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29、大公の望み?

 ◆大公の野望



 ── セレンのベールがとうとう外された ──






 大公の策略の1つ、皇帝の毒殺は、セレンがリンとして毒見役になった機転で阻止された。


 しかし、帝国の影が集めた証拠は、皇帝シルバーの手元で重くのしかかっていた。


 書類の山は、叔父である大公チタン・ネオジム・マイトネリュムの暗躍を余すところなく暴き出していたからだ。


 奴隷貿易、麻薬栽培、暗殺者育成、そして内乱を起こさせようとしていること、帝国を内部から荒らし操ろうとする浸食行為 ── すべてが、皇位を狙う大公の野望へと繋がる糸でもある。


 さらに皇帝の毒殺には失敗したからと、今度は毒として検出されない麻薬漬け、媚薬漬けにしようとしたことなど、証拠を揃えていたのだ。


「これで充分だ」


 シルバーは宰相リードと近衛騎士団長モリブデンを前に、冷たい碧眼を光らせた。


「大公を裁くには、これ以上の証拠は必要ない」


 しかし、その裁きが実行される前に、事態は急転する。






 *****






 セレンは、リンとしての日々も過ごしていた。


 皇妃としての務め ── それは未だ形ばかりのものだが、街では彼女は生き生きとしていた。


 屋台を手伝い、子どもたちに笑いかけ、時には薬草の知識を活かして病人の手当てもした。彼女の素顔を知る者は少なく、黒髪赤眼の「リン」は市井の人々に少しずつ受け入れられ始めていた。


 そんなある日。


 いつものように屋台を手伝っていたセレンは、不審な男たちに囲まれた。彼女はすぐに危険を察知したが、逃げる間もなく、口を押さえられ、意識を失う前に見えたのは、大公の側近の冷たい笑みであった。






 *****






「セレンが……誘拐された?」


 離宮でその報告を受けたシルバーの声は、一瞬で凍りついた。


 アーサニク自身も多勢に無勢で昏倒させられ、他の護衛騎士たち ── 老兵士ニオブ、中年のクリプトン、女性騎士スズ、下級騎士のブローミン ── に助けられたが、皆、悔恨の表情を浮かべていた。


 彼らは依然はただの監視として役立たずだったが、セレンの悪女の噂がでたらめだったと払拭された後、優秀な騎士に交代されそうになった。


 しかし、セレンはそれを庇った。


『誤解が解けたのだから、これからは監視だけでなく、護衛としての職務を全うして真面目に働くこと。それが謝罪を受け入れる条件です。それに、4人とも実は孤立しているだけで、実力もあります』


 密かにセレンを守っていたが、市井での行動を完全に把握できなかったからだ。屋台の兄妹たちがそれぞれ接客したり、よろよろと商品を運ぶのをつい手伝ってしまったせいで油断してる間に、暴漢に付け込まれたのだ。


 マーキュリーもシルバーの足下で、申し訳なさそうにキュンキュンと鳴いていた。


 もちろん、護衛騎士達は真面目に護衛するようになったので、セレンが外出する際に


(今回は護衛騎士の皆を信頼してるから、たまには陛下をこそ暗殺者から守ってあげて)


 と言われたせいだ。それで、城内の妖しい人間をつけ回すのに夢中で、セレンから離れていて守れなったのだ。


「陛下、これは明らかに罠です」


 宰相リードが眼鏡の奥で鋭い視線を向けた。


「大公は、陛下をおびき出すために皇妃を囮にしたのでしょう」


「わかっている」


 シルバーの声には怒りよりも、焦りが滲んでいた。彼の胸中には、複雑な想いが渦巻いていた。セレンが「銀龍の神子」である可能性 ── 影の調査によっても、あの少年時代に出会った少女とセレンが同一人物であることがほぼ確実となっていた。


