24、黒髪の侍女?
◆黒髪の侍女リン
── 疫病に苦しむ人々に献身するセレンは民に認められた。しかし皇帝からは余計なことをするなと叱責された ──
昼過ぎ。
突然の雨が街を襲った。
セレンと兄妹は急いで屋台の荷物を片づけ始めた。
すると、1人の男が近づいてきた。
「雨の中、大変だな」
セレンが顔を上げると、そこには商会でのトラブルを救け、質屋でも会った、茶髪で髭のある商人の男が立っていた。しかし、何かが引っかかる。その碧い瞳は、確かどこかで見たような気が……
「手伝おうか?」
男は自然に屋台の片づけを手伝い始めた。その動きには一切の無駄がなく、商人というよりは……
「ありがとうございます。でも、お客さまは、商売中ではないのですか?」
セレンが尋ねると、男は軽く笑った。
「今日は休みだ。たまたま通りかかっただけさ」
雨が小降りになり、片づけが終わった時、男は突然言った。
「君は、この前の疫病の時、病人の世話をしていなかったか?」
セレンの背筋が凍り、思わずひゅっと息をのんだ。
「……どうして、そう思うのですか?」
「……いや、見かけたような気がしただけで……」
男は遠くを見つめた。その横顔には、深い憂いが浮かぶ。
「あの娘は、本当に必死に人々を助けていたんだ。でも、誰にも認められていないようだった」
「……認められなくても、やるべきことをやっただけでしょうね」
セレンは思わずそう返していた。
男は振り返ると、じっと彼女を見つめてきた。
「そうか。それは立派だな……そうだ。もし嫌ではなかったら、これを貰ってくれないだろうか」
そう言うと、商人の男は、懐から銀細工に小さな宝石がついたペンダントを取り出した。
「まあ、綺麗な銀細工のペンダント。あら? それに随分と珍しい。空色の宝石なんて」
「加工するには小さすぎる上に、形も歪なため売り物にならない石なので、私の装飾品の試作を兼ねて貰い受けた物なのだが……それに、今言ったように、私が初めて手掛けた物なので恥ずかしいのだが……」
いいながら、ペンダントを興味深そうに見るセレンの右手を取って乗せた。
「それにしては、とても丁寧に作られていますね。すごく心が込もっているように感じます。どんな形の物であろうとも、贈る人を想って作るのなら、人によっては宝物になるんですよ。本当に私が貰っても良いのでしょうか?」
「ああ。もちろん。君に貰ってほしいのだ」
セレンがそっと、抱える様にペンダントを両手で受け取ったのを確認すると、男はほっと安堵した。
「……ありがとうございます。しっかり落としたり失くしたりしないように、大事に使わせていただきますね」
その時、遠くからアーサニクがセレンを呼ぶ声が聞こえた。
「セ……リン! 戻る時間だよ!」
セレンは慌ててペンダントを落とさないようにエプロンのポケットの奥に仕舞い込むと、男に、再度手伝ってくれたことも含めて礼を言い、兄妹に別れを告げて走り去った。
男は彼女の後ろ姿を、しばらく見送っていた。
「リン……か」
彼の呟きは、雨音にかき消された。
男の正体はむろん、変装した皇帝シルバーだ。彼はなぜか、街に出て「リン」という女の噂を聞きつけ、確かめに来た。そして、彼女がセレンであることに気づいた。
「なぜ、皇妃が自ら街に出て、屋台の手伝いなんかを?
