27、偽ベールの王女?
◆偽りのベールの王女
── 冷遇されていたセレンがやっと離宮で暮らせるようになった ──
しかし、その平和も数週間経ったある日の午後。
離宮に不穏な知らせが届いた。
帝国の宮殿は、いつもより張り詰めた空気に包まれていた。
皇妃セレンは、自身の居室で静かに窓辺に立ち、庭園を眺めていた。
最近、皇帝シルバーとの間に生まれ始めた微妙な理解。それは、彼女にとって凍てついた宮廷生活の中で、ほんの少しだけ温もりを感じさせるものに変わっていた。
彼はまだ何も言わない。しかし、彼の碧眼が彼女を探すとき、そこには以前にはなかった何かがある。彼女は「リン」として町で出会った商人の面影と、皇帝の姿を重ね合わせつつあった。
「セレン様、お召し物が整いました」
背後からアーサニクの声がした。焦茶色の髪を短く切り、騎士の鎧を纏った彼女の目には、いつものように冷静さの中に一抹の憂いが浮かぶ。
「ありがとう、アーサ。でも今日は……何だか嫌な予感がする」
「……実は……セレン様。ダームスタチュム王国からの外交使節団が到着しました。それから……」
アーサニクが険しい表情で報告を続ける。
「ナイトラジェン王女殿下も、使節の1人として同行しているとのことです」
セレンの手にあった薬草の本が、ばたりと机の上に落ちた。
「異母姉が……?」
セレンの細い肩がわずかに震える。黒いベールの下で、彼女の赤い瞳が一瞬強く光った。
冷たいものが背筋を伝ってくる。幼少の頃から、ナイトラジェンは正妃の娘として、妾腹のセレンをことあるごとに虐げてきた。黒いベールを被らせ、人前に出ることを禁じ、まるで存在そのものを否定するかのように扱ってきた姉だ。
「何のために……」
「表向きは、婚姻の祝いの使者として、だそうです」
アーサニクの声には警戒の色が濃かった。
あの異母姉。
12歳の頃から、彼女は黒髪のかつらを被り、男遊びを繰り返しながら、その悪行のすべてをセレンのせいにしてきた女。彼女の悪評は、実はナイトラジェンそのものの姿なのに。
「なぜ今……」
「しかし、彼女がわざわざ来る理由などあるはずがありません。何か企んでいるに違いありませんよ、セレン様」
アーサニクの声には怒りが滲んでいた。しかし、護衛騎士としての立場上、感情を露わにはできない。
「どうせ嘲笑いにでも来たのでしょう。冷遇されていると噂の妹の惨状を確かめに」
セレンはすう~っと深く息を吸い込んだ。前世の記憶が、危険を察知するように警告を鳴らす。
「とにかく、対応しなければ」
彼女はいつもの黒いベールを被ると、皇妃としての正装に着替えた。しかし、その心は嵐のように騒いでいた。
*****
外交使節団がよく宿泊するために利用する離宮の前で、セレンはナイトラジェンを出迎えた。
「まあ、これが妹の嫁いだ先の帝国なのかしら」
ナイトラジェンの声は、蜂蜜のように甘く、しかしその裏には鋭い毒針でも隠しているようだ。
「それにしても、セレンは相変わらずなのね。辛気臭い地味なベールだし。これでは皇帝陛下も興ざめでしょうに?」
ナイトラジェンは高らかに笑った。赤い髪は炎のように揺れ、紫色の瞳は残酷な輝きを放つ。彼女の身長はセレンと同じだが、体形だけがより誇張されより主張的なのだ。
「それに、貴方が住んでいる離宮とやらも見学させてもらったけど。まあ随分と……質素な離宮だわねえ。妹が悪女だと評判だから、あんな扱いを受けるのも当然かしら」
セレンはベールの下でぐっと唇を噛みしめた。
「あらあ、なあにい? 何か文句でも言いたいわけえ?