 だが今、彼を駆り立てているのは、神子としての価値ではない。ただ、彼女を失いたくないという切実な思いだけ。


 その時、窓の外でカラスの騒がしい鳴き声が聞こえた。


「陛下、カラスの群れが旧市街の廃屋に集結しています」


 影の1人が跪いて報告した。


 シルバー皇帝は窓辺に立つと、空色の髪が窓から入る風に揺れた。その碧眼には、冷たい決意が宿っていた。


「テルルからの報告は?」


「はい。大公殿下は確かに、皇妃殿下を囮に陛下をおびき出そうとしているようです。奴隷商人を通じて集めた私兵が、廃屋周辺に潜んでいます」


 宰相リードが眼鏡を押し上げた。


「罠であることは明白です。しかし……」


「行く」


 皇帝の声は低く、しかし揺るぎなかった。


「陛下! それはあまりに危険です!」


 近衛騎士団長モリブデンが進み出た。


「セレンが危険に晒されているのだぞ。それだけで充分な理由だろうが」


 シルバーは振り返ると、部下たちを見つめた。


「全員、準備を」


 シルバーは剣帯を締め直した。


「だが、正面から突撃するのではない。影たちに周囲の掃討を命じよ。私は少数の護衛だけで中に入る」


「陛下! それは!」


「大公が私を待っているなら、私が現れなければセレンが殺されるだろう。しかし大軍で押し寄せれば、彼らは人質を盾にするしかなくなる。ならば、私が囮になればいい」


 その言葉に、一同は息を飲んだ。


 続いて、黒豹マーキュリーが低く唸ると、シルバーの袖を引っ張る。


「……案内してくれるのか?」


 マーキュリーは金色の瞳をきらめかせ、うなずいた。






 *****






 一方、セレンは古びた民家の1室に閉じ込められていた。


 手足は縛られ、目隠しもされていたが、彼女は慌てなかった。前世の記憶 ── 何かと役に立つ雑学も蓄えていた。その中に「縄抜けの術」と呼ばれる、縄の縛り目を緩める方法があったからだ。


「すっと……力を抜いて、親指を内側に……」


 ゆっくりと、慎重に。彼女は手首の動きを微調整し、縄の緩みを作り出していく。


 その過程で、さらに彼女の特殊能力で周囲の動物たちを呼び寄せていた。ネズミが壁の隙間から顔を出し、小さな声で囁きながら、セレンの腕の縄にコリコリと傷をつけてくれた。


 《外にはたくさんのカラスが集まっているよ》


 《黒い大きな猫が、たくさんの人間を連れてきた》


 《この家の周りは、危険な人間でいっぱいだ》


(ありがとう、みんな)


 セレンは心の中で感謝を伝えた。動物たちの情報は、彼女に希望を与えてくれた。シルバーが来てくれる ── そう信じることができた。


 カラスの群れが、この家の周りを旋回しているのに気付くと、セレンの心臓が高鳴った。


(マーキュリー……?)


 彼女が動物と心を通わせる中でも、黒豹のマーキュリーとの絆が最も強かった。あの金眼の聖獣が、今、助けを呼んでくれているのだ。


 しかし、もう1つの助けが訪れた。


 扉の外で聞こえる看守たちの会話の中に、覚えのある名前が出たからだ。屋台を営むクロムとニッケルの父親らしい ── 彼は大公の脅迫に屈し、やむなく手伝わされている1人なのだと。


『── アイアン。中にいるのは、あのリンさんだってよ ──』


 父親の声は苦渋に満ちていた。


『── あの女性は、俺が帰れない間、子どもたちのクロムとニッケルに親切にしてくれていた人だ。こんなこと、やってられない ──』


 隙を見て、父親のアイアンはそっと扉の鍵を開けた。


 目隠しを外されたセレンが見たのは、複雑な表情を浮かべた中年の男の顔だ。


「早く逃げろ」


 彼は小声で囁くと、懐から小さなナイフを出し、セレンの拘束されている腕の縄の既にネズミが傷つけて弱くなっている部分をぶつりと切った。


「時間がないから足の縄はなんとかしてくれ。鍵だけ開けておくから、裏口から出て、左の細道を行け。子どもたちは……きっと心配している」


 セレンは一瞬ためらったが、うなずくと、腕の縄を解いた。


「ありがとうございます。あなたのことは、何も見ていません」


 アイアンが再び扉を閉め、鍵を絞めずに去る足音を確認すると、セレンは縄抜け以外で、残る脚を縛っていた縄を、再び戻ってきたネズミたちと解いた。それから音を立てないように、彼女は猫のように身を低くして裏口へと向かった。






 *****






 しかし、脱出はそう簡単にはいかない。民家の外には、すでに大公の手下たちが配置されていたのだ。


「逃がすな!」


 誰かの叫び声。


 セレンは走り出していた。


 細道を抜け、路地へと飛び込む。


 しかし、行く手を複数の男たちが塞いできた。


 彼女は咄嗟に前世の護身術を思い出す ── だが、その必要はなくなった。


「セレン!」


 聞き慣れた声。


 シルバーが、帝国騎士たちを率いて現れたのである。


 モリブデン、キセノン、そしてアーサニクを始めとするセレンの護衛騎士たちも続く。彼らの剣は既に抜かれ、大公の手下たちと対峙していた。


「陛下……」


 セレンはほっと息をついた。


 しかし、油断は禁物だ。背後から影が迫り、強靭な腕がセレンの体を捕らえたのだから。


「どこへ行くつもりだね、皇妃殿下?」


 冷たい声。


 セレンの背筋が凍りついた。


 大公のチタン本人だ。青い髪と碧眼は、シルバー皇帝に似ているが、そこには冷たさしか感じない。


「動くなよ、甥っ子よ」


 大公の声は冷たく、刃がセレンの喉元に当てられた。


「さもなければ、この皇妃の命はない」


 シルバーは剣を構えたまま、硬直した。騎士たちも動きが止まる。


 セレンは動じなかった。前世の記憶 ── ある趣味で学んだ護身術が、体を反応させた。それと今世の経験が、彼女に冷静さを与えていた。彼女はゆっくりふう~っと息を吐くと、大公の腕の力を感じ取った。


