22、ベールの聖女?
◆黒いベールの聖女
── 蝙蝠と蚊によるこの病は、老師ジンクが有益な治療法と薬草があると教えてくれたが、皇帝も宰相も頼れない。お前は動くなと言われていたセレンだが、皇帝が何処かへ調査と視察に出かけて戻ってくるのを待っていられない。老師や少ない味方の後押しで単身、疫病の患者たちがいる現場へ行き身を投じた ──
治療は広場の一角で開始された。
町医者や薬師たちが老教師の指示のもと、老教師とセレンが特定した薬草を調合していた。患者たち ── 多くは採掘場で働く労働者やその家族 ── が列を作った。
セレンはベールをかぶったまま、1人の老婆の前にしゃがみ込んだ。老婆は熱にうなされ、呼吸が浅かった。
「大丈夫ですからね」
セレンの声は自然に優しさを帯びていた。
「この薬を飲めば、すぐに熱は下がりますよ」
老婆はかすれた声で呟いた。
「あんた……本当に皇妃様なのかい?」
セレンの手が一瞬止まった。
「……はい」
「噂じゃ……悪い女って聞いたが……」
老婆の曇った目が、セレンのベールを見つめる。
「でも、手が優しい……」
その言葉に、セレンの胸が熱くなった。彼女はそっと老婆の手を握り返した。
治療は続いた。次第に、民衆の視線が変わっていくのを感じた。最初は疑いと敵意に満ちていた目が、少しずつ、慎重な信頼へと変化していった。
シルバーが遠くからそれを見つめていた。彼の傍らには、宰相リード公爵が立っている。桃色の髪が風に揺れ、眼鏡の奥の桃色の瞳が細くなった。
「意外ですね」
リードが低い声で言った。
「あの噂ばかりの皇妃が、実際に民衆の前に立ち、治療まで指揮するとは」
「指揮しているのはバークリュム元侯爵だ」
シルバーの返事は冷たい。
「そうでしょうか」
リードの口元がわずかに上がった。
「病の特定は皇妃陛下の功績だとも聞きました。しかも、彼女自らが患者に手を差し伸べている。これは単なる『お飾り』の行動とは思えませんが」
シルバーは何も答えなかった。その碧眼は、ベールをかぶった形だけの妻の姿から離れなかった。
夕暮れ時、治療の一段落がついた頃、セレンは1人で広場の端の井戸へ向かった。ベールとマスクを外し、水で顔を洗いたかった。冷たい水が、石で打たれた頬の熱を鎮めてくれるだろう。
井戸の傍らで、彼女はふと気配を感じて振り向いた。
黒い影が、彼女を見つめていた。
「黒豹様……」
黒豹がゆっくりと近づいてきた。金色の瞳が、セレンの赤い瞳を見つめる。
(心配しないでいいのよ)
セレンは心の中で呟いた。
《セレン、大丈夫?》
マーキュリーは低く唸り、頭をセレンの手に擦り寄せた。その温もりが、彼女の疲れを少し和らげた。
暫くセレンの姿を見ていたらしい黒い影 ── 皇帝シルバーは、また何か指示をしに去った。
やっと、誰もいないのを確認すると、セレンはさっさと汲みたての水で顔の汗を拭った。
ジンク老師も休憩しにやってきたらしい。
「薬草の調合と、治療方法を全て教え込んだ。後は町医者と薬師たちに任せても、余程の事がない限りは大丈夫じゃろう」
足腰をさすりながら、老医師はセレンの隣に座った。
「だが、油断は禁物だ。今日の一件で、お前をよく思わない者たちの警戒心はさらに強まったじゃろう」
セレンはうなずいた。彼女は知っていた。この戦いは始まったばかりだ。
「でも」
彼女はベールの端を握りしめた。
「今日、1人の老婆が……私の手が優しいと言ってくれたのです」
ジンクの顔に穏やかな笑みが広がった。
「それが何よりの収穫だ。民衆の心は、1度開かれたら閉じにくい。噂よりも、実際の行動がものを言う」
遠くで、ニッケルとクロムが手を振っている。2人の傍らには、護衛騎士のアーサニクが立っていた。焦茶色の髪を短く切り、男騎士の格好をした幼馴染が、親指を立ててサインを送ってきた。
セレンの胸が温かくなった。彼女は1人じゃない。たとえ皇帝が冷たくても、宮廷で孤立していても、彼女を信じてくれる人々がいる。
「さあ、戻ろうかのう」
