33、白い結婚の誤解?
◆白い結婚の誤解
── 20歳になったセレンは、帝国と異世界での20歳未満での結婚の代償の常識を知らないまま、白い結婚が成立して離縁できたと思い込み、今生の思い出にと、シルバーとは違う想いで本当の意味での夫婦となったが誤解から帝都から逃げ出した ──
皇帝シルバーは廊下で侍女を見つけると、声を荒げて尋ねた。
「皇妃はどこだ?」
侍女は驚いたが、うつむいて答えた。
「陛下、皇妃殿下は……朝早くからお目にかかっておりません……」
シルバーの心臓が高鳴った。
彼は走り出していた。
「月影の館」だけでなく、離宮中の各部屋を探し回り、庭を駆け巡り、黒豹のマーキュリーがいないことにも気づいたとき、彼はすべてを理解した。
「逃げてしまったのか?……」
彼女は逃げ出したのだ。
離縁が成立したと勘違いして、彼のもとから去ったのだと。
「なぜ……なぜ私に話してくれなかったのだ……」
シルバーは膝をつくと、地面にぎゅっと手をついた。
胸がきりきりと痛んだ。
呼吸も苦しい。
まるで誰かに胸を締め付けられているようだ。
「陛下!」
自分のことを探し回った声がした。
振り向けば、宰相リードが駆け寄ってくる。彼の手には羊皮紙の束があった。
「陛下、これは……皇妃殿下が神殿に提出した書類の写しですが……」
「ああ……わかっている」
シルバーの声はかすれていた。
「もう……遅すぎる。彼女はどこにもいない」
*****
「陛下、これは……皇妃殿下は白い結婚の制度を誤解しています。皇妃殿下が請求された離縁申請書に対する、神殿からの返信です。
『20歳未満の猶予期間が終了したため、これからが正式な白き結婚の適用期間である。申請内容に不備があるため、差し戻す』
と……皇妃殿下はまだ20歳になったばかり。申請は時期尚早なため、神殿から差し戻されたのでしょう」
「つまり……離縁は成立していないのだな」
「はい、まったく逆です。これからが正式な手続き期間に入るはずでした」
リードの顔が曇った。
「彼女はそうとは知らない」
シルバーはうつむいた。
「彼女は……離縁が成立したと思い込んで去っていった」
皇帝は書類を握りしめると、窓辺へ走った。街を見下ろすが、彼女の姿はどこにも見えない。
「セレン……なぜだ……」
彼女の誤解に気づいた。すべてが間違っていた。彼が愛しているのは彼女だけだ。側妃など要らない。皇女との政略結婚など考えてもいない。
沈黙が流れた。
リードがため息をついた。
「陛下、皇妃殿下がなぜこのような行動に出たのか、お心当たりは?」
シルバーはゆっくりと頭を上げた。彼の目には苦悩の色が浮かんでいた。
「この数年間……私は彼女に何も与えられなかった。冷遇し、疑い、傷つけてばかりだった。たとえ最近になって気持ちに気づいたとしても……彼女が信じてくれないのも無理はない」
「陛下……」
「そして……あの噂だ」
シルバーの声が低くなった。
「皇国の皇女との婚姻の噂。側妃を娶る話。宰相の妹テルルを正式な側妃にしろという話……」
リードの目がわずかに見開かれた。
「テルルは影の一員に過ぎません。陛下のご意思で婚姻など考えるはずが……」
「しかしセレンはそうは思わなかった」
シルバーは立ち上がった。
「彼女は……自分が愛されていないと信じ込んだ。政略の駒に過ぎず、銀龍の神子としての価値だけが欲しかったのかもしれないと」
彼は拳を握りしめた。
「私は……彼女に1度も『愛している』と言えなかった。好きだとも、慕っているとも。ただ……守ると約束しただけだ」
リードはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「では、どうなさいます? 皇妃殿下を探しに出られるのですか?」
シルバーは遠くを見つめた。彼の目には決意の色が浮かんでいた。
「もちろん探す。しかし……それだけではない」
「どういうことです?」
シルバーは深く息を吸った。
「セレンが逃げた理由は、彼女がこの宮殿に居場所を見出せなかったからだ。彼女が安心して暮らせる場所を作らなかった私の責任だ。だから……彼女が戻ってきたとき、もう2度と逃げ出したいと思わないような場所を作る」
彼はリードを見据えた。
「まず、テルルについては、影としての役割を公式に発表し、彼女が私の愛妾などではないことを明らかにする。それから、貴族派閥の令嬢たちとの政略結婚による側妃候補の話については、全て正式に撤回させる。さらに ──」
「陛下、それは……」
彼は再び遠くを見つめた。
*****
「全騎士を動員せよ! 皇妃を探し出せ!」
皇帝の声は必死だ。彼はすぐに騎士団を動員すると、セレンの行方を追わせた。
しかし、セレンはすでに遠くへ去っていた。しかも、彼女の痕跡は国境近くで途絶えていたのが判明しただけだ。身分証明書がない彼女が国境を越えることは不可能だろうから、国内のどこかに潜んでいるはずだ。
シルバーは国民には「セレン皇妃は離宮で静養中」とだけ発表し、必死の捜索を続けた。
セレンはどこにいるのだろう?
おそらくは街を離れ、誰にも見つからない場所へ向かったに違いない。黒髪と赤い瞳の珍しい姿も、彼女なら、変装して身を隠すのはたやすいことだろう。
しかし、シルバーは諦めない。たとえ何年かかろうとも、彼女を見つけ出す。そして今度こそ、きちんと気持ちを伝える。
「待っていてくれ、セレン」
彼は心の中で呟いた。
「今度は必ず……君に愛されていると信じさせてみせる」
風がそっと吹き抜け、まるで遠くに去った妻の囁きのように聞こえた。
シルバーが彼女を探す旅は、これから始まる ── 皇帝が自らの過ちに気づき、本当の気持ちを伝えるための、長い旅が。
*****
街の片隅では、ニッケルとクロム兄妹が、リンお姉さん(セレン)からの手紙を読んで泣いていた。孤児院の子供たちも、優しいお姉さんが去ってしまったことを知り、悲しみに暮れていた。
セレンは、リンとしての彼女の事を知る兄妹や孤児院の子供たち、アーサニクたちにも迷惑かけられないと行き先を告げずに逃亡したのだ。
*****
帝国の外れの道を、一人の若い女性が馬を走らせていた。側には黒豹が彼らを守るように並走していた。
茶髪を簡素な3つ編みにし、質素な旅装に身を包んでいる。彼女の目には決意と、ほんの少しの後悔の色が浮かんでいた。
髪色はマーキュリーの認識阻害魔法のおかげだ。
しかし、ずっと魔法を掛け続けることができるのか、どれくらいの負担をかけるのかわからないので、折を見て髪色を変える薬草を使って継続させようと考えている。
ただ、瞳の色を変えるような、前世の日本にあったコンタクトレンズと言う便利な道具は、この異世界では未だ存在しない。薬草で目の色を変えるような危険な方法もない。だから瞳の色はそのままにした。黒髪だけ、赤目だけの人種なら帝国だけでなく、王国でもいるからだ。
「ごめんなさい、シルバー様……」
セレンは振り返らず、前だけを見つめた。
「でも……これが1番いい方法なのです。あなたには、相応しい皇妃が必要だもの。私は…ただのお飾りに過ぎないのだから」
彼女の頬を一粒の涙が伝った。昨夜の温もりがまだ肌に残っている。あの優しい言葉、あの深い愛情 ── すべてが別れを美しく飾るためのものだったのだろうか?