それなのに……何故私は、採掘場の視察と調査で手に入れた、売り物にもならないとはいえ、希少な宝石を使った細工物を手渡してしまったのだろう……」
疑問は深まるばかりだ。しかし同時に、彼の胸中には、見知らぬ温もりが広がっていた。あの必死に病人の世話をする姿、雨の中でも笑顔を絶やさずに兄妹を助ける姿……
「だめだ」
シルバーは首を振ると、踵を返す。
「また騙されそうになる。気をつけなければ」
しかし、彼の足取りには、いつもよりわずかな迷いがあった。
*****
その夜。
宮殿の庭で、シルバーは1人立っていた。月明かりが、彼の空色の髪を銀色に染める。
突然、茂みから黒い影が現れた。マーキュリーだ。金色の瞳が、シルバーをじっと見つめる。
「お前もか」
シルバーは苦笑した。
黒豹はゆっくりと近づくと、彼の足元に座る。
「あの時、お前を連れて帰るとき、あの少年は、後ろ姿の肩で泣いていたのを覚えているか」
シルバーは無意識に、マーキュリーの頭をなでていた。
「『彼は君について行くことを選んだみたいだね』
と……そう言って、お前の頭をなでていた」
マーキュリーは低く唸ると、シルバーの手に頭をすりすりとすり寄せた。
「あの少年が、セレンだとしたら……」
シルバーの碧眼に、初めて迷いが浮かぶ。
「だが、そんな偶然があるはずがない。ダームスタチュムの王女が、国境の森に平民の様に髪を短く切った姿でいるはずがない」
彼は首を振ると、マーキュリーから手を離した。
「私はもう、騙されない。誰も信じない」
そう言いながら、彼の目は遠くを見つめた。その方向に木々の間から離宮の建物が見える。本来のセレンの部屋のある辺りだ。
マーキュリーは深いため息のような息をぐう~っとつくと、茂みの中に消えた。金色の瞳の最後の一瞥には、何か言いたげなものがあった。
シルバーは長い間、庭に立ち尽くした。心の中では、2つの思いが戦っていた。一方は、かつて傷ついた少年のままの、誰も信じられない皇帝の思い。もう一方は、街で見た「リン」の優しさと、十年前の少年の記憶が重なる、戸惑いの思い。
「セレン……」
彼の呟きは、夜風に消えていった。
*****
遠くの離れでは、セレンが窓辺に立ち、庭に立つシルバーの姿を見つめていた。彼女の赤い瞳には、複雑な感情が渦巻いていた。
「シルバー陛下……」
彼女もまた、同じように名前を呟いた。
2人の距離は、ほんの数百メートルしか離れていない。しかし、その間に横たわる誤解と不信の溝は、深く暗く、越えられないように思えた。
黒いベールの聖女と孤独な皇帝。その想いは、まだすれ違ったまま、埋まらない夜が続く。
月明かりだけが、2人の孤独を等しく照らし、やがて訪れるかもしれない理解の時を、静かに待っていた。
*****
帝国城の廊下を、洗濯籠を抱えた侍女が足早に歩いていた。
黒髪を簡素な3つ編みにまとめ、赤い瞳は下を向いて誰とも視線を合わせない。他の侍女たちは彼女を「リン」と呼び、新人で無口な娘と思い込んでいた。
誰も知らない。この「リン」こそ、帝国に嫁いできた皇妃セレン・フレロビュム・マイトネリュムその人であることを。
(黙っていてよ。見つかったら大変だわ)
《またあの掘っ立て小屋に戻るのか?》
小声で呟くと、足下から小さな唸り声が返る。黒豹のマーキュリーが、洗濯物に紛れて同行しているのだ。
セレンは苦笑した。
皇帝シルバーから「勝手に動くな」と言われてから数ヶ月。
元側妃クローリンとその一派の失態により、多くの侍女や侍従が追放され、人手不足が深刻化していた。それに加え、本来なら皇妃付きの侍女たちが担当すべき仕事も、悪女と噂の傲慢な皇妃の世話など余計な反感を買ったら面倒だと、誰もやりたがらないからだ。
だから彼女は自分でやることにした。
お仕着せを着て、ベールを外し、素顔をさらした「リン」として。
*****
厨房では、新しく雇われた料理人たちが慌ただしく動いている。
セレンは洗濯を終えると、自然な流れで厨房に入り、野菜の下ごしらえを手伝い始めた。
「リンさん、この香辛料の使い方、もう1度教えてくれませんか?」
若い料理人が恐る恐る近づいてきた。