ジンクが立ち上がり、手を差し伸べた。
「まだ治療を待っている者も、看病しなけりゃならん者もいる」
セレンはその手を取り、立ち上がった。夕日が彼女の黒いベールを赤く染め、その下の赤い瞳をさらに輝かせた。
疫病との戦いは続く。敵は蝙蝠だけではない。宮廷の陰謀、貴族の策謀、そして自分自身への疑念 ── すべてが彼女を待ち受けている。
だが、今日という日が証明したことがある。
彼女はもう、ただのお飾り皇妃ではない。
黒いベールの下で、セレンは静かに誓った。
たとえ石を投げられようと、罵声を浴びせられようと ── 彼女はこの手で、救える命を救い続ける。
そしていつか、ベールを外して、素顔のままこの帝国に立つ日が来ることを信じて。
*****
疫病の危機が収束し始めた街には、静かな安堵が広がりつつあった。
しかし、街の片隅に陛下主導の元、臨時で建てられた仮設医療所内では、未だ緊張が続いている。
その近くの調理場で、セレンは薄汚れたドレスの袖をまくり、大きな鍋をかき混ぜていた。うどんの湯気が彼女の額に汗を浮かべる。
まだ体の小さい背の低いクロムが下から覗いて気付いたのだが、目の下に深い隈が見える。
「え……こうひさまは、もしかしてリンおねえさん?……それに、ごえいのアーサニクさんも、サニーさんに似てる……」
「しっ! クロエちゃん。世の中には自分と同じ顔の人間は3人はいるそうじゃ。皇妃様やアーサニク騎士がクロエちゃんの知る誰かに似ていても、それは全くの赤の他人じゃよ」
すかさず、老師は、口に1本指を当てながら片目をつぶり、セレンに頷いて見せた。
「そうそう、クロエちゃん。さあ、あちらで甘いお茶を入れてあげるから、貴方もお手伝い休憩しようか」
アーサニクも、クロエを休憩所に連れて行ったが、小さい子供だ、いつかバレるかもしれない。
しかしセレンにとって、今はそんなことは些細な問題の様に、忙しく立ち回っていた。
そう。セレンは患者を甲斐甲斐しく、毎日寝る間も惜しまず目の下に隈を作って看病を手伝い続けていたのだ。
「殿下、もう休まれては?」
老教師ジンクが心配そうに声をかけた。
「大丈夫です。最後の患者さんが回復できるようになるまで、温かくて消化にもよくて、そして何より栄養のあるものを食べさせてあげたいだけなのですから」
セレンは微笑んだが、その笑顔には疲労の影が刻まれていた。
厨房では、彼女が披露する「初めて見る調理法」に、料理人や、協力を申し出た街の女性たちが目を見張っていた。
パスタに似ているが、もっと柔らかくて食べやすく短くしたうどんと湯がいた青い葉野菜。お粥には隠し味として少量の炒めた生姜を加え、病人の食欲をそそる。リゾットには干した小魚や茸の出汁を効かせる。
食欲と体調が戻り始めたら、お茶漬けに似た物に、山菜や、こま切れ肉を煮たものなどを少し乗せた。パンの固い部分を切り落とすのはもったいないが、柔らかい部分だけを使い、果物を柔らく煮た幾種類かのジャムや、野菜も食べやすく小さく切り、塩もみした物と解した干物の魚肉を混ぜて挟んだ白パンサンドなど、栄養を考え抜かれていた。
「もちろん。切り落としたパンの固い部分も無駄にしないわよ」
セレンは固くなったパンの端を集め、甜菜糖をまぶして油で軽く焼く。カリッとした甘いおやつができあがると、回復期の子供たちに配った。
「おいしい!」
「もっとほしい!」
子供たちの笑顔に、セレンの胸に温かいものが広がった。前世の日本で薬剤師として働いていた時、患者の食事の重要性を学んだこともある。身体を治すのは薬だけではない。心まで温まる食事が、回復を早めるのだと。
*****
治療が進むにつれ、患者たちは回復し、奴隷として虐げられていた者たちは解放された。
しかし、その疫病から回復した元奴隷たちの証言が、帝国に衝撃を与えることになった。
孤児院の院長アルゴンとローレンシュム公爵家が結託し、孤児や貧民を誘拐し、奴隷や娼婦として売り飛ばしていた事実が次々と明らかになったからだ。
皇帝シルバーは、証拠が揃うとすぐに行動に出た。