「白い結婚は成立しました。あなたは自由です。そして私も……」
そして国境近くの森の中で、セレンは馬を止めた。
セレンは最後にもう1度だけと振り返ると、もう既に見えない遠ざかった帝都の方を見つめた。
そして、決然と前を向いた。
彼女は馬の首筋を撫でた。
「さあ、ビスマス、マーキュリー。新しい場所へ行こう。誰にも見つからない、静かな場所へ。新しい人生のために」
馬は嬉しそうにいなないた。
黒豹も、何処までもついて行くと頷いた。
彼女の目には、涙よりも強い決意が光っていた。皇妃としての人生は終わった。これからは、セレン・フレロビュム・マイトネリュムとしてではなく、1人の女性として生きていくのだ。
しかし彼女は知らない。皇帝が、必死に彼女を探し続けるだろうことを。
そして、この別れが、2人の本当の愛の始まりにすぎないことを。
彼女は知らなかった。離縁は成立しておらず、シルバーの愛は本物だったことを。
彼女は知らなかった。自分が山間の片田舎で、ある事実に気づくことになることを。
風が強くなり、セレンの黒髪をなびかせた。彼女の旅は始まったばかりだ。
その風は森を渡ると、木々の葉がざわめく。まるで、新たな物語のページがめくれる音にも聞こえるような。
どこへ向かうのか、自分でもわからない。ただ、前へ進むだけだ。
*****
それから半年後。
山間の小さな村は、帝国の喧騒から遠く離れた静かな場所でもある。
国境を越えるための身分証明書がないため、老夫婦が営む農場で、セレンは半年間も身を潜めていたのだ。
戦争で子供や孫を失い、残った娘たちは遠い大きな町で暮らして疎遠になっていると言う2人は、彼女を実の娘のように慈しんでくれた。彼らは彼女の赤い瞳に疑問を抱かず、ただ「リン」と呼んで温かく迎えてくれた。
「リンさん、そんな重いもの持たないで」
老婆が声をかけた。
「お腹の子を大切にしなきゃだめよ」
そう。彼女のお腹は明らかに膨らんでいた。
優しい老婆タンタルは、妊娠7ヶ月のセレンの手から水桶を取り上げた。夫のコバルトは、黙々とビスマスに手伝って貰いながら畑を耕している間も、時折心配そうにセレンを見てくれた。
「大丈夫なのに、おばあさんったら。動いていた方が気が紛れるんです」
「いいから、いいから。あなたは今、2人分の身体なんだから」
セレンは苦笑いした。黒いベールも、皇妃としての豪華なドレスも、ここにはなかった。質素な農民の服を着て髪だけ茶色に染めてはいたが、素顔をさらしたままの彼女は「リン」として生きていた。
「でも、お世話になっているのに何もしないわけには……それに、この子に、困ってる人の為に働いてる誇れる母親でいたいから」
セレンは微笑みながら農具を手にした。
逃げ出した時には気づいていなかったが、あの夜の結果だったのだ。喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか ── 彼女にはわからなかったが、考えている間にもお腹の子供は、確実に成長し生きようとしていた。
傍らには、相変わらずマーキュリーがいて、ビスマスも老夫婦の手伝いをしながらいてくれた。
聖獣の黒豹は、この村では「大きな黒い猫」として受け入れられていた。子供たちは最初こそ怖がったが、セレンと心を通わせるマーキュリーの姿を見て、次第に慣れていった。
「マーキュリーが、また羊の足の不調を教えてくれたわ」
セレンが言うと、タンタルは驚いたように目を丸くした。
「本当に、リンさんは動物の気持ちがわかるのね。あの獣医のオッサンよりずっと早く病気を見つけるんだから」
セレンは微笑んだ。前世の薬剤師としての知識と、今世の母から受け継いだ能力。それらは、この田舎では「不思議な才能」として受け入れられていた。
しかし、その平穏は突然終わりを告げた。
獣の怪我や病気を、誰よりも早く見抜き、手当てする彼女の噂が、やがて山を越えていったからだ。
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