疫病が収束した後、セレンが町で知り合った料理人たちの何人かが城内に採用されていた。彼らは「リン」が革新的な調理法や新しい調味料の知識に詳しいことを知り、密かに尊敬するようになっていた。
「そうね、このスパイスは最初に油で炒めることで香りが立つのよ。前──」
セレンは言葉を飲み込んだ。前世の記憶は、今でも時折口を滑らせそうになる。
「とにかく、こうするの」
実演しながら説明していると、厨房の隅で妖しい動きをする侍女が目に入った。その侍女は皇帝の食事に手を伸ばそうとしていた。
「待ちなさい!」
セレンが声を上げると同時に、マーキュリーが洗濯籠から飛び出し、侍女の腕に噛みつく。
侍女が落とした小瓶からは、青白い粉末がこぼれた。
「これは毒だわ!」
厨房が騒然とする中、衛兵が駆けつけ、侍女を拘束した。
後で分かったが、この侍女は、解雇された料理人の代わりに紛れ込んだ大公の暗殺者の1人だそうだ。
この事件がきっかけで、セレンは「毒に詳しい」と評価され、皇帝付きの侍女として抜擢されることになった。
*****
「お茶をお持ちしました」
皇帝シルバーの執務室で、セレンは頭を深く下げて茶器を差し出した。
空色の髪を束ねた皇帝は書類に目を通したまま、うなずいただけ。
セレンはほっと胸を撫で下ろした。これでまた1日、素顔がバレずに済む。
毒見役としての仕事は、彼女にとって何でもないことだ。ダームスタチュム王国で、隙間風の吹き込む馬小屋で暮らしていた頃、生き延びるために毒草と薬草の見分けを学び、少量ずつ体に慣らしていたおかげでもある。前世の知識とも相まって、彼女の毒耐性は並外れていた。
それに前世の記憶の中の小説で、皇帝も毒殺の危険があるのを思い出していた。以前は冷遇されるわ、勝手に動くなとか叱責されたので無視しようかとも思っていたが。
しかし城内に出入りする、ネズミや猫たちの会話と情報から、
《貴族派閥からの攻撃から守るためだったみたいだよ》
《だから患者たちを看病している数週間は邪魔をしてこなかっただろう?》
と。むしろ、
《貴族派閥からは、セレンをさっさと王国に送り返せ、って言われてる》
《自分の娘たちを正妃か、それとも失態した側妃の代わりに上げろとか言ってきてる》
《陛下は、皇妃はあくまでもセレンじゃないとダメだって突っぱねてる》
そんな風に貴族派閥たちの悪意から、守ろうと動いていたことも知ってしまった。
じゃあ、なぜわざと嫌われるような言い方をしたのか?
3年の白い結婚と離縁のために、わざと情が移らないように……?
その皇帝を、毒殺から守るためには良い役職に就いたと思ったのだ。
「陛下、東国からの使節団が到着しました」
宰相リードが入ってきた。桃金色の髪を整えた眼鏡の男性は、セレン扮する侍女に一瞥を投げたが、特に気にも留めない様子だ。
「通訳は?」
「1人しかいませんでしたが、風邪で倒れました。他に東国の言語が分かる者は……」
リードの言葉に、シルバーは眉をひそめる。
その時、セレンが小さく声を上げた。
「失礼します。私、東国の言葉なら少しは分かります」
2人の男性が一斉に彼女を見た。
「何故だ?」
シルバーが問い詰めた。
「ええと……独学で、異国から渡ってきた方がいて(渡り鳥や動物たちから教わったとはまさか言えないしな)……? 教えていただきました」
セレンは本当のことを部分的に話した。
「東国から渡られてこられた方(実は鳥なんだけどね)もおりまして、その方(鳥)から単語を……」
嘘ではない、言葉が足りないだけだ。マーキュリーをはじめ、動物たちとの心の会話は、言葉の壁さえ越えられた。異国の動物たちから、彼女はいくつもの言語を独学で習得していたのは事実なのだから。
*****
仕方なく、セレンは急遽通訳として使節団の前に立たされた。東国の王族たちは、流暢な自国語を話す侍女に驚き、同時に安心した表情を見せた。
外交会議が無事終わると、シルバーがセレンを呼び止めた。
「お前、町娘だったのでは?」
「はい、従姉が急病で、代わりに参りました」
セレンは早口で嘘をついた。
シルバーも、自分が商人に変装して会ったことがあるとは言えず、疑わしそうな目を向けたが、多忙なため追求せず、彼女を解放した。
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