23、孤独な皇帝?
◆孤独な皇帝シルバー
── コウモリと蚊による病は終息し、献身的なセレンの姿に人々の悪女の噂は薄れて行った ──
こうして疫病が去った街には、静かな安堵が広がった。
民衆の間では「黒いベールの聖女様」という囁きが、感謝とともに交わされていた。
しかし、その聖女と呼ばれる女性は、臨時仮設医療所の近くで、最後の患者が家族に連れられて行くのを見ながら、1人立っていた。
セレンのきっちりと結われていた長い黒髪はほつれ、夜風になびく。赤い瞳には、まだ疲労の影が残る。3日3晩、ほとんど眠らずに病人の世話を続けた結果だ。
「セレン様、そろそろ宮殿にお戻りになって、お休みになられては」
アーサニクが、温かいハーブティーを差し入れてくれた。焦茶色の髪を短く切り、男装を続ける彼女の橙色の瞳には、心配の色がにじんだ。
「大丈夫よ、アーサ。ただ……」
セレンの言葉は、突然響いた足音で遮られた。
そこに立っていたのは、皇帝シルバーだった。空色の髪は暮れ始めた空の光に淡く輝き、碧眼は冷たくセレンを見下ろしている。彼の背後には、近衛騎士団長モリブデン侯爵が控えていた。
「陛下……」
セレンが礼をしようとすると、シルバーの冷たい声が響いた。
「勝手に動くなと言ったはずだ」
その一言に、周囲の空気が凍りついた。
「今回は老教師の訴えで疫病を治められたが、2度と皇妃らしい真似事をするな」
シルバーの碧眼には、嫌悪の色が浮かんでいる。彼は1歩前に進み出た。背の高い彼の影が、セレンを覆う。
「手柄にしようとしたのだろう? いつものように、注目を集めようと民衆を利用したのか?」
「違います!」
セレンは思わず声を上げていた。赤い瞳に、初めて怒りの色が走る。
「ただ苦しむ人々を助けたかっただけです! それに、私が動かなければ、もっと多くの命が失われていたかもしれないと思って……」
「黙れ」
その一言が、セレンの心を凍りつかせた。
後から慌てて出てきた老教師が真実を説明しようとしたが、皇帝は聞き入れようとしない。
シルバーの声は低く咎めるようだに鋭くなった。かつて森で出会った、傷ついた少年の面影は、そこには見受けられない。
「お前には何もするな、と言っておいたはずだぞ。公務行事は側妃が……いまはその他のことも公務も愛人が全て熟してくれる。お前の役目は、ただ城の中で大人しくしていることだけだと」
セレンは唇を噛みしめた。ベールの下で、涙がこぼれそうになるのを必死にこらえた。
「でも、人々が苦しんでいたのです。見て見ぬふりはできませんでした」
「それが、皇妃としての判断か?」
シルバーの嘲笑が、セレンの胸を刺す。
「それとも、ダームスタチュムの姫としての自己満足か? 和平同盟と政略のためだけにここにいるお前に、民衆を救う資格などない」
「陛下!」
アーサニクが前に出ようとしたが、セレンがそっと腕を押さえた。
「……わかりました」
セレンの声は震えていたが、しっかりとしていた。
「2度と、皇妃らしい真似事はいたしません。城内に戻りますので。どうか陛下も、お帰りください」
シルバーは一瞬、言葉を失ったように見えた。彼の碧眼に、何か複雑な感情が走ったが、すぐに冷静に変わったようだ。
「そう心得よ」
皇帝は踵を返すと、モリブデン侯爵とともに去っていった。去っていく足音が、寂しげに響き渡って聞こえた。
「セレン様……」
アーサニクが声をかけると、セレンはゆっくりと首を横に振るう。
「大丈夫よ。もう慣れたから」
セレンはベールの奥で唇を噛みしめていた。彼女の赤い瞳に、1滴の涙が光るが、誰にも見られることはなかったようだ。
黒豹マーキュリーが影から彼女を見上げた。金色の瞳に映るのは、ベールに包まれた孤独な少女の姿。かつて救ってくれたその手が、今は誰にも触れられずにいる。
疫病は治まり、民衆の心はセレンに向けられ始めた。
しかし皇帝の偏見は深く、彼女は依然として掘っ立て小屋に閉じ込められたまま。真実を知る者と信じない者の間に横たわる溝は、まだ埋まらない。黒いベールの下で、セレンは静かに次の1歩を模索し始めるしかなかった。
*****
その夜。
老教師ジンク元侯爵が皇帝の執務室を訪れた。白髪の老医師は、琥珀色の瞳に深い憂いをたたえている。
「陛下、疫病の件について、一言申し上げたく」
シルバーは書類から顔を上げずに言った。
「老師、もう済んだ話だ」
「いえ、陛下。重要な誤解がございます」
ジンクは1歩前に進み出た。
「疫病のことを最初に訴えたのは、セレン皇妃殿下です。この老いぼれが気づいたのは、殿下が街の情報から聞いた話を伝えてくださった後でした」
シルバーの手が止まった。
「町の情報だと?」
「陛下はご存じないかもしれませんが、皇妃殿下は、時たま街に外出する度に、街の子供達や孤児院の状態、貧困街での情報などから、採掘場の奴隷たちの苦境を知ったようなのです」
「はっ! 皇妃が貧困街や孤児院だと? ご苦労なことだな」
シルバーは書類を置き、ようやく老教師を見た。
「老教師までが、あの女にいいくるめられたのか?」
ジンクの目に悲しみが浮かぶ。
「陛下……いつから、他人の話を聞かない独善的な君主になられたのでしょう? 私は70と余年、この帝国を見てまいりました。先帝様も、皇太子殿下も、誰の言葉にも耳を傾けられるお方でした」
