32、白い結婚の終わり?
◆白い結婚の終わり
── 20歳になったセレンは、帝国と異世界での20歳未満での結婚の代償の常識を知らないまま、白い結婚が成立して離縁できると思い込んだ ──
一方、皇帝シルバーの書斎では、宰相リードが複雑な表情で報告していた。
「陛下、リバモリュム皇国からの正式な書簡が届きました。フローリン皇女殿下の婚約について、ようやく公表できる段階になったとのことです」
「……そうか」
シルバーは空色の髪を指で梳きながら、窓の外を見つめた。
「そういえば……セレンには、まだ説明していなかったな」
「早急に皇妃殿下にお伝えになるべきでしょう。誤解を招きかねませんよ」
シルバーの碧眼には、深い憂いが浮かんでいた。27歳の若き皇帝は、この3年間、妻であるセレンに対する想いを言葉にできずにいた。
リードは眼鏡の奥で目を細めた。
「陛下、最も伝えるべきことを、まだお伝えになっていないのではありませんか?」
「……伝える資格がなかった」
シルバーの声は低く響いた。
「20歳になるまで、彼女を本当の妻として迎えることすらできなかったのだから」
この世界での掟 ── 20歳未満での出産は代償が大きい。特に帝国法では、たとえ白い結婚であっても、20歳未満での離縁は認められない。セレンは故国の法律と前世の知識から、3年で別れられると誤解していた。シルバーはその誤解を解くべきなのだが、その事には気付いていなかった。
「それで陛下、本日のスケジュールですが……」
執務室で宰相の報告を聞きながらも、シルバー皇帝の心は別のところにあった。3年前、17歳で嫁いできたセレンが、今日で20歳の誕生日を迎える。これから後、2年の白い結婚が続けば、正式に離縁できるようになる。
「陛下?」
「ああ、続けてくれ」
皇帝は机の上に置かれた書類に目をやった。そこには、周辺諸国との新たな同盟関係の草案が並んでいる。3年前に掲げた目標は、ほぼ達成されていた。
王国との関係は安定し、周辺国との緊張も緩和。国内の貧困対策も進み、孤児院や医療施設が整備されていた。
すべては、あの黒髪の皇妃の助言と行動がなければ不可能なことばかりであるが。
「それで、皇国からの使節団はいつ到着する?」
「1週間後です。フローリン皇女ご自身がご来訪される由」
宰相の言葉に、皇帝の眉がわずかに動いた。最近、宮廷内で囁かれている噂 ── 皇女が皇帝に横恋慕しているという話を、彼も耳にしていた。
「了解した。接待は万全に」
「はい。それと……もう1つ」
宰相がためらいがちに言葉を続ける。
「側妃に関する貴族たちの要望が、再び活発化しております。特にテルルを正式な側妃に、という声が……」
「断っておけ。テルルは影の任務に就いている。表立った立場になるつもりはないはずだ」
「かしこまりました」
宰相が退出すると、皇帝は深くため息をついた。
皇帝はゆっくりと椅子から立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。
窓の外では、セレンが庭で黒豹のマーキュリーと戯れている姿が見えた。陽光に照らされる彼女の黒髪は、真珠のように輝いていた。それからセレンはマーキュリーの頭を撫でながら、何か囁いている。その横顔には、深い悲しみがにじんで見えた。
彼女は知らない。自分がどれだけ彼女を ──
*****
一方、セレンの心は静かに決意に満ちていた。
神殿からの返信書類を手に、彼女は離宮の自室に戻った。
封筒を開けると、中には複雑な書式の文書が入っていた。ざっと目を通すと、「問い合わせ確認」「条件不備」「差し戻し」といった言葉が目に飛び込んできた。
「これで……終わりなのね」
セレンは誤解した。これが離縁成立の通知だと思い込んだのだ。20歳未満の猶予期間が終わり、白い結婚の解消が正式に処理された ── そう信じ込んでしまった。
涙が一筋、頬を伝った。3年間。たった3年間の皇妃生活が、今日で終わる。
「マーキュリー」
傍らに寄り添う黒豹が、心配そうな金色の瞳を向ける。
《悲しんでるのか?》
動物の心の声が、直接セレンの心に響く。