 右腕で首を絞めている……が、左腕は自由のままだ……


 その瞬間、セレンは動いた。先ず、顎に向かって頭を思い切り後ろへがつんと突き上げる。


「ぐっ!」


 大公がわずかにのけ反った隙に、踵で相手の足の甲をだあんっと精一杯踏みつける。


 痛みに呻く大公の腕の力が緩む。


「ああっ!」


 さらに、羽交い絞めにしていた指の1本を掴むと、できるだけ思い切り逆へとそり折る。


「ぐあっ!」


 大公の悲鳴が上がる。


 セレンはそのまま体をくるりとひねると、膝も使った蹴りを放った。先ず鳩尾、そして顎へと連続で蹴りが入る。


「くっ……この小娘が……!」


 大公はよろめくと、セレンから離れた。


 その刹那、黒い閃光が飛び込んだ。


「マーキュリー!」


 黒豹は咆哮と共に大公に襲い掛かると、鋭い爪でその腕をざっくりと引き裂いた。


 大公はどすんっと転倒すると、騎士たちが一斉に取り押さえに入った。


 リード宰相とモリブデン騎士団長が後から入ってきた。


「陛下、ご無事で何よりです。周囲の手下はすべて制圧しました」


「テルルからの報告通り、大公派の貴族たちも一斉に逮捕されています」


 シルバーはそれらの報告にはほとんど耳を貸さず、セレンの方へ歩み寄った。彼女の腕と手首に、縄がこすれた痕が痛々しくついていたからだ。そのすり傷を見て、なぜか皇帝の胸に痛みが走った。


「他に何処か怪我は……ないか?」


「はい、陛下。大したことはありませんから」


「セレン……」


 言葉にならない想いを込めて、シルバーは彼女を強く抱きしめていた。


「陛下……」


 彼女の黒髪が、彼の空色の髪に混ざる。赤い瞳が、驚きながらも温かく彼を見つめ返した。


「陛下、息が苦しいです」


 セレンは小さく笑ったが、その声は優しかった。


「許せ」


 シルバーの声はかすれていた。


「もう2度と……離すものか」


 彼は、銀龍の神子としての彼女を守るためではない。ただ、この女性を ── セレンを、失いたくない。その想いだけが、今の彼を満たしていた。


「私は其方を大切な存在だと自覚している。リンとしての其方も、セレンとしての其方も、すべてを失いたくない程大事な存在だと気づいた」


 セレンの目から涙がこぼれる。長い間、誰からも愛されず、道具のように扱われてきた彼女に、初めて向けられた純粋な愛情の言葉。


「陛下……」


「シルバーと呼べ」


 彼が優しく言う。


「2人きりの時は、私の名で呼んでくれ」


「……陛……シルバー様……」


「もう2度と離さない。私の妃として、私のかけがいのない存在として、私のそばにいてくれ」


 彼が顔を上げる。碧色の瞳が、真摯な決意に輝いている。シルバーは彼女をしっかりと抱きしめる。


 セレンは涙を流しながら、静かにゆっくりとうなずいた。


 カラスの群れが旋回しながら鳴き声を上げていた。まるでセレンの無事を祝っているかのように。


 抱きしめ合う2人の背中には、しかし重い現実がのしかかってきた。次なる戦いは、既に始まっているのだと。


「陛下、皇妃殿下、ここは危険です。早く皇城にお戻りください」


 アーサニクが進み出て言った。焦茶色の髪を短く切りそろえた彼女の橙色の瞳には、幼馴染の無事を喜ぶ気持ちと、複雑な感情が入り混じっていた。


「そうだな」


 シルバーはセレンから少し離れはしたが、しかし彼女の手を離そうとはしなかった。


「大公の処分と、拉致されていた人々の救出を急ごう」


 シルバーはセレンの手を握りしめながら心に誓っていた。2度と、彼女を悲しませない。2度と、偽りに騙されない。銀龍の涙の宝石のように、たとえ歪な道のりでも、真実の輝きを失わない2人の未来を守るのだと。






 大通りへ出ると、夜明けの光が差し始めていた。


 遠くで、カラスの群れはまだ上空を旋回しており、闇が晴れたことを祝ってくれているように思えた。






 *****


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