帝国からの身内としても、王族代表のお祝いの使者の1人としても、外交官たちと態々来てやったのよ? それにしても皇帝陛下って、冷酷だと言う噂だったけど。遠目で見た限りでは、見目麗しかったわねえ。私の夫となるに相応しいと思わない?」
アーサニクや、今日の護衛についてくれたクリプトンとスズが警戒して前に出ようとしたが、ナイトラジェンが連れてきた十人ほどの侍女と護衛たちがたちまち3人を取り囲んだ。多勢に無勢。アーサニクとクリプトンたちは歯噛みしたが、動けない。
「だからねえ……ちょっと、セレン。私ともっとお話してくれない?」
他の非番の護衛騎士であるニオブとブローミンも焦って駆けつけてくれたのだが、やはり同じくナイトラジェンたちが連れてきた護衛達に阻まれた。
アーサニクも、護衛騎士の4人も、事が外交問題に関わるために、手を出し兼ねたのである。
セレンは、自分の護衛騎士達に静かにうなずくと、ナイトラジェンについて行った。
*****
客人用の一室に連れ込まれると、ナイトラジェンは突然、セレンの腕を掴んだ。
「その腕輪、私にくれない?」
「……これは母の形見です」
「妾妃の娘が、そんな立派なものを持つ必要はないわ」
ナイトラジェンは力ずくで、セレンの腕から黄金の腕輪を引き抜いた。
痛みが走ったが、セレンは声を上げなかった。長年の虐待で、彼女は痛みに耐えることを学んでいた。
「それから……あら、いいわねえ。これも頂戴」
ナイトラジェンの目は、セレンの首元に光るものへと向かった。銀の鎖のペンダント。歪な形の空色の宝石「銀龍の涙」が揺れていた。あの日、町娘姿のセレンに、茶髪に髭を生やした商人がそっと手渡したもの。心のこもった手作りの品だ。
「これは……」
「お前なんぞには過ぎたる貴重品よ。こんな希少な宝石、あなたには勿体ないわ」
鎖が首から引きちぎられるような衝撃。セレンは思わず手を伸ばしたが、ナイトラジェンはすでにペンダントを自分の手中に収めていた。
「どうして……」
「なぜって?」
ナイトラジェンは嘲笑った。
「お前は王国では卑しい妾妃の娘だった上、本来は陛下との婚姻は私が受けるはずだったのよ? 暴君で恐ろしい男だと言うから演技してまでお前に譲ったけど」
彼女は1歩近づくと、セレンのベールに触れた。
「あれだけ悪女の評判を流してやったのに、なんで幸せになろうとしてるのよ! 本来は全て私のものになるはずだったのだから、私が取り戻してもいいわよね?」
*****
その夜から、ナイトラジェンの計画は実行に移された。
高級なレースを使った黒いベールを被ると、奪った黄金の腕輪をはめ、「銀龍の涙」のペンダントを胸に下げて、彼女はセレンに成り代わろうとした。
セレン本人は、ナイトラジェンが連れてきた侍女たちの監視下に置かれ、客人用の離宮の奥の部屋に閉じ込められた。
「アーサ、みんな……」
窓の外には満月が浮かんでいた。セレンはそっと囁く。
すると、窓枠に小さな影が現れた。1羽の梟が、金色の目で彼女を見つめる。
《苦しい? セレン》
動物の声は、心に直接響く。彼女だけが理解できる言葉。
(姉が……私に成り代わろうとしているみたい)
《皇帝は気づいていないのかよ~》
(……彼はまだ、リンとセレンが同一人物だと確信していないのかもしれないわ。待っているのよ、きっと。私の方から打ち明けるのを)
《危険だ》
《あの女は本当に残忍だぜ》
《セレンのことを消そうと考えてるのかもしれないんだぞ》
セレンはうなずいた。彼女は知っていた。ナイトラジェンがこれまでしてきたことを。幼少の頃も。そして12歳の頃には、彼女の名を騙り、彼女の人生を盗み続けてきたことを。
数日後。
宮廷では奇妙な噂が流れ始めた。皇妃セレンが突然、積極的で華やかな振る舞いを見せるようになったと。皇帝シルバーの前で、これまでとは別人のように媚びを売り、笑い声を響かせると。
*****
その後、外交使節団が呼ばれた謁見の間では、セレンが嫁ぐときに同行してくれた王国からの外交官ボーラン伯爵を中心とした、何人かの文官や他の使者たちで埋め尽くされていた。伯爵は実直な人物だったので、セレンに対しても礼儀正しく接してくれていた。しかし、彼の傍らに立つナイトラジェンの存在が、すべての均衡を狂わせた。
シルバー皇帝は玉座に座り、空色の髪が燭台の光に淡く輝いていた。無表情で碧眼を使節団のひとりひとりを冷静に見ていた。