「少しだけ。でも……これが運命なのよ。シルバー様には、もっと相応しい方がいらっしゃる。皇国のフローリン皇女様や、テルル様のような」
《セレン、間違っている。あの男は ──》
「もう、いいの」
セレンはマーキュリーの頭を撫でながら、決意を固めた。最後の夜。せめて、思い出に残る一夜を過ごしたい。それから、静かに去ろう。
その夜、皇帝はセレンの離宮を訪れた。手には、小さな箱を持っている。
「セレン、今日は君の誕生日だ。これを……」
「シルバー様」
セレンは皇帝の言葉を優しく遮ると、近づいた。彼女の目は、深い赤い宝石のように輝いていた。
「今夜だけ……私を、妻として愛してください」
皇帝は言葉を失った。
彼女の瞳に映る決意と悲しみが、胸を締め付けた。
何も言わず、彼はセレンを抱きしめた。3年間、政略結婚という名目の下、決して越えてはならない一線を守ってきた。だが今夜、その線は消えたのだから。
月明かりが部屋を照らす中、2人は初めて真の夫婦となった。
シルバーは、やっと20歳になったセレンとの、既成事実による拘束と言う名の蜜月を過ごせる想いと、側妃を娶る噂話などを払拭するためにもと、お互いに本当の意味での初夜を迎えたのだ。
しかし、セレンの方は皇帝の腕の中で、すべてを忘れようとした。明日から始まる孤独な旅路のことを、これから皇帝の傍に立つ他の女性たちのことを。
「セレン……」
*****
夜明け前、シルバーが眠りについたのを確認すると、セレンは多少違和感が残る身体をなんとか動かそうとした。すると、ひっそりとマーキュリーが扉を開けて、するりと部屋に入ってきた。
《セレン、回復魔法をかけるよ》
おかげで、どうにか足を動かせるようになり、そっとベッドから抜け出した。
最後に、彼の寝顔を見つめる。空色の髪が額にかかり、長い睫毛が頬に影を作っている。こんなに美しい人を、愛せたことは幸せだと。
それに、昨夜は流石に無茶な真似も回数も行わず、とても丁寧で優しかったことを思い出すと、自然に頬がぽっと熱くなってしまう。しかし今はそれらを想い出にしなければいけないのだ。
「さようなら、シルバー様」
……どうか、お幸せに……
囁くように別れを告げると、セレンは身支度を始めた。
侍女用の質素な服に着替えると、必要なものだけを小さな袋に詰める。
黒豹のマーキュリーが心配そうに彼女の後をついてくる。
《どうしたのセレン。もう侍女はやらなくていいんでしょ?》
(大丈夫よ、マーキュリー)
セレンは豹の頭を撫でながら囁いた。
(もうここにいる理由がないからよ)
《どこかへ行くの?》
(う~ん? そうねえ……ちょっとね。遠くへね。あなたはここに残って、陛下をお守りして)
《いやだ。セレンと行く》
黒豹の意志は固いようだ。
セレンは仕方なく頷くと、一緒に城を脱出する計画を立てた。3年間の生活で、彼女は離宮の秘密の通路をいくつか知っていた。最も、マーキュリーは隠蔽魔法を知ってるから大丈夫だったなと、思い直した。
彼女は絵の額縁の裏にある隠しスイッチを押した。壁が静かに滑り、秘密の通路が現れた。城の構造図を研究し、侍女や下男に変装して脱出する計画を何度も練っていたのだ。
薄暗い通路を進むと、城外へと抜けた。
*****
夜明け前の街はまだ眠りの中にあった。
セレンは孤児院へと向かい、かつて自分が救った黒馬のビスマスを連れ出した。すると、孤児院の入口で早朝の祈りを捧げていた院長先生が、心配そうに出迎えてくれた。
「院長先生。朝早くに押しかけてきて、すみません。ビスマスを遠方に連れて行くことになりまして。それと……子供たちが起きてからでいいので、この手紙を読んであげてください……」
「皇妃様? ……何か余程の事情がおありなのでしょうか。いえ……女性たちのための救済方法を教えてくださったのですもの、詳しいことを聞かずにおきましょう。ただ……陛下はご承知のことなのでしょうか?」
院長のその問いには曖昧に微笑んで答えなかった。院長に余計な負担をかけないためと、罰せられないようにするためだ。
《やあ、セレン。久しぶりに遠駆けするのか?》
「ビスマスお願い、私を遠くへ連れて行って」
馬は懐かしそうにセレンの手を舐め、うなずいた。
