなのだ」
シルバーは必死に説明した。
「では、白い結婚は……」
「その白い結婚が成立しなかったからだ! 離縁申請書の手続きは、正式には受理できないと。セレンは既に20歳になったばかりだった。白き結婚の申し立ては……そもそも、我々の結婚は白い結婚などではなくなったのだから」
セレンの目が大きく見開かれた。
「あの夜、お前が神殿へ白い結婚の申請書を請求した後、私は全てを調べた」
シルバーの碧眼が潤み、声に初めて切なさがにじんだ。
「あの夜、私は……私たちは、確かに結ばれた。それは紛れもない事実だ。神殿に提出された書類は、単なる問い合わせに過ぎず、正式な申請には不備が多すぎた。だから差し戻されたのだ」
セレンは言葉を失った。
半年間、自分は離縁が成立したと信じ、逃げ続けてきた。
その思い込みが、全てを台無しにしたのか。
「でも……私は」
「セレン」
セレンの唇が震えた。
「でも……私は、お飾り皇妃です。政治にも外交にも役に立たない……血筋も、立場も ──」
「そんなことはない」
シルバーの声は強くきっぱりと、温かかった。
「私は何度でもあなたに謝り続けなければならないようだ。セレン・フレロビュム・マイトネリュム。私は愚かな皇帝だ。3年前に、あなたを冷遇し、悪女だと信じ込み、黒いベールの下の素顔さえ見ようとしなかった」
シルバーの声が柔らかくなると、彼はセレンの前にひざまずいた。
「だが、ベールを外したあなたを知り、疫病と戦い、そして私の命も毒殺から守ってくれていたあなたを見て、私は変わった。そして気づいた。ずっと前から、あの黒豹を救ってくれた少女のことを、忘れられなかったのだから」
マーキュリーはとうとうシルバーの足元に擦り寄ると、キュンキュンと甘えるように鳴いた。
「私はセレンに、ずっと伝えたかった。あの日、追われていた私を救ってくれた少女が君だってこと。17歳で嫁いできたセレンが、あの時の少女だとわかった時、どれほど嬉しかったか。それなのに、ずっと側にいる皇妃だったのだと気付かずに傷つけ続けた」
老夫婦は状況を察し、そっと場を離れて家の中へと消えた。2人だけの時間を作ってくれたのだろう。
「セレンはこの帝国の光だ。孤児院を改革し孤児たちに希望を、貧しい人々に働き場所を与えた。動物と心を通わせ、異国の言葉を理解する。セレンの知恵と慈愛が、帝国を変え始めている。
そんなセレンをもう『お飾り』や『悪女の皇妃』など呼ぶものは、この帝国には誰1人としていない。彼らはセレンを『聖女』と呼び、帰りを心から待ち侘びている」
涙がセレンの頬を伝った。
「でも……でもシルバー様は、1度も愛していると言ってくれなかった。おまけに皇女殿下のことや、テルル様のことが ──」
「フローリン皇女は画家だ!」
シルバーはセレンの手を握った。その手は農作業で荒れ、小さな傷がいくつもあり少し荒れていたが、温かかった。
「フローリン皇女は画家としても造詣の深い人でね、帝国を訪れたのは、皇国内の混乱から避難するためでもあるが、私とセレンの肖像画を描くために離宮に来てくれただけなんだ。
それに、彼女には皇国内の公爵令息との婚約がすでに決まっていてね。ただ政治的事情で公表できなかっただけなんだよ。
皇女と婚約者である公爵令息側の派閥や、貴族間のパワーバランスや、暗殺の問題も生じる関係のため秘匿しなければならなったそうなんだ。
なにしろ、貴族派から強引な婚約者候補を押し付けられ、皇女の他の姉妹や継母など、敵対派閥からの暗殺問題、彼らの後押しをする黒幕の対抗貴族たちを焙り出し、取り潰し没落させ爵位を返上させる準備を、帝国から協力者たちと連絡を取り合っていた最中だったのだ。
もちろんその上で、災害後の復興が落ち着くまで公にできないとね。
数か月経って、やっと皇国内が落ち着いたので、あちらで既に内乱を治め、婚約式も無事に済んだそうだ。ただ、私とセレンの絵を描くのは、セレンの療養が終わって、婚姻式の後になりそうだと残念そうにいってくれたよ」