「父と兄は、耳を傾けすぎたから殺されたようなものだ」
シルバーの声には、幾許かの激情が込められているようだ。
「叔父の言葉を信じ、彼に近づく者すべてを信用したからだ。だが私は違う。誰も信じない。特に、政略結婚で送り込まれた女など」
ジンクは深くすう~っと息を吸った。
「では、私の言葉も信じられないのでしょうか? この老いぼれが、何十年も帝国に仕え、陛下の父君をも治療したこの者が、嘘を申し上げるとお思いですか?」
シルバーは黙った。碧眼に揺れる感情は、怒りと迷い、そして深い孤独が入り混じる。
「……引き下がれ」
「陛下!」
「下がれと言った!」
老教師は肩を落とし、深々と一礼すると、執務室を後にした。扉が閉まる時、彼の嘆息がかすかに聞こえた。
シルバーは1人、ろうそくの灯りの中で机に向かった。手に取った書類は、疫病対策の報告書だ。そこには、セレンが病人のために提供した食事の記録、彼女が自ら調合した薬草のリスト、そして何日も続いた看病の詳細が記されていた。
「なぜ……」
彼の呟きは、誰にも聞かれない。
「なぜ、あの女はそこまでする?」
彼の記憶の中には、十年前の森の記憶がよみがえっていた。
傷ついた黒豹と、痩せこけた少年を助けてくれた、小さな少年の姿。彼は名乗らなかった。自分も名乗らなかった。ただ、彼の優しい手の感触だけを今でも覚えている。
「あの時の少年は……」
執務室の窓から、月明かりが差し込んだ。遠くの木々の中に、かすかな金色が見える気がした。マーキュリーの瞳の色か。
また皇妃のいる住まいにでも向かったのか……
シルバーは思わず立ち上がると、窓辺に近づいた。しかし、次の瞬間、彼は首を振り、机に戻った。
「だめだ。信用してはならない。また騙される」
彼は拳をぎゅうっと握りしめた。手のひらには、かつて叔父から虐待され、毒を盛られた時の古い傷跡が薄っすらと残っていた。
*****
一方、離れの部屋では、セレンが窓辺に座り、外の闇を見つめていた。膝の上には、黒豹マーキュリーの頭が乗っている。金色の瞳が、セレンを優しく見上げていた。
「黒豹様……あの時の少年は、今どこにいるのかしら」
セレンは黒豹の頭をなでながら、呟いた。
「あの時、名乗っていればよかったのかな。そうすれば、もっと早く会えるかもしれないのに」
マーキュリーは低く唸った。その声には、何かを訴える響きがある。
《彼は……疑心暗鬼に陥っている……》
「そうなの? でも陛下は……あの時の少年とは全然違うわ。あの子は優しかったもの。傷ついたあなたを心配して、一緒に泣いてもくれたのにね」
セレンの目に涙が浮かんだ。
「今の陛下は冷たいだけの人。私のことを何も知らないのに、悪女だと決めつけているし」
突然、窓の外で羽音が聞こえる。1羽のカラスが枝に止まり、セレンを見つめた。
《セレン、悲しいのか?》
カラスの声が心にも響いて聞こえる。
セレンは微かに笑った。
「少しだけ。でも大丈夫。もう金策の心配はなくなったんだけどね。あの兄妹達の保護者になる大人が他に見つかるまでは、また明日から、アイアン商会の手伝いに行かないとね。あの子達を手伝うって、約束してるから」
《あの兄妹は、元気だ。新しい食材の仕入れやレシピなんかも考えている》
「そう……良かった」
セレンは深呼吸した。赤い瞳に、新たな決意が灯った。
「陛下が私を認めなくても、私は私のできることをしよう。人々を助け、この帝国のためじゃなくて、困っている人の為に働きたいだけなのだもの。それが、たとえ皇妃としては認められなくても」
アーサニクが部屋に入ってきた。手には、温かいスープが入った椀を持っている。
「セレン様、もう遅いです。お休みになっては?」
「うん、そうするわ」
セレンはマーキュリーの頭から手を離すと、立ち上がる。ベールを脱ぎ、黒い長髪を解いた。
「アーサ、ありがとう。いつもそばにいてくれて」
「とんでもございません。私はセレン様の騎士です。いつまでも、どこまでも」
2人は微笑み合った。
小さな部屋に、ほのかな温もりが広がっていた。
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次の日。
セレンは再びベールを外すと、「リン」として街に出た。
アイアン商会の屋台では、ニッケルとクロムの兄妹が待ち構えていた。
「「リンお姉さん!」」
2人は飛びついてきた。セレンは笑って彼らを抱きしめた。
「元気だった? 新しいレシピを考えたんだって?」
「うん! おきゃくさんにすすめられるように、やすくておいしいものをかんがえたよ!」
クロムが得意げに言う。彼女の茶色の瞳は、希望に輝いていた。
セレンは屋台の手伝いをしながら、街の様子を観察した。疫病が去り、人々の表情は明るくなっていた。そして時折、耳にする言葉がある。
「黒いベールの聖女様、また来てくれるかな」
「あの方がいなければ、もっと多くの人が亡くなっていた」
「陛下も、あの方をもっと大切にすべきだ」
その言葉に、セレンの胸は熱くなった。しかし同時に、複雑な思いもよぎる。民衆の信頼は、皇帝の不信をさらに深めるだけかもしれないと。
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