「アルゴン・サマリュム・フェルミュム、ネオン・テルビュム・ローレンシュム。両名の罪状は明白である」
法廷で宣告が下された。悪徳院長と公爵が着服し続け肥え太った私財はすべて没収。爵位は強制返上。広大な領地は、正直で実直な遠戚に割譲され、領民が困らないよう細やかな統治が約束された。
「孤児院はどうなるのでしょうか?」
セレンは宰相に尋ねた。彼女はまだベールをかぶったままだったが、声には確かな意志が込められていた。
宰相に説明を求めるセレンの姿を、シルバーが壇上から見つめた。空色の髪が窓からの光に輝く。
「新しい経営者を探すことになるでしょうね。皇妃殿下の提案通り、身体を故障した元冒険者や職を失った者たちを雇い入れることを、陛下も快諾してくださいましたよ」
セレンは深く頷いた。彼女は内職で稼いだ僅かな私財の幾らかを寄付するようにしたのだから。
老教師ジンクも
「老後の為に残しておく財産以外、使い道がないからのう」
と残りの全ての財産を、新しい孤児院のために投じて寄付してくれた。
もちろん、元院長や公爵が着服していた私産なども使われた。
かつて冷たく暗かった施設は、温かな家族のような場所に生まれ変わることだろう。
*****
疫病が終息してから1週間。街の広場では、最後の患者たちが退院の挨拶を、世話になった医者や薬師や町の協力者たちにしていた。
「皇妃様、ありがとうございます」
足を悪くしていた老人が、セレンの前にひざまずこうとした。
「おやめください」
セレンは慌てて老人を支えた。その時、風が吹き、彼女のベールが少しめれた。
広場に集まった人々が、一瞬息をのんだ。ベールの隙間から見えたのは、噂に聞く「悪女」の顔ではなかった。疲れていながらも優しい目元、病人のために寝る間を惜しんだ証の隈。そして何より、人を思いやるまっすぐな眼差し。
「あれが……皇妃様?」
「他の医者や世話を買って出た女性たちに混ざって、料理を手ずから食べさせてくれたんだよな」
「ずっと同じドレスを着ているじゃないか」
「確かに、3日前もあの薄汚れた青いドレスだったよ」
「夜中にそっとほつれたところを修繕していたんだ」
「どこが、散財して贅沢しているだなんていわれてるんだ?」
「苦しんで寝込んでる間、何か必要かと話しかけてくれて、きちんと耳も傾けてくれたし、ご自分のできる範囲内であればと、要望に応えようとしてくれたんだ」
人々が囁き合う。彼らは思い出した。セレンが病人の世話をしている間、いつも質素な服装で、宝石も豪華な装飾も一切身につけていないことを。
お飾りの悪女皇妃だと思っていたセレンを見直し、罵ったことを民衆たちは恥じた。
石を投げたことのある男が、群衆の中から前に出た。彼は震える手を握りしめ、セレンの前にひざまずいた。
「すみませんでした……」
声が詰まった。
「私は……皇妃様に石を投げました。悪女だと信じて……」
セレンは静かにその男の前にしゃがみ、視線を合わせた。
「立ち上がってください。過去よりも、今ここにいるあなたの方が大切です」
男は涙を浮かべて頭を上げた。
「皇妃様は、悪女なんかじゃない。そうまるで、女神様か聖女様のようです」
その言葉をきっかけに、広場に集まった人々から、感謝の声が次々と上がった。
「私の娘を救ってくださいました」
「あの食事がなければ、父は回復しなかった」
「殿下が毎日見舞いに来てくれたから、僕、頑張れたんだ」
セレンの目にも、熱いものがにじんだ。彼女はベールの下で、そっと唇を噛みしめた。長い間、嘘の悪評に苦しめられ、誰にも理解されない孤独を抱えてきた。この瞬間、その重荷が少しずつ軽くなっていくのを感じていた。
そうして民衆の目は変わった。
連日、寝る間を惜しんで患者の世話をしたセレン。いつも同じ薄汚れたドレスを着回し、贅沢とは無縁の生活。彼女が本当はどんな人物か、ようやく理解し始めたのだ。
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