東の空が白み始める頃、セレンは馬に乗ると、マーキュリーを従えて、帝国の都を後にした。
*****
振り返れば、そびえ立つ城壁と、自分が3年間過ごした離宮の尖塔が見えた。
「アーサ、ジョー先生……ごめんなさい。お別れも言えなくて」
アーサニクとジョー先生には、前もって手紙を残していた。2人には彼らだけの幸せがある。この国で、愛する人と生きていく道を選んだからだ。2人の幸せを邪魔したくない。
太陽が完全に昇りきった時、セレンはもう帝都を離れていた。
*****
一方、城では朝の混乱が始まっていた。
朝の光が寝室に差し込んだとき、シルバー皇帝はまず手を伸ばした。隣にいるはずの妻の体温を求めて。しかし、触れたのは冷たいシーツだけ。
「……セレン?」
目を開け、ベッドの横を見た。空っぽだ。
彼は起き上がると、部屋を見回した。
いつもならセレンは窓辺に立ち、朝の光を浴びながら庭を見ているものだった。あるいは小さな机で薬草のスケッチをしていることもあった。しかし今日は、彼女の姿はどこにもない。
「どこに……?」
不安が胸を締め付けた。大公の誘拐事件以来、シルバーはセレンの安全に神経を尖らせていた。彼女が1人でどこかに行くことを決して許さなかった。護衛が常についているはずだ。代わりに、枕元に1枚の手紙と、以前セレンに渡したはずの母の形見の指輪が置かれている。
++++++++++
【陛下。シルバー・テクネチュム・マイトネリュム様へ。
3年間、ありがとうございました。
白い結婚は無事に解消されました。
それと、皇后陛下の指輪は私には過ぎた物のようでした。
ですからどうか次の皇妃となるのに相応しい方にお渡しください。
皇女様やテルル様と、お幸せに。
セレン】
++++++++++
「なに……?」
彼はベッドから起き上がると、ドアに向かって歩き始めた。
そのとき、机の上に置かれた羊皮紙の束が目に入った。
それは神殿の封蝋が押された書類だ。
シルバーは眉をひそめると、それを手に取った。
何の書類だ?
セレンが神殿に何かを申請したのか?
最近、彼女が女性のための福祉施設の拡充を願い出ていると聞いていたが。それのことだろうか?
しかし、封を開き、中身を読み始めたとき、シルバーの顔から血の気が引いた。
「……な、何だこれは……」
手に持った羊皮紙が震えた。
『白い結婚に基づく離縁申請に関する問い合わせおよび差し戻し通知』
文字が視界で揺れる。
シルバーは何度も目をこすった。
読み間違いに違いない。しかし、そこには確かに書かれていた。
~~~~~~~~~~
申請者 :
セレン・フレロビュム・マイトネリュム
申請内容:
白い結婚(無実体婚姻)に基づく円満離縁
申請日 :
今月15日
処理結果:
申請書類不備のため差し戻しいたします。
20歳未満の猶予期間終了前の申請は無効となります。
特別条件に基づく異議申立が必要な場合は別途書類を提出のこと。
『皇妃セレン殿下より受理された離縁申請書について。
20歳未満の婚姻無効猶予期間が過ぎておりますため
白い結婚による離縁手続きは適用されません。
また、20歳に達した現在
特別条件(不貞・虐待・暴力等)に基づく異議申し立てがない限り
離縁は認められません。
何か誤解があるようでしたら、改めてご連絡ください』
~~~~~~~~~~~
シルバーは書簡を見て、絶望に打ちのめされた。
「離縁……だと?」
シルバーは声にならない声で呟いた。
「セレンが……離縁を……?」
彼の頭は真っ白になった。
理解できない。
なぜ?
いつから?
どうして?
自分に一言も相談せずに?
そして、ふと気づいた。書類の日付は2日前だ。セレンは2日前にこの申請を出し、昨日神殿からこの返信を受け取った。そしてその夜……
昨夜、彼らは初めて本当の夫婦になったはずだ。
シルバーの頬が熱くなった。あの温もり、あの優しさ、あのとき交わした言葉 ── すべてが偽りだったのか? 別れの前の最後の思い出作りだったのか?
「そんな……そんなはずが……」
シルバーの叫びが書斎に響いた。
「セレン……!」
彼は書類を机に叩きつけると、急いで部屋を出た。
*****




