25、忘れられた皇妃?
◆忘れられた皇妃セレン
── セレンと皇帝の想いはお互いにすれ違ったまま、その誤解されたままの距離を埋めることは難しかった。その後もセレンの悪評のせいで使用人は誰も身の回りの世話をしない。そのため誰も素顔を知らないのをいいことにリンとして侍女の姿で城内で働き始めた ──
その夜。
宰相リードの元に影からの報告が届いた。
「身元不明の侍女について調べましたが、記録にございません。大公の暗殺者ではないようですが」
「ならば誰が雇った?」
リードは眼鏡を拭いながら呟く。
「陛下か? いや、陛下がそんなことをするはずがないし……」
謎の侍女「リン」についての調査を命じたのは、大公の暗殺者を炙り出すためだ。しかし、彼女だけがどうしても正体が分からない。
「影を1人、付けさせてみるか。常に監視させろ」
リードの命令から数日後、影からの報告が届いた。報告書を読んだリードの顔から血の気が引いた。
「これは……まさか……」
彼はすぐに皇帝の元へ駆けつけた。
「陛下、至急ご覧頂きたい情報がございます」
リンとセレンについての再調査後、リードからの情報を受け取ったシルバーは、複雑な表情を浮かべていた。
近衛騎士団長のモリブデンが傍らに立つ。
「陛下、そういえば、あれから民衆の心は完全に皇妃殿下に向いているようですね」
「……皇妃は、本当に嘘の悪評に苦しめられていたのか」
シルバーの頭の中では、これまでのセレンへの対応が巡った。「何もするな」と告げたこと。彼女が本来の離宮ではなく、何処に住んでいるのかきちんと確認しなかったこと。元側妃や使用人たちの讒言を、検証もせずに信じかけていたことなどを。
「リード」
「はい。」
「皇妃の……セレンの住居と品質維持費の使用についての行方を調査せよ。本当に贅沢な暮らしをしているのか、していないのか」
リードは再び影たちに新たな命令を下しに去った後、シルバーは1人で考え込んだ。
彼は証拠の不充分さから、叔父である大公を裁けずにいた。父と兄を殺された無念。自分自身も毒殺の危機にさらされる日々。そんな中で、政略結婚でやってきた皇妃など、どうでもいい存在だ。
だが、もし彼女が本当に悪女ではないなら?
もし彼女が、自分と同じように嘘と陰謀に苦しめられてきたなら?
さらに調査が進むと、国庫管理番であるサルファ・ジスプロシュム・ラザホージュム子爵からの報告と、もう1人の側妃であり愛人だと見せかけていた影の1人でもあるテルルの情報で、より衝撃的事実が明らかになった。
「先ずは、管理番、報告しろ」
リードが厳しい声で命じた。
管理番のサルファ子爵は30代と若く、明るい茶髪茶目の持ち主だ。彼は実直な文官でもある。
「はっ。ではご報告します。私は財務官や金庫番の下で、道具・材料などを明細書類で管理しておりますが、皇妃殿下に使われている品質維持費と、実際に購入された明細内容とが合わない点に気付きまして……」
彼は関係書類を皇帝と宰相らに、それぞれ恐縮しながらも渡すと説明を始めた。
「それで……どういうことなのですか?」
「は、はい。こ……こちらの明細書類と品質維持費の動きによりますと、財務官から金庫番のシーボーギュム伯爵を通している間に、使途不明金が発生しております」
「なるほど、これは明らかにおかしいですね……ああ。テルルの調査の方はどうなりましたか?」
シルバーは、今まで無関心過ぎた自分を恥じながら、難しい顔をして、下からの報告を厳しい態度で受け入れようと精査していた。
「はっ! 兄上。私の方でも確認してきました。
実際に離宮の「月影の館」で使われているはずの皇妃殿下の支給品などは、書類上の物だけで、現物が届けられた形跡が全くございません。書類だけを水増ししただけの、ダミーです」
テルルも、詳細な報告書と記録書類を差し出してきた。
「ふむ……お二方とも、よくやりましたね。陛下、これで証拠書類は充分かと」
「他の執政や、視察にかまけていたせいだ……私のせいでもあるな、これは」
シルバーは、両手を組んで額を乗せると、気まずい表情をして覚悟を決めた。
「……陛下……」
「リード! 並びに、モリブデン! 直ぐに金庫番を拘束し、着服金の使用目的、及び、皇妃の品質維持費の管理をやり直しさせよ!」
しかし、やり場のない怒りに震えながらも、シルバーは立ち上がると、すぐさま、宰相と近衛兵たちに支持を出した。
*****
一方、今日の勉強が終わったばかりの談話室で、セレンは護衛騎士のアーサニクと話していた。
「宰相が私のことを調べているみたいなの。もう隠し通せないかもしれないわ」
「セレン様が調子に乗って、侍女なんてやるからですよ、全く。ならば、私がお話ししてきましょう」
「ごめんなさい、アーサ。そこは確かに私が調子に乗り過ぎちゃったね、てへっ」
アーサニクは覚悟を決めた表情で諭した。
「本当にそうですよ。仕方ありませんね。こうなったからには、私が女性であること、そして侍女のリンが皇妃殿下であることを、全部正直に打ち明けてきましょう」
*****
アーサニクが宰相に真実を打ち明けたのと同時期に、セレンの騎士として付けていた4人の内、代表として老騎士ニオブ、また教師のジンクたちからも、皇妃が変装して侍女をしているという情報がシルバーの元に集まった。