セレンは息をのんだ。確かに、美しい皇女の肖像画を見て釣り書きかもしれないと思い込み、シルバーの新しい婚約者になるかもしれないと噂で聞いたのに……
風がそよぎ、黄金色の稲穂が波打った。
「では、テルル様については?」
セレンの声はかすれていた。
「テルルについても真実を話そう。彼女は宰相の妹だが、影が本来の仕事だ。策略で、愛妾を演じてくれていたのだ。側妃になるという噂も、全ては公爵家や大公の残党、他国から私たちを狙う暗殺者たちを欺くためでもあった。私は……其方にそれを伝える勇気がなく、誤解を招くままにしていた。
テルル自身、私のことは兄弟のようにしか思っていないそうだ。
それにだな……あの日、セレンが誘拐された時、私は初めて気付いた。この世界で1番大切なものが、目の前から消えようとしているのだと」
シルバーの額がセレンの額に触れた。
「セレン、私はあなたが好きだ。心から慈しんでいる。この気持ちは偽りではない。本当に君だけを愛おしいと思っている。この3年間、ずっとそうだった。セレンが20歳になるのを待ち望んでいた。本当の夫婦になるために」
シルバーは深く息を吸った。
「帰ってきてくれ。私の妻として。未来の皇子や皇女の母として。
国民もみんな、君がいなくなって、初めて君の大切さに気づいた。私も……私もそうだ」
シルバーの目にも涙が光っていた。
「13年前、セレンが私を救ってくれたように」
シルバーは囁くように言った。
「今度は私がセレンを救いたい。この誤解を解き、本当の幸せを一緒に見つけたい」
シルバーはセレンのお腹にそっと手を当てた。
「何れにしろこの子は、私たちの子どもなのだろう? 私も一緒に育てよう。嘘偽りのない、本当の夫婦として。王と皇妃として、国民を、そして私たち自身をも幸せにしていくために生きよう」
長い沈黙が流れた。
遠くで鳥の声が聞こえる。
大きな雲が動き、雲間から陽光が差し込んだ。
セレンは涙をこらえきれず、溢れるままにさせた。
彼の指が、セレンの頬を伝う一粒の涙をぬぐった。
セレンは深く息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。
半年間背負ってきた重荷が、少しずつ消えていくのを感じとった。
そして、セレンの手がそっとシルバーの手を握り返していた。
「……私も」
声は小さくかすかだが。
「ずっと、シルバー様のことを……あなたのことを……」
言葉は涙に消えた。
しかし、それで充分だ。
言葉にならない想いを、セレンは涙で表現するしかなかったのだから。
シルバーはそっと優しく彼女を抱きしめると、その肩で泣くのを許した。
お腹の膨らみを間に挟みながら、13年越しの想いがようやく1つになったのだ。
マーキュリーはそっとセレンの足元に寄り添うと、金色の瞳でセレンとシルバーを見上げた。
そして、ゆっくりとうなずいたように頭を下げた。
畑の隅で草を食んでいたビスマスも嘶いた。
「マーキュリーも、ビスマスも……賛成してくれたようだな」
シルバーが微笑んだ。
「聖獣や愛馬の認可を得たとなれば、もう反対する者はいないだろう」
その温もりが、すべてを物語っていた。
マーキュリーは満足そうに喉をごろごろと鳴らすと、セレンたちの足元にどっかりと座った。
ビスマスもカポカポと3人と1匹の傍に寄ってきた。
タンタルとコバルトが戸口から顔を出すと、安堵の表情を浮かべていた。
彼らは全てを理解したわけではないが、この2人の間に流れる真摯な愛情を感じ取っていた。
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本音のエピタイは「3人の未来」とかそんな感じにしたかったのだけど、一気読みする人とか、エピタイだけで読んでない人にネタバレになってわな?と自重自重~
次回ラスト、エピローグになります。文章の調整が後半大変だったので、月曜日アップ頑張ります!