周囲には、宰相リード公爵、近衛騎士団長モリブデン侯爵、副団長キセノン辺境伯ら重臣たちも列席していた。
そのような場で、ナイトラジェンはまるで自分が主役であるかのように振る舞っていた。
赤い髪を豪華に結い上げ、紫の瞳が狡猾に光る。ダームスタチュム王国の王女らしく、贅を尽くしたドレスをまとっていた。しかし、その頭を覆い隠すようにセレンと同じ……いや、もう少し高級な生地とレースを使った黒いベールをすっぽりとかぶっていた。
「陛下、私はダームスタチュム王国の王女、ナイトラジェンと申します。妹の無事を確認するため、そして両国の友好を深めるため、自ら使者として参りました」
その声は甘く、計算され尽くした媚びを含んでいた。
シルバーの表情は変わらなかったが、リードは彼の指がわずかに動いたのを見逃さなかった。彼が何かを感じ取っている証だろう。
「ナイトラジェン王女、遠路はるばるご苦労であったな」
シルバーの声は冷たく、事務的に響く。
「しかし、祝いの使者としては、滞在期間が長すぎるのではないか?」
ナイトラジェンは扇子をあてて、いたずらっぽく笑った。
「陛下、実は私、この度の訪問で大切なことに気付いてしまいましたの」
彼女の視線が、シルバーに向けられる。その目は、獲物を見つめた捕食者のようでもある。
「この帝国には、真にふさわしい皇妃が必要だということに」
場の空気が一瞬で凍りついた。
モリブデン侯爵が反射的に手を柄に1歩前に出ようと警戒した。
「何が言いたい」
シルバーの声には、初めて感情の波が滲んだ。怒りだ。
ナイトラジェンは平然と続ける。
「妹のセレンは、陛下もご存知の通り、悪評ばかりが立つ女性です。盗み癖があり、傲慢で我が儘、贅沢を好み、男好きで浮気性……」
1つ1つの言葉が、毒矢のように謁見の場にいる帝国側の者達を貫くように感じた。
「そんな女性が、帝国の皇妃として相応しいでしょうか? 私は、王国の第一王女として、真に陛下に相応しい伴侶となれると自負しております」
「ほお? それは随分とまあ、大胆ですね」
宰相リードが眼鏡を押し上げながら低く返す。
「婚姻はすでに成立しておりますよ。国際条約にも署名済みですからね。それを反故にしようと?」
「いえいえ」
ナイトラジェンは涼しい顔で首をふるふると振る。
「ただ、よりふさわしい者と取り替えることを提案しているだけです。王国も、より高貴な血筋の王女を送ることで、帝国との関係をより強固にできると考えるでしょう」
その時、シルバーも宰相もあることに気付いた。
ナイトラジェンの手首に、光るものが見える。黄金の腕輪 ── セレン自身である証として身に着けていた、あの腕輪だ。
あの腕輪は……
シルバーも宰相も声が出ない。
いつ? どうやって? すり替えられたのか?
「陛下」
ナイトラジェンは優雅に一礼する。
「申し訳ございません。本当は、私こそが、真のセレン・フレロビュム・ダームスタチュムなのです。実は最初に訪れた女は、私が帝国に駆け付けるまでの身代わりの侍女に過ぎませんのよ」
「何という……!」
モリブデン侯爵が飛び出そうとするが、シルバーが手を上げて止めた。
「証拠がございますわ」
ナイトラジェンは腕輪を高く掲げる。
「この黄金の腕輪は、ダームスタチュム王家に伝わるもので、セレン王女本人を指し示す証として与えられたものです。私がこれを持っているということは、私こそが真のセレン王女であり、花嫁でもある証拠ですのよ」
シルバーの目が細くなる。彼はゆっくりと玉座から立ち上がり、ナイトラジェンに近づく。
「では、ベールを外せ」
一瞬、ナイトラジェンに動揺が走ったが、すぐに取り繕う。
「陛下、私の顔をお見せするのは、閨を行える夜までお待ちいただけませんでしょうか?」
「今すぐにだ」
シルバーの声には、もはや議論の余地がない威圧が込められていた。
ナイトラジェンはしぶしぶベールに手をやる。その手がわずかに震えているのが、シルバーにはわかった。
ベールがゆっくりと外される。
*****
orz 本来このエピソードはもっと後、この次の予定の大公エピソードや皇国の皇女の後に入れる予定だったのが、ここまで放置されて気づかないヘタレヒーローがおかしいだろうという展開上この場所に変更になっちゃった(汗。おかげでヘタレ皇帝の主人公に対する気持ちとか大幅に変更せざるを得ず、心の動きとか恋愛感情とか作者も苦手なのでおかしかったらすみません…
(;´Д`A