すべてのパズルがはまった時、再調査をした影とテルル、マーキュリーたちに案内されて小屋に来た皇帝と宰相は、愕然とした。
「誰も……報告していなかったのか?」
シルバーの声は震えた。
「元々つけていた影たちは『監視だけしろ』との命令で、詳細な報告を怠っていたのです」
リードは苦渋に満ちた表情で答える。
「そして侍女たち……誰も皇妃の世話をしていなかったようです」
そう。シルバーやリードたちの態度が皇妃を蔑ろにして侮辱し続けていると周囲に思わせてしまったせいでもある。そのため、皇妃の世話をするようにと付けていたはずの侍女や使用人の誰もが、皇妃を侮っていい存在だと見下し、仕事をしなかったのだ。
掘っ立て小屋の前で、シルバーとリードは言葉を失っていた。
屋根は壊れかけ、壁には隙間風が吹き抜けるだろう。中には粗末なベッドが1つ、がたつくテーブルが1つ。丸椅子が2脚。小さな机や簡易な棚など……しかしどれも、これが帝国の皇妃の住まいだとは信じまい。
「町娘のリンと、皇妃のセレンは……同一人物だったのか?」
「そしてあの侍女が毒見役として、毒殺の危機から何度も陛下を守っていたと?」
シルバーは小屋を見つめた。彼が蔑ろにし続けた女性が、実は彼の命を救い、外交の危機を救い、そして何より ── 彼が長年探し続けていたあの少年と瓜2つだと。
「マーキュリー……」
黒豹がセレンに懐いている理由が、今ようやく分かった。
あの日、傷ついた子供と、黒豹とを救ってくれた黒髪赤目の少年。少年が実は少女で、しかも自分が蔑ろにしていた皇妃だとは。
「私は……何をしていたのだ」
シルバーは膝をつき、地面に拳をだあんっと打ち付けた。無関心すぎた。悪女だと思い込んで、一切の関心を払わなかった。嫁いできた王女を、ここまで追い詰めていたとは。
「私は……なんという愚か者だったのか」
*****
一方。
いつまでも回されてこない品質維持費の行方を、シルバーたちが再調査してくれているとは知らず、今日の侍女としての仕事を終えた小屋で、セレンは窓辺に佇んでいた。
月明かりが彼女の黒髪を淡く照らし、紅玉のような瞳は遠くの庭園を見つめている。
彼女の足元では、漆黒の毛並みを持つマーキュリーが、丸くなって寝息を立てていた。最早今では、影のように静かなこの獣は、この小屋で、アーサニク以外で彼女が心を開く存在の1人だ。
皇帝の妃という地位を与えられながら、1度も皇帝の寝室に招かれることなく、政治的な儀式にさえ出席を許されない。
それどころか、未だに「男好きで男を閨に誘いこむ悪女」という噂が城内に広まっていた。
元側妃や大公や貴族派たちが流している、根も葉もない中傷だったが、誰も彼女を擁護しようとしなかったから。
さらに影たち ── 彼女に付けられたはずの護衛たちは、相変わらず、本当にただ監視しているだけ。彼らは暗がりに溶け込み、セレンの動静を記録するが、決して彼女の前に姿を現すことはない。報告書には「平穏無事」としか書かず、彼女が孤独に過ごす夜の詳細など、誰も気に留めなかった。
この時までは。
その夜。
事件が起きた。
セレンが深い眠りについた頃、2人の下級兵士が小屋まで忍び込もうとした。彼らは、囁かれている噂を真に受け、
「誰にも顧みられない皇妃なのだから、少し遊ばせてもらってもばれないみたいだぜ」
「現に、以前酔っぱらっていい気になった同僚が見咎められたらしいんだがな、お咎めなしで解放されたんだよ」
「あ~、その話か。俺も聞いてるぜ。むしろ陛下に叱責されたのは、皇妃様の方だったってよ」
「陛下自らが蔑ろにしてらっしゃるんだ。お優しい陛下は俺達兵士のほうだけを可愛がってくださる。わはは」
と話していた。
彼らが小屋の扉に手をかけようと近づいた瞬間、低く唸る声が響いた。
マーキュリーが暗がりから出てきて、黄金の瞳が暗闇の中で不気味に光る。普段はセレンの前で子猫のように振る舞うこの獣は、今や完全な捕食者の姿に変わっていた。
兵士たちは凍りついた。彼らは黒豹の存在を知らないようだ。
マーキュリーが飛びかかった。鋭い爪は兵士の鎧をぼろぼろに引き裂き、深い傷跡を残した。ぎゃあっという悲鳴とともに、マーキュリーに捕まっていない方の兵士は逃げ出すと、城内まで駆け抜けた。
騒動を聞きつけて駆けつけたのは、偶然その夜の巡回を担当していた近衛騎士団である。彼らは血まみれで逃げてくる兵士と、その後を追う黒豹を目撃した。
「何があった!」
騎士団長が剣を抜いて問い詰めた。
「黒、黒豹が……皇妃様の小屋に……」
アーサニクや、他のセレンの護衛騎士達もさすがに出てきて、マーキュリーに傷つけられて抑え込まれていた兵士を、拘束した。
その後、寝間着にショールを羽織った姿のセレンが、戸惑った表情で小屋から外に現れた。
マーキュリーはすぐに彼女の側に戻ると、体をすりすりとすり寄せながら低く唸り続けて警戒を怠らない。
状況はすぐに明らかになった。
兵士たちの自白から、彼らが「夜這い」を企てていたことが判明したから。さらに調査が進むと、影たちだけでなく、護衛騎士として配属されていたはずの4人の騎士達もが、セレンの安全を軽視していた事実もやっと浮かび上がった。
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